『ぼくたちはほんとうのお父さんもお母さんもいないから、かえるお家なんてないんだって』
近所の公園の滑り台の下。膝を抱えて雪男がしくしく泣いている。だれにそんなこと言われた?と燐も雪男の隣に座り込んだ。
ようちえんの子。と雪男が答え、燐はその時確かにそんなことを言ったやつを殴ってやりたいと思ったが、養父の肋骨を折ってしまった事件の後だったので、
ぐっとその衝動を呑み込む。
『…ほんとうの父さんと母さんがいなきゃ、家にかえっちゃいけないのか?』
『ようちえんの子はそう言った』
頭のいい雪男なのでそれがただ残酷な子どもの言葉であるだけだとわかっていただろうけど、それでもどうしてか心は揺れる。それは燐も同じで、そっか、と膝を抱えた。
時刻は19時を過ぎていて、幼稚園から帰ってきた途端どこかへ逃げ出してしまった雪男を追って燐はここに来ていた。獅郎はどこかへ出かけていて修道院には燐と雪男と数人の修道士しかいなかったのだ。
自分はともかく雪男が修道院から逃げ出してしまうのは初めてではないだろうか。燐は今頃自分達を必死で探してくれているだろう修道院の人達のことを考えたが、すぐに雪男を引っ張ってかえろうという気にはなれなかった。
燐も同じことを思ってしまったのだ。
そのまま雪男がしくしく泣いて、その隣で燐は黙ったまま座り込んで、しばらく経ってから二人は手を繋いでいた。
寒いね。うん、ちょっと寒い。おうちかえりたいね。うん、かえりたい。でもぼくたちかえっていいのかな?…わかんねー。
公園の街灯では頼りなくて、二人を闇だけが包んでいた。にいさんこわいよ。自分から逃げ出したくせにその闇の暗さに弟がさらに泣き出した。燐も少し恐くなっていた。
あの深い暗闇の向こうから、何かが手招きしているように思えたのだ。さあおいで。そこはおまえ達には生きにくい世界だよ。何かがそうやってざわざわ囁いているような気がしていた。
『…よかった…ここにいたのか』
滑り台の下で縮こまる双子を見つけたのは、やっぱり獅郎で。
しくしく。
惨めなか細い鳴き声が聞こえる。視界は真っ暗で急に五感の何もかもを失った気がして、燐は雪男はどこだろう、と手を動かそうとしたがそれも叶わない。
ほう。
ただ目の前に梟がいる。燐と雪男が知っていた頃の梟のままだった。綺麗な茶色いふわふわした羽を持って、青い目で穏やかにこちらを見ていた。ほう。もう一度鳴くと、梟は、
ちょんちょん、と逞しい足で跳ねて時々羽ばたいて、燐をどこかへ連れて行こうとしている。燐は迷わずついていく。梟はたまにこちらを振り返って燐がついてきているのを確認していた。
しくしく。
か細い鳴き声が近くなってきた。だんだんと燐は自分の体が見えるようになっていた。その身からは青い炎が相変わらず噴出している。しかし周りの闇は晴れない。
ふと、横を見ると雪男がいた。雪男もこっちを見て、驚いたのか目を見開いている。お互いの姿が確認できるようになったのだろう。ここどこだ?と声に出したつもりだったのだが、
音にもならない。いや、自分の耳が機能していないかのようだった。それは雪男も同じだったらしく、首をかしげている。
しくしく。
泣き声の元へ梟がたどり着いた。
それはちょうど小さな子供の形をとったらしい黒い塊で、顔がない。吸い込まれそうな黒い塊がただ子どもの影のようにゆらゆら揺れて、泣いている。
縮こまるその塊の左胸にはぽっかりと穴が開いていた。子どもの形をとったそれは虚空の胸を押さえて泣いている。その子どもを覗きこむように梟が青い目を瞬かせていた。
なんで泣いてるんだ?
