「雪男」
雪男は寝ているところを起こされると非常に機嫌の悪くなるタイプの人間である。しかし、ここ数日は意図して眠りを浅くしている。
もともと雪男は眠りがそれほど深くない。そうなってしまったのはいつからだったか。おそらく小さい頃からすでにそうだったのかもしれない。
寝てる間に時折暗がりから見える悪魔達。幼い雪男にとってそれはとても恐ろしく、悪夢を見せることもあった。思えば、全ての始まりとなったあの小学校二年生の時、
自分は悪魔に対して一番怯えていた時期だったかもしれない。燐には悪魔は見えていなかったが、弟の自分が何かに常に怯えている様子はわかっていただろう。
そう考えると、あれらの原因はやはり自分の弱さだったのではないかと思う。
そうして祓魔師になってからは悪魔を恐れることはなくなったと思うが(少なくとも表面的には)、相変わらず深い眠りを貪った記憶はあまりない。
むしろこういう仕事をするようになってから、意図して眠りを浅くすることができるようになった。それは一重に悪魔に素早く対処するためであり、自分の身とそしてなにより、兄を守るためだ。
「…なに?」
だから、兄が胸に傷を負った日から、雪男は意図して眠りを浅くしていた日々が続いている。
ゆきお。また呼ばれる。それは吸い込まれていく、暗闇の中へ。そのはっきりとした呼びかけから寝ぼけているわけではない、と判断した雪男は、もう一度先ほどより声を上げて、なに?と向かいのベッドに
顔を向けた。メガネをかけても暗くてわかりにくい。そしてこの暗さがあれの作った空間を思い出させて、雪男は覚束ない足取りでベッドから降り、机のスタンドライトをつけた。
ちかちか、ぱちり。何度か点滅して人工的な白い明かりが部屋の闇を祓う。
「…なに?」
燐のベッドに近寄って上から覗き込む。燐は白い光に照らされる青を瞬かせて、まっすぐ雪男を見つめ返していた。
「…何か、見た?」
「わかんねえ」
「寒い?」
「…ちょっと、な」
その言葉を聞くや否や雪男はべろんと燐の被っていた布団をめくる。左胸の上にすでに丸くなっていたクロに、ふ、と笑ってから自身のでかい図体を潜り込ませた。おい、と
燐の焦った声が聞こえたが無視する。潜り込んだ先は温かくて、しかし一部分の冷たさをより感じ取れてしまった。雪男は燐の左腕を包み込むように自分の腕を回した。必然的に抱きしめるような形になって、
燐の体が強張るのがわかる。
「おい、いくらなんでも添い寝とか…せまいし!」
「じゃあどうして欲しかったの?」
「…そりゃあ…別に腕さすってくれるだけでもよかった」
「じゃあ、いいじゃないか。…一緒に寝るなんて何年ぶりだろうね」
やや強引に納得させようとする弟に兄は、うん?と首をかしげて現状の疑問へは思考回路が逸れたようだ。
「うーん、小学校2、3年生ぐらいまでは一緒に寝てたりしてたと思う」
「そうそう、冬とかさ、寒くて一緒にくっついて寝てたよね」
で、たまーに神父さんも混ざってきたりしてた。
ふと思い出したことも言えば、くく、と燐が笑って腕の中で身じろいだ。
「そうそうー、なんだおまえらあったかそうだな俺も入れろー、ってわけわかんねえこと言ってさ。で、寝る前のお話とかねだるとよくある子ども用のおとぎ話してくれるんだけど、
途中でいっつも色んな話混ぜちまってめっちゃくちゃになるんだよな」
「あー…そうだったねえ…」
懐かしいなーと呟く燐の吐息が腕にかかる。それは湿っていて妙に生々しかった。
