梟の骨 26

 

『そっちは頼む』



それだけで充分だ。







志摩が目を覚ましたのはすでに深夜2時を過ぎた頃である。なんや嫌に暗いなあ、と起こされたときまず思ったのはそれだ。
「志摩さん」
熟睡していた志摩を揺り動かして起こしたのは子猫丸だった。彼は懐中電灯で志摩の顔を照らしていて、志摩は起きぬけなので非常にその明かりが眩しく感じ、 布団を頭まですっぽりと被った。しかし子猫丸がそれを阻止して布団を奪い去る。寒い。
「もー、なんですの子猫さん…トイレなら一人で行ってください〜…」
ピンク頭をぼりぼりかきなかがら体を起こすと、違います!と懐中電灯の光の中で子猫丸が憮然としていた。そこで志摩は。あれ?と思う。なんだか異様に暗い。 子猫丸も部屋の電気をつけずにわざわざ懐中電灯を取り出しているあたりもおかしいが、そもそもこんな時間に起こされるのもおかしい。
「なんかあったんですか?」
「なんや、厨房でボヤやって。生徒は全員大講堂に一時避難やってさっき理事長の校内放送ありましてん。志摩さん全然起きへんから」
マジで、と志摩は寝ぼけ頭が一気に冴えるのを覚える。慌ててベッドから降りてスエットだが避難ならば仕方ない。しかし、暗い。懐中電灯では心許ないので電気をつけようと手探りで 壁際を辿ってスイッチをつけたが、電気はつかなかった。
「電気ダメです。僕も何回かやったんですがつきません。懐中電灯ならなんとか」
「えーなんですのそれ!?ボヤな上に停電ですか?」
「おまけに携帯も調子悪いんです。切れたりついたり。志摩さんのはどうですか?」
志摩も自分の携帯を確認すると、確かに圏外になってり電波が戻ったりと不規則な状態を繰り返していた。俺のもダメみたいや、と言えば、子猫丸は、そうですか、と不安そうに眉を寄せる。
「おん、早う出るで。もう他の生徒も避難始めとる」
にゅ、と子猫丸の背後から寝起きだろう前髪がばさあと顔にかかった勝呂が出てきたので、志摩は思わず、うお、と叫んでしまった。勝呂は手で適当に前髪をかきあげて、 はようせい、と自らも懐中電灯を持ち…何故か祓魔用の小道具を取り出してリュックにつめ背に負う。それに志摩と子猫丸は首をかしげたが、おまえらも聖水ぐらいはもっていけ、と言われ子猫丸は慌てて携帯用の聖水瓶を机から取り出した。 候補生でももしもの時のために簡単な祓魔道具を持つことを許可されている。そのせいもあって本来四人部屋のはずの新寮でも使っているのは勝呂と志摩と子猫丸の三人だ。
「ちょお、坊、待ってください、なんでそんなもんいるんですか!?」
志摩もスエットのポケットに聖水瓶を入れながら問うが、勝呂は黙ったまま。部屋を出た。二人はついていくしかない。まだ廊下にはちらほらと避難を始めている他の生徒もいた。 異様に暗い中、みんな懐中電灯を持って覚束ない足取りで不安そうな顔で大講堂へ向かっていた。しかし、志摩はぎょっと驚く。勝呂が大講堂とは反対の方向へ歩いていくからだ。
「坊、そっち違いますよ!?」
子猫丸も慌てて止めよとしたが、こっちでええんや、と勝呂は言う。その懐中電灯に照らされた険しい顔を見て、志摩は察した。
「…もしかして、悪魔関係ですか?」
自分でそう言って志摩は気付く。この暗闇はあの正体不明の悪魔と対峙したときの、教室の暗さと同じだ。勝呂は、おん、と頷く。
「まさか、これから倒しにいくとか言いませんよね!?」