燐はそのように声を発したつもりだったのだが、やはりその声が自分には聞こえない。五感のないというのはこのような感じなのだろうか。
しかし、相手には聞こえたらしい。造形のない顔が燐に向けられた。
ぼくはなにがほしかったんだろう。
不思議な声だった。低いようで子ども独特の高い声のようで、たどたどしく幼い話方だった。ああそうか、こいつは何にもわからずに生まれてきてしまったんだな、と燐は思う。
燐はそれの隣の腰を下ろした。雪男も戸惑いながらそうした。その子どもの形をとった何かは幼い頃の燐のようにも見えまた雪男のようにも見えた。
何を求めているのかもわからないのに、二度と手に入らないものなのに、それを求めて堕ちていく。雪男は黒い子どもの塊を見てそう思った。その姿は人にも見え悪魔にも見え、幼稚園の頃、修道院にかえりたいのにかえれなかったあの日の自分達の姿にも見える。
おれはほんとうは、どうしたかったんだろう。
それの声だけがはっきりと胸に響く。燐はそれのない顔を覗きこんで、何を望んでるんだゆっくりでいい考えてみろ、と口を動かしていた。その声が聞こえていたらとても優しい穏やかなものだっただろう。
………。
子どもの塊はしばらく黙っていた。空洞の胸を押さえて、片割がいない、と呟く。
わたしは片割がほしかった。
しくしく。泣きながら燐の左胸に手を伸ばしてそこを撫でていた。シャツが切り裂かれているため赤い爪の傷が見えている。雪男も燐も何故か警戒する必要がないとわかったので、されるままにただ見守っている。
でもどこにもいない、わたしはもうかえれない。あの青い炎をふく心臓こそが私の片割だった。父上であり片割だった。私の本当の片割は私を求めてもいないし、
もう私のことなど忘れているだろうな。でも他のものではやっぱりダメだったし、おまえのでもダメなんだろうな。私のゆく場所はどこにもないし、休まる場所もない。
何故なら私はずっとずっと二度とかえれない手に入らないものを求めていたんだ。ああ。
長い、息を吐く。子どもの形には合わない老成した深いものだった。
今、自分たちはあれの深層の中にいるのだろう。暗い場所で独り膝を抱えて泣く惨めな子ども。親を求めかえる場所を求めていたただの子ども。虚無界で誕生した時のこれの
真実の姿だった。ただそこに色んな汚泥が絡まって入り込んで様々な悪魔の肉塊を取り入れてしまって醜く太り仮初の肉体と仮初の骨の中に、埋もれてしまったのだろう。
燐はゆっくりとそれに手を伸ばす。触ってみるとぞっとするほど冷たくて、しかし燐は何も言わずに頭と思われる箇所を撫でた。
ぞわぞわ、と判別できない様々な悪魔の悲鳴が暗闇の奥から這いずってくる。ほう。と警告するように梟が鳴いて、雪男は、兄さんたぶんもう時間がない、と言ってみた。燐も雪男の様子とその悲鳴を聞いて、おう、すぐ終わらせる、と子どもの形をしたものを抱き込む。
子どもは未だ燐の左胸を撫でていた。
青い炎がぼうっと噴出す。子供の形をしたそれを包み込んだ。しかし、燃えていない。燐がそうしているのだ。
なあ、おまえさ、確かにここは魔神とは違うけど、でもここにかえってきてみねーか?
顔のない子供が燐を覗き込んでいた。
俺がおまえのかえる場所になってやる。それでおまえの気が済むのかはわかんねーけど、でもやってみねえ?…親が欲しいなら親にだってなってやる。だって俺は、
創れるからな。おまえがそれでいいなら、いつかおまえを創り直してみせて今度は、こんな風に、
泣いたりなんてしないように。…全部受け止めてみせるから。
………。
暗闇の奥から肉塊がずりずり這いずってきた。嫌にはっきりと輪郭が見えたそれは、びくびく、不規則に脈打ち何か恨み言を叫んでいる。水をしたたらせ火を噴き大地を腐らせ空気を腐らせる。
醜く太ったそれが、悲鳴を上げて燐の抱きしめている子供に向かっていた。兄さん!と雪男は叫ぶ。しかし、燐は辛抱強くそれの答えを待っている。
もうつかれた。
子供の幼い声が言った。
「あれ」のところにはかえりたくないし、あれはやっぱり私には成りえない。もう…少し眠りたい。ゆっくりと、冷たく寒い汚泥の底じゃない、どこか温かい場所で。
…かえりたい。帰りたい。還りたい。
その訴えに燐は頷く。ぼう、と一際大きく青い炎が燃えて、子供の形をした哀れなそれは燃えていった。しかし、それは燐が普段悪魔を祓う時の燃やし方とは違うのだと、雪男にはわかった。
ずぶずぶ。燃えて崩れていく残骸は燐の傷のついた左胸に沈んでいく。燐の顔が苦痛で歪んだ。雪男は燐にかけよりその肩を抱く。
やっぱり魔神の心臓だな、けっこー重てぇ。
大丈夫、兄さん大丈夫。
肉塊が蹲る双子に覆いかぶさろうとしたが、それを青い炎は燃やす。そちらは悪魔を殺すときと同じように赦しのない、絶対の炎だった。水を燃やし火を燃やし土を燃やし腐敗した肉と穢れた空気を燃やしていく。
何もかも燃やしていくそれを、雪男は神々しいな、と感じた。誰がなんと言おうと、それが最も厭わしく汚らわしい力だと言っても、雪男にとってそれはきっと命の源よりも、神々しい。