「で、そのまま一緒に寝ちまうんだよな。狭いベッドで三人でさ。俺達は絶対壁よりでジジィはベッドの端ギリギリだったよな」
「今から思えばあれは僕達が、ベッドから床に落っこちないようにするためだったんだね」
そうして朝起きれば獅郎が床で寝てしまっていることもあったりしたものだ。狭いベッドの中で、寒い冬が訪れようとしていた時期に。壁際によって双子は獅郎の腕に包まれていた。
そうして獅郎と雪男に挟まれて寝るとき、燐はいつもこっそり獅郎の胸に耳を当てて心臓の音を聞いていた。
「ジジィの心臓の音ってさ…すげー静かであったかかった…」
左胸の上に丸くなっているクロがもぞもぞ動く。くすぐってえ、と燐が笑えば、にゃう、とクロは寝ぼけたまま鳴いた。
そして燐がころんと寝返りを打つ。クロは落っこちてしまったが身軽に跳ねてちょうどいい布団の隙間に逃げ込んだ。寝返りを打った燐は、そのまま身を乗り上げるように雪男の胸の上に崩れ落ちる。
「兄さん?」
「ちょっとだけ、いいか?」
雪男は、うん、と短く答えた。
燐は尖った耳を雪男の左胸に当ててじいっとそこから刻まれる音を聞いている。
「…おまえの音も、すっげー静かで、あったかい」
燐は軽く目を閉じる。
とくとくとく。
胸の上に乗っている兄の脈も弟に伝わってきた。
とくんとくんとくん。
それは確かに命の鼓動で、この人は確かに自分の片割なんだ、と強く思う。
「………」
「………」
しばらく二人は黙ったまま狭いベッドの中で寄り添いあっていた。その間も雪男の手が燐の腕を撫でるようにさする。それで何か効果があるかと言われれば、ないのかもしれないが、
なんとなく兄はこうして欲しいのだろうと弟はわかっていた。このままスタンドライトを点けたままでいいことも。
「…ちょっとこえーかも」
何が?と雪男は聞かない。自分達には結局、恐れているものは山ほどある。
「兄さん、気はしっかり持って」
うん、と燐が頷く。
「大丈夫、僕がいる」
「わかってる…おまえも、大丈夫だからな、俺がいる」
不安なのは燐だろうに、何故今そういうことをいうのか雪男はその意図を掴めないでいた。撫でていた腕にするりと燐の腕が絡まってベッドが狭いため間近にある兄の顔が、穏やかに弟を見ている。
「…ジジィはもういねーけど…」
「………」
「俺がいるからな」
ぎゅっと手を握られる。ほとんど反射的に握り返した。
「おまえを独りにはしねーから、だから何も心配するな」
兄さん、何を言って、と雪男が全ての言葉を紡ぐ前に、ばちん、と弾かれたようにスタンドライトが、消えた。
来い、来い、来い、来い。私のもとへ来い。
全ての準備は整った。
私はきっとこの日のためにこの冷たい暗い夜のためにあの汚泥の底に、救いなどない場所に沈んでいたのだ。おまえは私の絶望を知り、私はおまえの「愛しいもの」を知る。
よこせ。全てが欲しい。おまえだけなど許さない。絶対に許さない。ああ、見てみろ今夜は月も出ていない。真の闇の中で私はおまえの全てを見ている。
おまえも気付いているだろう?一歩一歩近づく私に。襲い来る寒さと冷たさと欲望。絶望。羨望。飢餓。執念を。そうだ、ここからは悪魔の領域だ。いや正確には悪魔に成りそこなったもの同士の領域だ。
来い来い来い来い、私のもとへ還ってこい。おまえは私の心臓になるのだ。私の体になるのだ。そうして完全な悪魔と成ったとき私は、父のもとへ還れるのだ。そうだ父上、父上、父上。
…………?