「そのまさかや」
「坊〜本気ですか!?」
そういいながらも部屋を出るとき念のため仕込んでおいたキリクを、さっそく組み立てる。子猫丸もすぐに数珠を取り出した。一般の生徒はすでに全員大講堂に向かっているのか、しん、とした人気のない暗い廊下に、 三人の足音だけが響いている。早足の勝呂に並ぶように志摩が走る。勝呂は本気のようだった。
「ちょっと待って待って!坊、俺らでは無理ですって!先生方にまかせたほうが…それに奥村君は知ってはるんですか!?」
勝呂は一度立ち止まると黙ったまま携帯を取り出し、しかし、圏外になっていることを確認すると、舌打ちをする。
「奥村も知っとる。そもそも奥村から直前にメールきたんや。おまえらの携帯にも送られとったとはずやけど、もう携帯つかへん。どうせあいつのことや。女子には『逃げろ』っていうてるやろうけど」
志摩と子猫丸も携帯を再び確認するが、確かに圏外だ。いじってみてもうんともすんともいわなかった。おそらく燐は志摩たちにもメールを送っていたのだろうが、 二人が気付く前に携帯が使えなくなってしまったのだ。なんてきてたんですか?と子猫丸が問えば、
「あの泥みたいな奴のいる場所と、あと『そっちは頼む』って一言だけや」
勝呂は再び廊下を歩き出す。その足は間違いなく厨房に向かっていた。
「…あいつ…やっと『頼む』っていいよったわ」
二人に聞こえるか聞こえないかの呟きだったが、しかし、志摩にはしっかりと聞こえていた。あの正体不明な悪魔のことを頼むなんて奥村くん無茶言うなあ、と正直、志摩は思ったが。勝呂の声に場違いにも嬉しそうな何かを感じたので、 仕方ないなあ、と苦笑いするしかない。
「厨房に一匹、他には寮のダクトとか使って移動しとるらしい。奥村が理事長にもそのこと連絡しとるんなら、何匹かは先生方がなんとかしてくれるやろ。 それに、たぶん俺らのところに来るから、人のいるところには行くなってことや。だから大講堂にはいけん」
「え、あんなのが何匹かいてはるんですか?」
一体のあれだけでも何にもしようがなかったのに、大丈夫なのか、と志摩は背筋が寒くなる。一般の生徒もいなくなったところで、勝呂は、伽樓羅を呼び出した。 ぼうと赤い光が舞い、小鳥のような伽樓羅が現れ、ちょこん、と勝呂の頭の上に乗る。その光で懐中電灯はいらなくなったので懐にしまう。
『嫌な感じがするな、竜士』
きょろ、と猫のような目を動かして伽樓羅が廊下の向こうを見ていた。
『あれの領域に入ればあれをどうにかするまでもう出られないぞ、それでも行くのか竜士?』
「おん、行く」
勝呂は一秒の迷いもなく答える。それを見て、坊はずっといざという時のために決意してたんかな、と志摩は気付いた。携帯の燐からのメールにすぐに気付いたのもそれだろう、ということは。
「…坊…もしかしてあれからずっといざという時のために携帯握って寝てました?」
「………」
沈黙は肯定と志摩は取る。
「…どうりで最近寝不足気味で機嫌悪いなあ思った…ほんま変態ですね」
「やかましい!もう行くぞ!腹据えておけや!」
こんな時だというのに、照れ隠しに怒鳴る勝呂に笑いたくなったので本当に笑った。子猫丸も口に手を当てている。ほんとにこの人は変態や、と志摩は思う。 でもそれもこれも奥村君がこの人振り回してしまうんやからほんま不思議な子やなあ、とも。











