あ゛ー…あ゛ー…
ずるり、と泥の中から出てきたときにまず初めに燐と雪男が見たものは、青く輝く丸い目。その次に、全身が闇の中から出てくる。だらんとだらしなく広げられた羽を、ずるずる、引きずり、
以前見た時よりも一回り膨れ上がった体。燐と雪男が知っていた頃の梟の羽毛とは異なり、水分を失くしてぼさぼさに逆立っていた。
歩く度に抜け落ちていく。コンクリートの床を踏むと、がきがきがき、と鉤爪で引っかく音が聞こえた。くちばしから垂れる紫の舌から唾液が流れ、
床に落ちていく。それは黒に染まっていた。 青い二つの目玉は飛び出しそうなほどに見開かれ、瞬きを忘れてしまったかのように二人を凝視している。しかし、
それは数秒だけで、目玉は、
ぐるん、とあちこちに動き回り焦点が定まらなくなった。
左胸からは以前よりも肥大した肉の塊が、びくびく、蟲の大群のように蠢いている。筋肉の繊維が不規則に脈打っていた。
あ゛ー…あ゛ー…
くちばしから渇いてしゃがれた鳴き声が聞こえる。その鳴き声から、もう声帯がダメになってしまっているのだろう、と雪男は予測した。そんな梟から目を逸らさない兄の横顔を見る。
燐は、ぐっと、口を結び吊り目をさらに吊り上げて梟の零れそうな目玉を見つめ返していた。しかし、梟はもう燐を見ていない。梟自身も何を見ているのか、わからないのだろう。
燐の唇が、自分が創ってしまった哀れな悪魔に与えた名を紡ぐ。
それが梟に聞こえていたかどうか。雪男にはわからなかった。ただ梟を粘り纏うタールの塊の中に、確かに兄の燐を見ている何かがいることに気付く。
「------------------」
雪男にはわからなかったが燐の耳がぴくりと動いたことを見ると、何か言葉を発したのだろう。足元のクロも大型に化けるとそわそわと落ち着きなく、爪でコンクリートを引っかいていた。
「…雪男、下っ!」
途端、燐が叫んだ。
ばきん、と床を壊して下からタールが溢れてきたので、避ける。それで火蓋が切られた。固い床をものともせず、蛇のように這いまわり、捕らえようとする。
雪男は腰に下げていた聖水の手榴弾を片手で二個取り出すと、一つを足元に、もう一つは本体に向かって投げた。ぶしゅ、と霧のように聖水が飛び散る。
梟の膨れ上がった体に見事命中し、じゅわ、と茶色の羽とそれに纏わり憑いているタールが酸をかけられたように溶け出した。ぎい、と悲鳴が上がり、ひるんだ隙に燐が跳躍し倶梨伽羅で切りかかった。
梟の体にではなく黒いタールに。際限のない青い炎を纏った刀が、タールを切り裂く。ごう。燃えた。梟のものではない別のモノの悲鳴を雪男も聞いた気がした。燐が巧く炎を操っているのかそれはタールだけを燃やし尽くす。
「雪男、フータの体はやめろ!傷つけるな!」
「でも兄さん、そんなこと言ってられないよ、それにあれ、見て」
先ほど聖水で爛れたはずの羽の一部がもう新しい傷ひとつない羽に生え変わっていた。やはりあれも悪魔なのだ。回復力はおそらく燐に匹敵する。
しかし、雪男は、丁度いい、と残酷にそう思った。燐はあれはフータなのだからと傷つけるのを拒んでいるが、すぐに回復するなら多少の遠慮はいらない。
燐よりも長く悪魔と対峙してきた雪男は、こういうところで容赦など一切持たない。隙を見せれば取り込まれるのは自分自身だ。
未だフータの体のことで戸惑う燐もそれを見て、多少は仕方ない、と腹をくくったようだ。だが燐は優しい。体を傷つけるのを極力さけようとするだろう。ならば自分がやればいい、と雪男は銃を迷いなく梟に向ける。
燐の炎で燃やしたはずのタールはもう梟の体を覆っていた。
「やっぱりキリがなさそうだな…!」
今の燐になら梟の体は避けてタールだけ燃やすこともできるだろうが、みたところあれは梟の内部にまで深く及んでいる。本当にあれを祓って梟だけ助ける方法があるのか。