はて、私は-----------------------------
みしり、ぎしり。
古い壁を伝い木造でできている部分から、じわり、と油のように染み出してくる。ずるずる、と這い出たそれは、片割れを辿って蠢いていた。どろどろに溶けた底に埋まっている憑依体が、ぐう、と呻いたが「それ」は構うことなく
、ぎしり、ぎしり、床の隙間を縫っていく。どろどろどろり。汚らわしい泥が覆っていく。
暗くなったと同時に燐は素早く携帯を手に取りメールを送ったようだった。雪男は一瞬確認できたが、宛先はあの白い悪魔である。そして、燐は倶梨伽羅だけ背負うとすぐに部屋を出て、雪男もコートにあらかじめ武器も用意してあったのですぐに後を追った。クロもすぐに起きて燐の後を追う。
兄の背中を追う間に携帯でシュラにも連絡しようと、携帯を取り出し、シュラの番号にかける。旧男子寮に、と一言告げようと思ったが、繋がる前に携帯が不自然に切れた。ぶつん。何故か圏外になっている。兄さん、と言えば、シュラへはもう俺が送った、と返事があった。
いつの間に、と雪男は驚いたが事態が急を要するので特に深くは考えなかった。しかし、燐のメールも送れたか怪しいが、
あの道化のことだ届いたとしてもまともに動いてくれるかわからない。だが、彼にも立場というものがある以上、最低限を心得てくれているだろう。
寮は闇に包まれている。
カーテンを引いてもいない廊下の窓の向こうが一切見えなかった。それは月が出ていないからというわけではなさそうで、窓に墨を塗りつくしたように真っ暗だったのだ。
あの時と同じだ。今雪男は兄の背だけを追って闇の中を走れている。倶梨伽羅を抜いていないのに、燐の体には青いヴェールを纏ったかのように、ぼんやりと、
青が浮かび上がっていた。あれが兄の血脈の中に流れる悪魔の炎(血)なのだろうか。雪男はそれを道しるべにして走る。走りながら銃の安全装置を外した。
「寮ごとぶっこわしてもメフィスト文句いわねーかな?」
「どうかな…一生かけて修理代支払えって言ってきそうだよね」
「うっわ…じゃあやめとこー。ま、どーせ、ここぶっこわしてもあれは離れてくれねーさ」
そんな会話も現実からひどく離れたところで交わしているかのように思える。
すでに寮があれの覆う範囲内ならばこれから駆けつけてくるシュラ達が入ってこれるかわからないが、旧男子寮も伊達にかつての寮として建てられたわけじゃない。
きっとどこかにあれも見逃している出入り口はあるはずだ。その辺りはシュラ達に任せるしかないが。
がちゃり。燐がたどり着いたのは屋上であった。外に出る。冷たくなってきた秋の深い風が、ごお、と入り込んできた。外も真っ暗で空を見上げても星ひとつ出ていない。
足元でクロが、うう、と唸った。
しゅ。刃の音を立てて燐が倶梨伽羅を抜いた。ぼう。悪魔の全てを創り出す炎が屋上に灯る。
綺麗だな。と雪男は思う。人の視覚も役には立たないだろうこの闇の中で、燐は全てを照らし出す。おどろおどろしい虚無界の底に君臨する原始の悪魔の血と力を引き継ぎながら、
どうして燐の炎はこんなにも清らかになるのだろうか。
雪男はその答えをすでに知っている。
きっと兄さんだからだ。
「…おい!!」
どこともわからぬまま燐が叫ぶ。
「俺はここだ!!お望みどおり来てやったぞ!」
じん。と燐の若い声が響く。呑まれていく。
「おまえの欲しいものはここだ!」
「……--------------------」
何か人ならざるものの吐息を聞いた気がした。
「真っ向勝負といこうじゃねーか!だからこそこそ隠れてねーで出てきやがれ!!……フータを返しやがれ!」
「---------------------------」
ずずずずずずずずずず、ずる。
一体どこから湧き出てくるのだろう。コンクリートの床からあれが、虚無界の底に沈んで腐って溶けたものが。
少し離れた場所で、ずるり、と巨大な梟の羽が這い出てきた。
「兄さん」
「…来るぞ、雪男」
濡れたように輝く青い刀身を前にかざす。兄の横に並んで銃を構える。二人は逸らすことなく、変わり果てた梟の姿をその目で見た。
2012.2.6