かちゃ。ゆっくりと厨房への扉を開ける。厨房全体を覆われてしまえば、出られなくなる可能性があるので、扉は開けたままにしておく。 昼間は学食の調理などで使用されるため拭いきれない食事の臭いがした。同時に消毒の臭いも。 無駄に広い新寮の厨房は、銀色に輝くシンクと最新式の調理器具がいくつか設置されている。昼間は活気に溢れているだろうに、夜中のそこはただ冷たく不気味だった。 ボヤがあったという話だが、それらしい様子はない。おそらくメフィストが一般の生徒を避難させるためにボヤだと言ったのだろう。 伽樓羅の赤い光がひどく頼もしい。伽樓羅と勝呂が呼べば、わかった、と伽樓羅は勝呂の頭から離れると厨房の真ん中まで飛んで、かあ、と光を強くした。 全体が赤く染まる。しかし、シンクなどに隠れた隙間には拭いきれない闇が綿ボコリのようにふきだまっている。
「…油断すんな」
言われなくてもわかっているが正直、恐くて仕方ない。キリクを脱ぎる手が汗をかきはじめていた。勝呂も子猫丸も拳を握って数珠を持つ手がわずかにだが震えているように見えた。
教室で遭遇したあれを思い出す。あれには底冷えさせる何かがある。伽樓羅の発する光でも拭えない闇。そして放つ冷気のようなもの。
かしゃん。
どこかで金属のものが落ちる音がした。志摩はごくりと唾を飲む。音は反響してよくわからないが、伽樓羅にはわかったらしい。小さな翼で音の方を指し示す。そこに行けば、 調理道具のボウルが落ちていた。
「…なんやびっくりさせ」
志摩がすべて言い終わるまえに、背後で子猫丸の悲鳴が響いた。
「うわあ!」
「猫!?」
「子猫さん!?」
見れば子猫丸の背にあの黒いべとべとしたものが覆いかぶさろうとしている。志摩は、咄嗟にキリクを振り子猫丸の頭上を覆おうとしていたそれを振り払った。 しかし、それはべったりとキリクにはりつくと、ずずず、とキリクをつたってくる。その様がまるで太った芋虫のようで志摩はぞっと鳥肌が立った。
「伽樓羅、燃やせ!」
ぼう、と伽樓羅の火が飛び、器用に子猫丸の体には当たらないように火で燃やす。何か人の耳では判別できない叫びのようなものが聞こえ、子猫丸の体からタールがはがれた。 どぷり、ずるずる。 粘菌のように床に投げ出されて、伽樓羅に焼かれた部分がじゅわと煙を上げる。とても不快な臭いがした。腐った肉を焼いたみたいだ。そのタールの塊は教室で見たものほどではなかった。 少し大きめな水溜り程度だが、液体のように床に広がると、壁を覆い始める。
『奴の領域になるぞ。ここから出ろ!』
密室になってしまえばこっちが不利だ。
伽樓羅の警告に三人はすぐに厨房を出る。あれが背後から、ずずずず、と追ってくるのが振り向かなくてもわかった。志摩はポケットから携帯を取り出すが、やはり圏外だ。 ぼた。バックライトで白く光る画面にタールの雫が落ちてきて、廊下の床や天井を見れば隙間という隙間からじわりと油のようにタールがにじみ出ていた。
「−−−−−−−−−−−−−−−−−」
よくわからない言葉が聞こえた気がした。
瞬間、ごう、と勝呂の頭上ぎりぎりに澱んだ赤い炎が飛んだ。振り返ればタールのそれがまるで泥人形のような形を取って、所々、ちりちり、炎を発している。
そんな罠にかけようとしたときはあんなのなかったのに。子猫丸もそれが火を使うとわかると、聖水を取り出し走りながら背後に投げた。じゅう、と蒸発する音が聞こえたが、それだけだ。
「なんやあれ、炎使うんか!?」
『奴が食った火の王の眷属の力だろう』
ごう。また火の玉が飛ぶ。伽樓羅が自らの炎でそれを弾いた。あんなものは触れたくない、と伽樓羅にしては珍しく険しい。
「坊ーなんか作戦あるんですか!?まさか何も考えてはいとかおそろしいこといいませんよ、ねっ!」
キリクで飛んでくる火の粉を払いながら志摩が叫ぶ。三人とも足には自信はあるが、未知のものに追われているという恐怖が次第に呼吸を荒くさせていた。すぐに肺が苦しくなるのは、何も走っているだけではないだろう。 背後から腐ったものが焼ける臭いがした。煙が充満しはじめていて、勝呂達は自分の体に聖水をかけながら走る。これで火の粉は多少威力を抑えられる。
「奥村やないんや!それなりに考えてある、行くで!」