醜い肉塊が最期の悲鳴を上げて、闇の中に掻き消えていく。
すべてを燃やした燐は顔を青ざめさせていて、左胸を手で抑えていた。雪男も、その手の上に自分の手を重ねる。
ほう。
梟が鳴いて、どこか慌しく二人を連れて行こうと羽ばたいた。雪男は蹲る兄の腕をかついで、無理矢理にだが立たせると歩き出す。
兄さん、大丈夫だ。
………。
燐からの返事がないことに雪男は泣きたくなったが、堪えた。自分はもう膝を抱えて泣いているだけの子どもじゃない。
大丈夫、ほら、フータが導いてくれている。
………。
梟の導くその先へ。
その先には何があるのだろう。何が待っているのだろう。ぐらぐら足元が覚束ない。ぱりん、と鏡が割れるように闇が崩壊していく。大丈夫だ、大丈夫。雪男は自分にもそう言い聞かせた。
燐の重みがとても重い。でも兄はもっともっと重いものを背負ってこれからも生きていく。ならば自分には、弟には、何ができるだろう。
もっともっとあるはずだ。
自分という存在は兄にとって一体どのような意味を持つのだろう。
それを聞いたら兄はきっと笑って答えるだろう「俺の弟だ」と。
そうだ、それでいいんじゃないか。
ただ、それだけのことだったんだ。
…だいじょうぶだ、雪男。
雪男の呼びかけに応える燐に、雪男はひどく安心した。抱えている燐の腕が、雪男の肩を握っていた。
おまえの俺の弟で、俺はおまえの兄ちゃんだから。
…うん。
だから、だいじょうぶだ。
うん、そうだよね。
左胸を抑えながら燐は笑った。雪男もつられるように口元が綻ぶ。
本当に、この人には敵わない。
茶色い梟が羽ばたいている。時々、自分達の方を振り返りながら双子が歩きながらでも着いてきていることを確認して、ほう、と励ますように鳴いた。
小さい頃からこの梟は自分達を慰め楽しませ笑わせて、それが例え燐の悪魔として創造された身だからこそであっても、梟は全力で自分の役目を果たそうと必死に
「生きてきた」のだろう。そうして今、双子のいく先を羽ばたいている。ついてきて。と鳴いている。絶対に見失わないで、と導いていく。
あなたに、お導きがありますように。
悪魔と人間の境に立つ、あの少女の言葉がどこからか蘇えってきた。
手を引かれている。
顔を上げれば燐の小さな手を獅郎が握っていた。もう片方の手で雪男の手を握っていた。暗い夜道を歩いていて向こう側に、ぽつり、とした光だけがある。
『…とうさんどこへいくの?』
幼い燐は問う。
『どこっておまえ、そりゃあ…』
いいかけて一度獅郎は言葉を止めた。そして、
ちょっと振り返って、子どものように微笑むと、
『幸せのある所へだ』
と言った。
『そんなところあるの?』
今度は雪男が問う。あるよ、と獅郎は答えた。
『…きっといつか導かれるんだ』
『…えーいつっていつ?』
『…いつだろうな、でもおまえ達が本当に道に迷った時だと父さんは思うぞ』
街灯の少ない夜道を三人は歩いて行く。幼い双子の足取りは覚束ないが獅郎の足はしっかりと双子を導いていた。握る手の強さはそんなに力は込めていないはずなのに、
少し痛いぐらい強かった。そしてとても温かい。温かい、獅郎の、父親の手。
『誰が導いてくれるの?僕たちはそれに導かれていいの?』
不安そうに雪男の緑と青を混ぜた目が揺れた。先ほどまで膝を抱えて泣いていたので、目の周りは真っ赤に腫れている。それを見て、獅郎は優しく微笑んだ。
『誰だろうな。でもな、本当におまえ達を導いてくれるものっていうのは本当におまえ達を大切に想ってくれる何かだ。大層なもんじゃなくていい。
本当に導いてくれる何かっていうのはな、もっと身近にいるだから。自分達のすぐ側にな。だから、その時が来たら迷わず二人で歩いていけ』
『二人で?』
双子の声が重なった。
『そうだ、二人でだ』
『とうさんは?』
燐の言葉に獅郎ははっきりとは答えず、ただ少しだけ寂しそうに目尻にシワを寄せた。
『俺はもう充分…おまえ達に導いてもらえたよ』
向こう側の光が近くなってきた。それはとても温かく、いい匂いがした。光の漏れる建物の前に修道院の仲間が手を振ってこちらに呼びかけていた。
『さあ、着いたぞ、』
大きな獅郎の手が双子の手を離れ、小さな背中を押した。双子は戸惑いながらも温かい光の中へ歩き出す。
『おかえり、燐、雪男』
獅郎が二人の帰る場所へ、二人を入れて、優しく笑ってそう言った。
『…ただいま』
ああ、なんだそっか。
小さい頃で、忘れていたけれど自分達に全てを教えてくれたのはやっぱりあの養父だった。
梟の飛ぶ先に小さな小さな光が見えてきた。あそこへたどり着いたとき、自分達には何が待っているだろう何があるのだろう。あの先で何をしていくべきなのだろう。
現実では茨を踏み未来には濃い霧がかかっている。足から血を流し先の見えない漠然とした不安に包まれる未来の中。導かれる先の先には何が待っているのだろう。
けれど、不思議と何も恐ろしくはなかった。
ほう。
小さな梟は穏やかに鳴いて双子のゆく道を羽ばたいている。光が強くなってきて、双子の目の前は白く、白く染まっていった。
2012.3.18