上から下から右から左から。ぞうぞう、とあれが湧き出て確実に標的を捉えて襲ってくる。クロがまとわりつくそれに食いつこうとしたが、クロそれを口に入れるな!という燐の警告を聞いて、爪やしなやかな腕と足でなぎはらう。ばん、と雪男も発砲するが、
一瞬、ゼリーのようにくだけてもすぐに元に戻ってしまう。やはり、これも悪魔だ。銀の弾はタールには食い込まず貫通してしまうのであまり効果がないのだ。
それでも撃った直後は相手の動きは鈍くなる。カラの弾薬が一定のところまで落ちていくのをいつの間にか慣れてしまった感覚でとらえて、
素早く弾倉に弾丸を込める。ポーチにはいくつか魔法(マジック)弾も用意していたが、果たして何が効果があるのか。
ざんっ。倶梨伽羅を振るい鮮やかに舞う燐が、タールを切り裂いていく。雪男の銃で撃たれたときと違い、刀で切られた途端、ごう、と青く勢いよく燃え出し、消滅していく。
悪魔的な脚力で梟の体を四方取り囲むタールを確実に切っていく。月も星も。でていない真っ暗な夜。今、空を見上げている暇など二人にはないが、もし見上げていたら夜空の異常な静けさと暗さに気付いていたはずだった。
正直、雪男にはほとんど何も見えていないが、燐の青が目印となり、また闇の中でも嫌に輪郭がはっきり浮かび上がってくる梟は見失うことはなかった。
「フータっ!」
燐が梟の名を呼ぶ。焦点の合わない目は、その時、ぐるん、と動いて燐を捉えたのに雪男は気付いた。ごう、と燐に向かってタールが襲い掛かる。燐は宙を跳ねながらそれを切るが、間に合わない分は雪男が正確に狙いを定めて
撃った。その間に雪男の背後に襲い掛かったものはクロがなぎはらった。
「フータ、聞こえてるんだろう!?」
梟は動き回る燐を、首を180度に回しながら視界から逃すまいとしている。それは燐の呼びかけに応えているからではない。あれが燐を視界から離さぬように、梟の首を動かしているのだ。
「なあ、聞こえてるのか!?」
聞こえてはいるだろう。だが、今の梟にはそれに答えられるだけの意志がないのだ。何人も、悪魔に憑かれ意識を乗っ取られた人間を見てきた雪男にはそれがわかった。
「兄さん、今は何を言ってもダメだ!それより、あれをどうにかしないと!」
雪男は悪魔憑きになった人間のことを燐よりは知っている。中に入った悪魔に自分の意志を奪われまいと戦える人間もいたが、それはそういう人間のために呼びかけてくれる他の人がいてくれたからだった。
父親、母親、兄弟姉妹、友人、恋人。それらの声を目印にして必死にたどり着こうと自分の意志を保てる人間がたまにいるのだ、と獅郎が言っていたことがあった。
だが、今のフータには何が届くだろう。
何か、何か、フータの気付くきっかけがないと。
そう思うものの、燐の呼びかけには答え切れない。それでも、時折、あ゛あ゛、と鳴くところを聞くと返事だけは必死に返そうとしているようだ。
燐が辛そうに目を細めた。
雪男も思い出す。燐とそして雪男が名前を呼べば必ず振り向いて返事をした梟を。
その懐かしい回想も瞬間で雲散する。雪男は、何か足元に違和感を覚えた。コンクリートの床のはずなのに嫌にぐらぐらしはじめ、安定感がない。
「…兄さんっ!?」
「え、ってうわああ!?」
どこん。二人とクロの足元が凹んだかと思えば、がら、っと床が大きく崩れた。
一瞬の浮遊感。落ちる、と思ったときにはクロが雪男の右足を寸前で掴み、燐は自力でまだ床の崩れていない昇降口に近い場所まで飛ぶ。
「雪男、大丈夫か!?今行く!」
「大丈夫、クロが掴んでくれてる!」
だがクロのいる足場も悪い。床は大きく崩れ、寮のすぐ下の部屋が見えたが何階か突き抜けてしまっていた。ぽっかりと、大きな穴が口を開けて待っている。