勝呂の後を追う間に、かなりのスピードでそれは追ってくる。伽樓羅が炎で払っても執念深く。三人を。
「伽樓羅、あれをしばらくどうにかできるか!?」
『我をなんだと思っている。あんな下級悪魔程度から奪った仮初の炎には負けん』
すでに炎は天井を舐めるように這っていた。志摩の足元に追いついてきたので、聖水瓶を床に投げつける。あとなんかあったかな?!と走りながら考えるも、懐にはもう何もなかった。
「坊、聖水なくなりました!」
子猫丸も同じだったらしい。
「いいから、走れ!」
勝呂が持っていた最後の聖水瓶を投げる。背後の惨状などもう見たくもない。腐ったものの焼ける臭い、壁や床の焼ける臭い。頭がくらくらしてくる。シャツで口と鼻を覆うが 煙を吸ってしまう。酸素が薄くなってくる。がくん、志摩の足から力が抜けた。その一瞬の隙にタールが志摩の足に絡みついた。
「うわああ!」
「志摩!」
勝呂が引きずられようとしていた志摩の腕を掴む。その勝呂の腕を子猫丸が掴むが、二人ががかりでもどんどん引き寄せられていく。
どこか遠くで、狂ったように嗤う声が聞こえた気がして、おまえの大事なもの全部奪ってやる、という底知れない憎しみが絡みついたタールから伝わってくるように感じた。 志摩は必死で足を動かし払おうとするが、びくともしない。伽樓羅が炎で払おうとしたが、タールは伽樓羅を襲い始めた。伽樓羅はこれ以上炎を食われたら消滅する、と叫ぶと伸びてくるタールから逃れるが、 炎で弾いてもタールはそれを飲み込んでしまう。
「うわああ、坊、子猫さん!手、離さんといて、離さんといてえ!本当やったらここで、俺は置いていけ、って言うのがかっこいいのかもしれへんけど、俺そんなこと言える人間やあらへん!」
「んなこたあわかっとるわ!離すか、ドアホ!」
頭上から炎が溶岩のように落ちてくる。すでに回りは火の海だ。赤い光が目に肌に痛い。熱い。それなのに寒い。それなのに、暗い。
もうだめや!
志摩がきつく目を閉じたとき、ぶわ、と三人の頭上に大きな黒い影が覆うと、志摩を軽々持ち上げタールから引っ張り出した。
目を開けてみれば、それは巨大化したクロだった。
「クロ!来てくれたん?」
志摩の襟を咥えたまま、クロは、にゃあ、と子猫丸の言葉に応えると、襲い掛かってくるタールを爪ではじいた。何を言っているか勝呂達にはわからないが、はやくにげて、と言っているに違いない。
咥えた志摩を放り出すと、クロは果敢に燃え盛る炎の中を飛び込んでいった。クロ!と叫ぶ子猫丸の腕を引っ張って、勝呂は、クロに任せろ!と再び走り出す。志摩も震える足を必死に奮い立たせた。
『…あの猫叉、おれはおいてさきにいけ、と言っていたぞ』
ぐさ、っと胸を貫かれる気分だった。志摩はバツが悪そうに頭をかく。子猫丸が心なしか冷めた目で、志摩さんってほんと猫さん以下ですねえ、というのは聞かなかったことにした。
「…ったく奥村のやつは…そんなに俺らのこと心配か…!」
走りながら悪態をつく姿に、志摩は頭がくらくらしながらも、ふっと、笑みが漏れた。
「そりゃあ心配でしょう。俺らどうしたって、非力ですもん」
「そうやけど…!あー…!そうや非力や!結局、不浄王の時も、最後はあいつに頼りっぱなしやった!俺はそれが悔しい、悔しいんや!ったくあのドアホ! そのうち絶対強おなってあいつが悔しがるぐらい助けてやるからな!」
それを本人の前で言えばいいのに、と思うが、それを言えないのが勝呂だ。勝呂も大概不器用な性格をしている。
背後を見れば炎は天井を走っているがあのタールの塊は見えなかった。クロが抑えていてくれるのだろう。
三人は寮の階段をどんどん降り、地下と思わしき場所まで来た。 じめっと湿った空気の纏わりつく、暗い場所。伽樓羅の炎が照らせば奥にはさらに扉があって「A濃度聖水貯水槽」と表示されている。そこまで三人が駆け寄れば、何故かそこにはシュラとしえみと出雲までいた。 シュラ達は全身ずぶ濡れだった。駆け寄ってくる勝呂達を見て、驚愕に目を見開いている。
「おまえら、避難してなかったのか!?」
シュラが叫んで、怒ったようにずんずんと三人に駆け寄ると、ぐいっと、勝呂の腕を掴み、貯水槽の扉の前まで引っ張っていく。志摩たちもそれを追い、とりあえずお互いの無事を確認しあった。 しえみ達はずぶ濡れ状態だが怪我はなさそうだ。
