あたたかく、そして青が目の前に満ちている。
私はこの青から生まれた。最初の頃何もなかった私でもあの暗いだけの世界で誕生したときの青い炎には何も感じなかった。
何も聞こえない感じられない何も見えない。ただ、私を創った「父」の声だけが私の中に響いていて、その重く低く歪んだ声に私は押しつぶされそうだった。
そうして冷たく寒い汚泥の中に捨てられて、私はどれほど長く長く底の底を漂っていたのだろう。
何もないと思っていた。何も手に入らないと思っている。
けれど、私はほんとうは何もいらなかったのだ。
肉体もいらない鋭い爪も牙もいらない青い炎もいらない。
ただ片割が欲しかった。片割ともいえ父親ともいえる「父(あれ)」に愛されたかった、できることならあそこにかえりたかった。
愚かなものだな私と「父(私)」は。
私は父が捨てた必要ないと吐き捨てた、あの悪魔の創造主の一部であったのだ、確かに。
あたたかく青い炎に包まれていよいよ意識が遠のいていく。汚泥の底を漂い続け憎しみに寂しさに飢えに苦しみ続けた私にようやく訪れようとしている眠りである。
その炎は私が誕生した炎とは同じ色と力を持っていながら、まるで違う炎であった。けれど私はひどく安堵した。やさしく、あたたかに私を包み込む。
清く美しいのに罪に嘆き濡れている。哀れな青い炎であった。この炎の行く末を見ているのも悪くないかもしれないと思いつつ、私は少し眠りたかった。
私のかえる場所はここでいいのだろうか。
未だ私の中に残る冷たい残酷な炎の血脈がそう言うが、このやさしい炎はそんな違和感を全て包み込んだ。青に蔽われる。染まっていく。私はただそれに身をゆだねた。
寒く冷たく暗い世界でずっとずっと「生きてきた」私が。
最後にこんなにもあたたかくやさしい炎の中で眠れるなんて。
「燐!雪男!」
力強く腕を引っ張られなんだか久々にまともな空気を吸った気がする。ぶは!とそのまともな空気を思い切り吸い込めばギリギリで穢れた空気から
守られていた肺が膨らんで痛かった。
「聖水、聖水かけろ!おっと燐にはかけるなよ!」
ばしゃん。
ようやく空気を吸い込んだ雪男の最初の仕打ちが冷たい聖水を頭からかけられる、というものだった。ちょっと待ってくれ全身ずぶ濡れだ。メガネにも聖水がかかって反射的にメガネを袖で拭ったが、
残念なことにコートも濡れている。そのコートにはべったりとタールがついてはいるが、悪魔としての機能を失くしたそれはただの泥であった。頭からしたたる冷たい聖水にようやく思考が働いていく。
「…あれ、シュラさん…と皆さん?」
喉まで入り込んだらしい泥をごほごほと吐き出しながら確認すればそこには心配そうな顔でこちらを見守るシュラに塾生のみんな、とクロがいた。
雪男がようやく声を発したことに安心したのか、シュラでさえ珍しくため息を吐いている。
「…ったく…心配かけさせやがって!もうなんともないか?」
「もう、もう燐も雪ちゃんも!すっごく心配したんだから!」
ばこん、とシュラとしえみにまで背中を叩かれる。何をするんだもう喉の中に泥なんてありません、と言おうとしたがみんなの顔を見るとそれもいえなかった。しえみなんて半泣きである。
「…皆さん、来てくれたんですか?」
ぽかんとしていると、あったりまえだろ!とシュラに怒鳴られた。周りを見れば散々たる光景だ。確かに602号室なのだがベッドも床も机にも固まった泥がこびりついている。
唯一無事だったのはあのハーフの少女がくれた黄色い花だけだ。
しかし、泥を触ってみてももうそれは冷たくもなく悪臭もなく、何も感じられなかった。ただの泥。そうか、やったのか、と雪男がようやく今まで自分達がしたことを思い出し、
「…そうだ、兄さんは!?」
先ほどまで異質な空間の中で担いでいたはずの兄がいなくて、雪男はふらつく体に構わず起き上がろうとしたが、シュラに制される。そして、あれ、と指が指し示したほうを見れば、