その時、ぐっ、という燐のうめき声が聞こえた。
「兄さん!?」
逆さの体制からわずかに体を起こすように上を見れば、梟が大きな羽を広げて飛翔していた。引っかかれただけだ!という燐の言葉とおそらく刀で鉤爪を弾いた音。
「クロ!早くひっぱりあげて!」
ぐう、とクロはうなりながら、足場が今にも崩れそうな中、ふんばって雪男を引き上げた。雪男が引き上げられたと同時に、クロのいた足場が崩れかけたが、クロが雪男の体を押し上げて、救い出す。
「クロ!?」
下にも潜んでいたのだろう、間一髪雪男を引っ張り上げたのに、それに気を取られたクロの足にタールが絡み付いていた。それを振り払おうとしたとき、床が耐え切れずまた抜けた。にゃあ!?とクロの叫び。
クロはタールに纏われたまま突き抜けた下の階まで落下してしまった。どしん、とクロの体が打ち付けられた音だけがする。底は見えない。
「……っ!!」
今すぐクロを助けに行きたい衝動を抑えながらそれでも雪男はクロを信じて、兄を助けに向かった。大きな羽を羽ばたかせて、鋭い鉤爪と強力な握力を持つ足が燐を襲っている。
燐の頬や腕や胸の服が切り裂かれていた。雪男は熱くなる頭を数秒だけ沈静させながら、しっかり銃を構え、撃った。
『ぎいい!?』
雪男の銃の弾は正確に、左の羽の付け根から少しずれた箇所を貫通。次いでもう一発。そちらも右の羽の同じ箇所。
翼膜という飛翔するための重要な腱のある部分を撃たれ、ぐら、っと梟の体が傾いた。飛行能力を失ったのだ。しかし、鉤爪が崩れていない床を掴む。
雪男は梟が体制を立て直す前に、走り、燐の腕を掴むと屋上へと昇ってきた昇降口の扉を開けると、
「兄さん、目を閉じて、耳をふさいで!」
ポーチから素早く黒い筒状のものを取り出すと、ぴん、と安全ピンを抜く。そのままそれを屋上に向かって投げた。燐もそれを見て、目を閉じ、耳をふさぐ。雪男も、扉に自分と燐の身を隠し目を閉じ耳をふさぐ。
かっ!と扉の向こうで凄まじい閃光が発せられたのがわかった。
目を瞑って扉越しに背を向けていても、瞼の裏にわずかに届く。同時に、耳をふさいでも鼓膜が痛くなるような高い音。
『ギャアアアアアア!!』
梟の悲鳴。
そして、突き抜けた穴の部分に落下する、ずしん、と底に落ちた音。
「な、なんだ今の!?」
ぱちぱち瞬きをし、耳に指を突っ込みながら燐が叫んだ。
「祓魔用に改良したフラッシュバンだよ。兄さんにはあまり影響のないようにはしておいたけど」
「…おまえ、銃だけじゃなくてなんつーもん持ってるんだよ…」
「備えあれば患いなし。梟は夜目は効くけどそのせいで光には極端に弱いんだ。聴覚も普通の鳥類より優秀だ。でも音の方は期待できないな。
あれが前に大声で鳴いたとき自分自身には効いてなかったから、あのタールが耳に入り込んでいたのかもしれない」
屋上に出れば、やはり大きな穴が開いていて、突き抜けた底が見えないほどだった。
「そうだ、クロは!?」
一匹と一羽が落下した真っ暗な底ではすさまじい猫の威嚇する鳴き声と梟のしゃがれた鳴き声が木霊してきた。
「くそ、行くぞ!下だ!」
燐ならばそのまま穴を落ちても平気だろうが、雪男はそういうわけにはいかない。燐は雪男の体を腕で掴むと、そのまま崩れかけた床の部分をつたいながら下まで降りていく。
「なんで床抜けたんだ!?そんなにボロかったかこの寮は!?」
燐に抱えられながら雪男は崩れた部分を見ると、そこは、酸性雨に解かされたコンクリートのように溶解していた。まさか。
「腐敗してる…」
そんな、採取したときは腐食性なんてなかったはずなのに。
「クロ!」
抜けた底までたどり着けば、すでにクロは体中に引っかき傷を作りならがぐったりと転がっていた。体も元の小ささに戻ってしまっている。小さな腹が苦しそうに上下に動いていた。