「ったく無茶しやがって!あれに追われてきたのか!?」
「そうです、なんや火の力持ってました!聖水の貯水槽に放り込めばええと思って、ここまで!」
その言葉につまりは自分達自ら囮になって貯水槽まで誘導したということか。志摩はげんなりする。シュラはそれを聞くと、勝呂達とは別のルートから来たのだろう、 向こう側にもう一つあった扉を睨んだ。勝呂達と同じようにここまでおびき寄せて聖水の貯水槽に放り込もうと考えたのだろう。
どんどん、と向こう側から何かが叩く音がする。勝呂達がくぐってきた扉からもだ。伽樓羅が炎の壁を創ったので扉はまだ持っているが破られるのも時間の問題だろう。
「…くそ、こっちは水の魔元素を持ってた。おかげでもう少しで溺死させられるところだったよ。剣も大して効かないし、キリがねえし、しつこくアタシ達を追ってくるしで、 おかみさんだけ他の講師に任せてここまでおびき寄せた」
シュラは忌々しそうに言い放つ。
「燐から直前にメールが来てな、祓魔屋に向かってるあれがいるから杜山達を助けてやってくれって。慌てて祓魔屋に行って杜山とおかみさんを助けにいったらさ、何故か神木までいやがるんだから、みんなを助けながら逃げるの大変だったんだぞ」
睫の長い丸い目が出雲を睨む。出雲は、ふん、と腕を組むと、
「だってあいつ、私には「友達を連れて逃げろ」ってメール送ってきたのよ。冗談じゃないわよ!私だけ除け者にしようとして!」
つん、とそっぽを向く。そしてその隣のしえみも珍しく怒ったような表情だった。
「わ、私だって…燐達の役に立ちたいから、ついてきたの」
いつもはツンツンした出雲の態度を柔和させるしえみだが、今回ばかりは出雲と意見は同じらしい。ずぶ濡れになった着物の袖を握って、唇を噛んでいた。 燐のしたことは彼らしいといえばそうなのだろうが、これは後で女子達に責められるだろうな、と勝呂は思った。まあ、それぐらい怒られておけばいいのだが。
シュラは濡れた赤い髪を掻き揚げながら、どんどん、と叩かれ変形して破られそうな扉を睨む。左右の扉から火の悪魔を食ったものと水の悪魔を食ったもの。もう抑えられないぞ、と伽樓羅が叫ぶ。
「行くぞ」
シュラは貯水槽への扉を開けた。ごう、と水の冷気を纏った空気を肌に感じる。貯水槽の中はコンクリートで囲まれた円柱の空間。幅、奥行き、深さも相当なものだ。底にはA濃度の聖水が並々とたまっている。 ここに落せばひとたまりもないだろう。何百リットルというA濃度の聖水がダメになるが知ったことか。 ただ今は、底は真っ暗でまるで大量の墨のようだった。足元から風が吹き抜けてくる。
どん!
背後で扉が破られる音がした。
「来いおまえら!」
しかし、足場などほとんどない。転落防止のためのわずかなものしか。シュラは塾生達を先に扉をくぐらせ、胸に仕舞っていた魔剣を取り出す。
「坊、この後、どうするつもりなんですか!?」
「この後は、」
「杜山!さっき逃げてる途中で打ち合わせたとおりで行くぞ!」
子猫丸と勝呂の会話を遮ってシュラが叫ぶ。はい、といい返事が返ったきた。その返事どおりうまくいけよ、とシュラは不敵に笑うと魔剣を構える。
ずる、と。最後の扉を抜けてどろどろした原始の悪魔が這い出てきた。密閉された空間ではこちらの不利になることは知っているが、壁にもべったりと聖水の気配の濃いここでは、 簡単に悪魔の領域は創れないだろう。現にそれは壁を伝うのと戸惑っている様子が見られる。しかし、目も口も鼻もない、ただの泥のようなのに、こちらをじっと見据えているように思えるのだ。 ずる。タールの体からはぼうぼうと炎が噴出し、また、だらだら、と穢れきった水が流れていた。なんてまとまりのない醜いやつだ、とシュラは相手を嘲るように目を細めた。 骨も肉も何もない。ただ、どろどろした汚泥の塊。その様子からやはり憑依体を持った本体は燐達のところにいるのだろう。
ぐわ、と波のように襲い掛かってきたそれを魔剣ではじく。ぎい、と悲鳴を上げたのは魔剣だった。触りたくないあれに触りたくない、という嫌悪感が伝わってくる。 それはシュラも同感だ。