部屋の隅に同じく泥まみれになりながら、勝呂と志摩にその泥を払ってもらっている兄がいた。クロも燐の元へ駆け寄ると燐の体に擦り寄る。
「兄さん!」
兄はすでに身を起こしていて、身を丸めて腕に何か抱えている。未だ意識がぼんやりしているのだろう、青い目が空を彷徨っていた。
呼びかけてもあのままなんだ、とシュラが言った。
「…兄さん」
兄の肩を抱いてその顔を覗きこむ。ぼんやりと鈍い光を放つ兄は、一度雪男を認めると、
「雪男…無事だったか?」
ようやく意識が現実に戻ってきたらしい。うん、と雪男は頷くと未だ蹲る兄の肩を抱き寄せた。聖水に濡れているので兄の素肌には触れないようにそっと。
シュラと塾生達は何も言わずに二人を見ている。
抱きしめた兄の左腕はもう冷たくなかった。兄の体温がその皮膚を包んでいる。それにほっと息を吐きながらも、燐が腕に抱えているものを見て雪男は呆然とした。
「…フータ」
燐の腕の中にいたのは、やせ細ってぼろぼろの羽をした梟だった。
青い大きな丸い目が、光を無くして双子を見つめている。やせ細った体からはあちこち骨が飛び出していて左胸など抉れて肋骨が見え、中の小さな肉の塊がひくひくを弱々しく脈打っていた。
長年の憑依と無理な取り込みに小さな体は耐えられなかったのだろう。
「…フータ…」
燐は悲痛に梟の名前を呼ぶ。梟は、かろうじて、ほう、と返事をした。燐がぼろぼろの梟の体を撫でる。もうほとんど意識はないだろうに、甘えるように燐の手にくちばしを摺り寄せた。
燐の撫でる手が止まる。フータの最期を察しているのだろう。迷うように彷徨う燐の手が何を考えているか雪男にはわかった。
「…兄さん…」
けれど、どうするかは燐が決めるべきことだ。
燐は少しの間だけ梟の抉れた心臓に振れ、そして、小さく呟いた。
「どんな終わりを選ぶのかはその生き物自身の選択なんだって」
「……」
「そうやって死んでいけることは、その生き物に与えられた最期の運命だ。それを奪って違うものにしていい権利なんて、誰にもないんだよ…って」
父さんが教えてくれた。
「…神父さんが」
「うん」
俺はつい最近まで理解してなかったけどな、と燐は儚く笑うと梟の喉と頭を撫でた。そういえばこの梟はこうして撫でられるのが好きだったな、と雪男は懐かしく思う。
「…なあ、俺、今、すっげー…あの力使ってフータにやり直させてやりたい。でもまたそれやったら、フータはフータじゃなくなるし、フータのしてくれたことに意味なんてなくなるんだよ」
『生き物から「死」というものを取り上げるのはそういうことなんですよ。すべての価値を奪い去ってしまう。「生」も「死」もない』
なにもなくなる。快楽を求道する真の悪魔のように。悪魔堕ちした人間のように。
「フータ、おまえさ、」
燐の続きの言葉が梟にはわかったのだろう。昔から賢い梟だった。梟は体を撫でる燐の左の小指を甘噛みすると、わずかに首を横に振った気がした。気のせいかもしれないが。
けれど光をなくしつつあるその青い目は穏やかだった。
「ごめんな」
燐はその小さな体を抱きしめる。その燐ごと雪男は抱きしめた。腕の中の梟は、少しずつ残った肉体が消滅していた。あのキキョウのように、じゅわじゅわ、と肉がなくなり溶けていく。
ほう。
最期の鳴き声に燐は小さく笑った。何を言ったのか雪男にはわからない。けれど、絶対恨み言などではなかっただろう。創造され放り出され虚無界の汚泥の憑依され、ぼろぼろになりながらも燐と雪男を導いて、
それでも燐から生まれたやさしい悪魔は、己を全うしていった。きっとこの時のために梟の悪魔は「生きてきた」のではないだろうか。
兄から生まれたから、だからこんなにもやさしかった。何故なら兄がやさしいからだ。雪男は強くそう思う。
雪男も梟に手を伸ばし頭を撫でた。
ぼろぼろの羽だったが、それは小さい頃と変らず柔らかくて温かだった。
そうして最期に燐の手の中に残ったのは、細く小さな、梟の骨であった。
2012.3.25