「クロ、どうしたんだ!」
クロを抱き上げれば、おえ、と小さな口から吐しゃ物が出てきた。それでもぱくぱく口を動かして燐に何か訴えている。
「…黒い煙を吐いてそれを吸ったら気分が悪くなった、って言ってる…」
「黒い煙?」
なんだそれは、雪男は咄嗟に頭をめぐらしてとある悪魔の特徴と言い伝えられているものを思い出す。腐の王、アスタロト。あの悪魔は酷い悪臭を持った毒の息を吐くと言われている。
またそれの眷属である悪魔にもそのような特徴を持つものも多い。現に不浄王もそのタイプだ。
「どういうことだ、あいつは何の力もないって…」
「…悪魔を食ったとき、魔元素の力まで取り込んだのかもしれない…」
クロの体に注射を打ち込む。腐の王の眷属に侵されたときのために使用するものだ。小さな体がびくりと跳ねたが、すぐに呼吸も整った。にゃあ、と弱々しく鳴いてそれに燐が泣きそうな顔をして笑ったことから、おれはだいじょうぶ、と言ったのかもしれない。
クロの手が闇の深い廊下の向こう側を指す。あれはその方向に逃げたようだ。さすがにクロと戦って雪男にも羽を撃たれ、さらに閃光で目を潰されたので回復までに時間がかかるのだろう。
燐が、その先を見据えている。
「兄さん、あれは」
「…大丈夫だ、どこにいるかわかる」
呼びかけてるんだ。
クロがよろよろと立ち上がった。何か燐に鳴きかけているが、燐はゆっくり首を横に振る。クロは大きな声でにゃあと鳴いた。
「おまえはもういいよ、クロ。…でもまだやれるっていうんなら、次は勝呂達を助けに行ってやってくれ」
「待って、兄さんそれどういうこと!?」
「…新寮の方にもいるんだ。あれは俺が大事にしてるもん全部が憎くて仕方ないんだ。許せないって何度も言ってた。だから…。ほんと根性捻じ曲がったやつだ」
だが燐は不敵に口の端を上げていた。
「兄さん?」
「でもあっちは大丈夫だ。勝呂達とシュラに任せた」
だから大丈夫だ、と信頼しきったその言葉に、雪男は中学の頃、ずっと独りだった燐を少し思い出した。友人もいなかったあの兄が、今、友人達に守るべき場所を預けている。
神父さん。と雪男は、もし今、獅郎が燐のこの顔と言葉を見ていたら聞いていたら、どれだけ喜ぶだろう、と思った。
「そうだね、あっちはシュラさん達に任せよう」
だから雪男も迷うことなく兄についていける。自分を置いて行く兄の背中を追うのは嫌だが、こうして並んでいてくれる兄の隣にいるのは、悪くない。
クロおまえは小さいからどっかの隙間から抜けられる、と燐はおそらくあれの気配のない細かな場所を察していたのだろう、厨房のダクトなら大丈夫そうだからそこを抜けていけ、と言えば、クロは頷くと走っていった。
「行くぜ、雪男」
「兄さん、あれはどこに?」
がちゃん、と弾倉に火の悪魔の属性を持った魔法(マジック)弾を込めた。効果があるかわからないが少なくとも腐の魔元素を持つなら多少は効くはずだ。
雪男の問い、燐は、顔をわずかに歪める。
「…602号室だ」
あれは、本当に燐の思い入れのある場所を知っている。
燐と雪男は先ほど出てきたばかりの602号室の前にいる。床も壁も真っ黒なタールが張り付いて蠢いていた。なのに襲ってこない。おそらく待っているのだろう。
燐がフータを助けたいことも燐にしかあれが始末できないこともあれは知っている。獲物は待っていれば自ら来るということをわかっているのだ。
扉の向こうから吐きたくなるほどの異様な気配を感じる。悪臭、腐の王の特徴。また肉の腐った匂いは様々な悪魔から奪った心臓の臭い。
「兄さん、あれ、どうやって倒すの?」
数秒の沈黙の後、燐は、わからん、ときっぱり答えた。こんな時だというのに、雪男は肩の力が抜けてしまう。
「あのねえ…」
「実際、対峙してみねーと、もうわからねーんだ」