ゆるさない。

それに触れた魔剣からシュラに伝わるわずかな声。しゃがれて潰れた哀れな悲鳴だった。

うらやましい、ねたましい、にくらしい。

「おーおー…悪魔の負の感情っていうのはいつ感じても酷いもんだにゃあー」

シュラは今まで何対もの悪魔と対峙し、そして祓ってきた。だから今でも生きている。やつらは実に様々な姿をしていて、 様々な魔力で様々な甘言で人を惑わす。人を傷つける。時に人の味方になってくれるものもいる。何一つとして同じものはいなかった。
だが、奴らの本当の姿というのはこのようにどろどろした形も何もないものから、始まっているのかもしれない。きっと、人間もそうなのだろうか、とシュラは考えた。ならば、人と悪魔の境界線はどこにあるのか。

愛されなかった私を捨てて愛されるなんて許さない。うらやましいねたましいにくらしい。私にはない全てを手に入れた私の片割れが。 うらやましいねたましいにくらしい。にくいにくいにくいにくい…?

そして人でもなく悪魔でもない燐の境界線はどこにあるのか。燐を人の側にとどめているものは何であるのか。
考えるまでもないか。
「…てめーにアタシの弟子を…獅郎から預かったものは渡さない」
あれから底知れない憎しみと怒りと嫉妬と飢餓と執念が、膨れ上がってはじけ飛ぶ。タールが大きな口を開けるように、燐の大切な者達に襲い掛かった。
シュラはその瞬間にわずかな足場を魔剣で叩く。
がらっとタールの足場もろとも崩れた。一瞬の浮遊感。こうするしかないのだ。奴が自分達を狙っていることは事前の燐のメールで知っていた。だから自分達でギリギリまで引き寄せて、 貯水槽へもろとも身を投げる。
醜い泥が、悲鳴を上げた。
「杜山!」
重力に従って落ちるとき、シュラの声にしえみは緑男を呼び出すと、
「にーちゃん!」
と叫んだ。飛び出してきた小さな緑男は、にー、と鳴いて答えると小さな体で壁に張り付き根っこを生やすと、体から蔦を出現させ、落ち行くシュラ達の体を掴んだ。 ぐい、っと引き寄せる。落ちていくのはあのタールのみ。

ばしゃん!

水に打ち付けられる音と共に、大音量の叫びが貯水槽に響き渡った。悲痛で哀れな断末魔。同時に鼻がもげるほどの腐臭がした。
「にーちゃん!ありがとう!」
緑男は蔦で救い上げた全員を上の扉まで引っ張り上げる。正直、しえみとシュラ以外が青ざめた顔をしていた。志摩など、俺落ちる瞬間走馬灯見えました、と弱々しく呟いていた。
「…というか、坊!杜山さんおらへんかったらどないするつもりだったんですか!?まさか、あのまま自分達も聖水の中に、あのバケモンと一緒に泳ぐつもりだったんですか!?」
「………」
沈黙は肯定と取る。というかきっとあれを貯水槽に放り込む以上のことは考えていなかったのだろう。 マジかーと志摩は脱力して座り込んでしまった。その姿を情けないわね、と出雲に言われたのでキリクを杖にしてかろうじて立ち上がる。女の子の前で腰が抜けた姿など晒せない。 意地でも。
「ほんと杜山がいてよかったな、おまえら。あれと一緒に泳いじゃあ、それだけで病気になっちまうよ」
シュラはタールの悪魔が落ちた聖水の底を睨む。しばらく、ばしゃばしゃ、と足掻いていたが、やがて大人しくなり、じゅわ、と黒い水蒸気が立ち込めて来た。 何百リットルとあるはずの聖水が全て重油のようになってしまっている。しかし、聖水だけで始末できたのはあれが本体ではなかったからだ。 本体がもしもっと力をつけていたら、聖水程度では太刀打ちできないだろう。シュラは扉を閉めると念のため祓魔の札を貼り、封印した。事後処理はメフィストにでもやらせればいい。せいぜい貯水槽の掃除に追われればいいさ。 とシュラは笑うと、息をついていた塾生達に向き直った。
「アタシはこれから、旧男子寮に行く」
え、と何人かが声をあげる。
「おそらくあっちに本体がいる。燐と雪男が踏ん張ってるはずだ。アタシは応援にいくけど、おまえらはどうする?ここに残って事後処理をするか、」
「行きます」
間髪いれず勝呂が答えた。頭には伽樓羅が再び戻っていて、正気か、と顔をしかめている。悪魔にはこのような人間の無茶は理解できまい。
「私も行きます!」
しえみの答えに続くように、出雲も、私もです、と。子猫丸は頷き、志摩は…若干顔を引きつらせながらしかし女の子の手前逃げ出せまいと同じように、行きます、と消え入りそうな声で答えた。
「よし、決まりだ。くれぐれも無茶はすんなよ」
このセリフ、本当はあの双子に言ってやりたいのだが。

燐、雪男。

獅郎の遺した双子。どちらも相当な無茶をすることは身に染みて理解している。特に兄の方。またとんでもないことをして、弟を煩わせていなければいいんだけど、と。











「あの、バカ兄!!」
どん、と閉ざされた扉を蹴るもびくともしない。銃で撃っても同じだった。黒いタールに覆われ完全なあちら側の領域になっている。
「くそ、あのバカ、あのバカ!バカだバカだとは思っていたけど…なにもこんな時にまで…!」
置いて行くなと言ったのに。
わかっている。人間の自分にはどうしても入り込めない部分があると知っている。いくら人とか悪魔とかハーフとか、考えないようにしていても、どこかに決定的な違いがあるんだ。 そこに人間である自分が入れないのもわかっている。だけどそんな理屈、クソ喰らえだ、と雪男は血が出るほど拳で扉を叩いた。
「…兄さん!!」
そんな理屈、クソ喰らえだ。普段から理屈っぽいと燐やシュラに言われる雪男だが、だけど、
「兄さん!!」
自分たちは、兄弟、なのに。
ずる、と座り込んでしまう。ぜえぜえ、と吐き出す息がもう苦しい。腐臭も毒の霧も廊下に満ちていてあと数分もいられないかもしれない。
悔しい。
目が熱くなる。顔に熱が集まるようだ。
「兄さん…!」
雪男は扉に縋りついた。これ一枚を隔てて兄がいる。数時間しか違わないのに、父親も母親も同じなはずなのに、双子の兄弟のはずなのに、生まれた頃から自分達には埋められない違いがあって、 間に走っている深い溝がある。
「兄さん…頼む!開けてくれ!」
けれど、その溝があるのなら、飛び越えればいいだけの話だったんだ。
兄さん頼む開けて、確かに僕達では背負っているものも課せられた運命も違うかもしれないけれど、それでも一人でどうにかしようなんてそんなこと、もう許さない。 僕がいるじゃないか。こんなに側に。

「……フータ…」

唐突に、雪男は頭に思い浮かんだ梟の名前を呼んだ。思えば、今までずっと梟の名前を呼ぶことを避けていたように思う。ヘタな情を持たないように無意識だったのだろうか。 再び立ち上がり、扉を睨む。
「フータ、頼む開けてくれ!!」
燐が呼びかけたとき確かに答えようとしていた。ならばそれに賭けるしかない。まだわずかにでもフータの意志が残っているなら。
「フータ!頼むここを通してくれ、フータ!兄さんを助けたいんだ、守りたいんだ!だから、だから…フータも兄さんを助けてくれ、頼む!」

僕を、兄さんのところまで通してくれ!



ほう。



耳元のすぐ側で、梟の鳴き声を聞いた気がした。















双子は梟のことを「フータ」と呼んだ。 どちらが名づけたかは定かではないが、フクロウのフータ。 フータはとても賢い梟であったらしく知性を乗せた青い目で、フータ、と呼ばれれば必ず振り向いて、ほう、と鳴いた。
『フータ、フータ』
『お、なんだ、そいつに名前つけたのか』
子ども部屋で梟と遊んでいたとき、養父が顔をのぞかせた。燐と雪男がフータと呼べば必ず振り向いたのに、試しに獅郎が、フータ、と呼んでも梟はつんとそっぽを向いているだけだった。 獅郎は苦笑いをした。
『しかしフータか、かわいい名前だな、誰がつけたんだ?』
獅郎の目が交互に双子を見る。燐はきょとんとしていたが、雪男は何故か顔を赤くすると兄の背中に隠れてしまった。それを見て、燐は、にこっと笑うと、

『んーっとね、雪男だよ!雪男がフータって名前つけたんだ!』

と、背中に隠れる弟を引っ張り出してまるで自分のことのよに自慢した。そうかいい名前だな、と獅郎ははにかむ雪男の頭を撫でた。



ほう。



梟は、燐と雪男にフータと呼ばれると必ず振り向いて、うれしそうに青い大きな目を輝かせていた。











2012.2.19