「少なくとも交渉とかクロの時みたいに話し合いの通じる相手じゃないよ、だからバカなことだけはしないで」
「……」
燐はそれ以上何も言わなかった。交渉や話し合いなど、悪魔相手に通じるほうが稀なのだ。そういう悪魔はクロのようにもともと人間側にいたものか、それとも己に益がある場合のみに上級悪魔が頷くだけ。
じゅわ。扉の隙間から何か赤黒い霧のようなものが染み出てきた。
「…これって、」
氣の王、アザゼルは「肺と皮膚を血色に染める穢れた空気」から。おそらく氣の王の眷属にもこのような特徴を持つ悪魔も多いのだろう。雪男は口元を腕で覆った。
まるで肺に血の塊が溜まっていくように、重い空気だ。中はどうなっているのだろう。わかるのはこの扉の向こうが完全にあれの領域内だということだけだ。最初の教室での出来事のように。
ごほり、と雪男はわずかに咳き込んだ。
「雪男…」
「大丈夫、さっき瘴気には多少耐えられるぐらいの薬は打ったから」
こんな時、心底、人間の体が嫌になる。しかし、燐はどれだけこの脆弱な人間の体でいたかったのだろうか、とふと雪男は考えた。
「なあ、雪男」
燐が真っ直ぐ雪男を見ていた。こんな闇の中でも光を失わない青い目が、赤い瞳孔が。この世のものではないかのように、綺麗だった。
「さっきも言ったけどさ、俺、おまえを独りにはしねーから」
「…兄さん?」
その言葉を不思議に思い、銃を構えていた腕をわずかに下ろす。
その隙を狙ったかのように、どん、と雪男は気がつけば廊下の向こうに押し出されていた。
体が廊下に投げ出されて、天井を見た。手から銃が離れて、かしゃん、と音を立てる。
「何を!?」
咄嗟に上体を起こせば、そこにはすでに602号室の扉を開けている燐がいた。
「兄さん!」
雪男は体を起こし兄の元へと駆け寄るが、
「…おまえを独りにはしねーから」
ダメだ、兄さん行くな!すべてがゆっくりと流れたように思えた。
「だから、何も心配すんな!」
ばたん。
燐の手を掴む寸前に、無情にも、602号室の扉は閉められた。
「…わりぃ、雪男」
あれが旧男子寮を覆ったと気付き、あれが、来い、と呼びかけたときからこうすることはわかっていた。
ベッドの布団の中で、雪男に呼びかける前に決めていたのだ。
602号室はすでに人間がいても耐えられないほどの赤黒い霧と悪臭などに満ちていた。メフィストから聞いた虚無界の空気やら土地やらもきっとこんな風に穢れきっているのだろうか、と思った。
そこが自分の始まりの地であるとも言えるのだと思うと、やはり自分は人間にも悪魔にも成りそこなった存在であるのだ。
燐の机に飾ってあった、少女のくれた黄色い花が見えたが、それもすぐに闇に覆われてしまう。足元もあるはずなのに、本当に切り離された空間にいるようだった。
ここは本当に602号室なのだろうか。しかし、燐の鋭い嗅覚が捉えるわずかな自分達の生活の臭いに、安堵した。この場所を選んでくれてよかったかもしれない。
ここなら、きっと。
「てめーは、何を望んでる」
静かな声で、それに呼びかける。
「てめーの中は今、すげえぐっちゃぐちゃだ、自分でもわかってんだろ?」
「----------------------------」
「…雪男は、交渉や話し合いなんて通じないって言ってたけど、でも俺はてめーに対してそうは思わない」
「----------------------------」
「おまえの、欲望はなんだ?こうしてわざわざ二人きりになってやったんだ…出て来い」
ここからは「できそこない」もの同士の領域だ。
2012.2.12
アスタロトとアザゼルの特徴は資料から参考にしたものとまったくの妄想の産物のものを混ぜてますので…。
フラッシュバン(所謂、閃光弾)のシーンはベタですけど書きたかったから書いた。