悪魔というものは死骸は通常、残さない。銀の弾丸、詠唱、聖なる力(または悪魔の力を借りた)剣、聖水。その他、祓魔の効力があるもので祓われると、
消滅してしまうからだ。その際、憑依されていた生き物はそれが弱いものであればあるほど下級悪魔が祓われるとともに耐えられず消滅してしまうのが殆どだからだ。
また上級悪魔に憑かれた人であった場合は中の悪魔を祓えば助かる可能性は充分にあるが、小さく弱い生き物になればなるほど一度憑依されたが最期である。つまり、
下級悪魔の死骸は通常、ほとんど発見されることはない。
はずなのだが。雪男は床に散乱した鬼の手足や内臓を見て顔をしかめた。嘔吐感を催すほどではないが、それでも気分のいいものじゃない。丸く大きな目は見開かれたまま。
太い未だ涎の流れる舌はだらんと口から伸びたまま。
「心臓だけを食われてました。全部で三体いたんですがその三体とも」
少し顔を青ざめさせてこの現場の第一発見者であった椿が言った。鬼は数が増えやすく増えれば増えるほど危険にもなりえるが、下級悪魔の分類されるため祓魔の授業でもよく利用される。
そのため何匹かを結界で囲った檻の中に入れていることもある。この無残な死骸となって発見された鬼はその檻の中にいたものだ。
椿が授業で鬼を使用するため、檻のある実験室に入ったときにはすでにこの状態だったという。
檻は壊されていた。結界に反応した様子もないという。
「人で言えば生きたまま食われたみたいなもんだな。鬼が憑依体から逃げられず、悪魔として食われたんだろう」
シュラが床に散乱した鬼の死骸を見て呟いた。手足こそもぎとられているが、それは鬼の抵抗をなくさせるためわざと引きちぎったようにみえ、なくなっている部分は心臓と思われるものだけだった。
思われるというのは、鬼の腹より少し上のあたりにぽっかり開いた穴があったため、おそらくそこに心臓があったものと見られるからだ。
悪魔に憑依された人間が外見、身体能力も普通の人間からかけ離れたりするように、下級悪魔でもそれがいえる。
悪魔に憑かれたときから憑依体の肉体は限りなく悪魔の影響を受けるのだ。その影響を受けた悪魔の心臓を欲していた捕食者がいたということなのか。
「…悪魔の共食いや力の強い悪魔が他の悪魔を捕食することは珍しくありませんが…」
雪男は手袋をはめながら、床の上に散乱している鬼の死骸を注意深く観察した。食いちぎられたのだろう部位は、じゅくじゅくと消滅しかけている。
おそらく死骸というよりは、じわじわ、とひどくゆっくり悪魔とその憑依体が死んでいっているのだろう。
「下級悪魔になればなるほど共食いや他の奴の捕食に遭うことは多いな。やっぱりメフィストの結界のこともあるし、鬼の心臓を食ったらしいやつは中級以上じゃないだろう」
シュラも念のため布越しに鬼の死骸を覆って、指でつまみあげた。力の抜けた鬼の足が、だらん、と宙に揺れる。椿がハンカチで口元を押さえた。彼も、雪男より祓魔師としての任期は長い。
稀なこととはいえ下級悪魔の死骸を見るのは初めてではないだろうに、それでも何か違和感を覚えているのか目がきょろきょろと動き、落ち着きがなかった。そして、雪男とシュラも何かしらの異質なものを感じた。
それは一重に、鬼の体にからみつく、何か黒いねばねばした液体のせいだ。
「…にゃんだこれ?」
「シュラさん、触らないでくださいよ」
「わーってるよ」
鬼の体にまるで蜘蛛の糸のように絡まるそれ。雪男は、腐食性のあるものかもしれない、と念のため手袋に聖水をかけ、ポーチから試験管とスポイトを取り出す。
鬼の体に粘ついているそれを、スポイトで吸って試験管の中に落とした。祓魔のまじないがかけてある試験管なので腐食性があっても溶ける心配はない。
試験管半分ぐらいまでその黒い粘着性のある液体を入れる。
「…なんだ、何か分かるか雪男?」
「いえ…なんだか泥みたいな…粘着性もあるしまるでタールみたいですね。……でも臭いが何もない」
「腐食性は?」
「どうでしょうか…でも鬼の体に溶解した部分が見られないですし…むしろ蜘蛛の糸みたいに獲物を絡め取るみたいなものかもしれないですね」
どろり。
試験管を揺らせば、その液体はひどくゆったりと中で蠢いた。まるで生きているみたいだと思ったのは気のせいだろうか。雪男は試験管に蓋をすると、
中のものが漏れ出さないよう封印札を蓋に貼り付けた。
「これは後で先生方と鑑識に回します。揮発性のあるものだと危険ですし、詳しく調べる必要がありますね」
「それでは、それは専用の保管庫に入れておきましょう」
「よろしくお願いします」
雪男は試験管を椿に手渡してから、もう一度、鬼の死骸を観察した。舌が飛び出ている鬼は、目を大きく見開いたままだった。まるで知らないうちに絡め取られて動けぬまま、生きたまま食われることに呆然としていたような。
シュラも顔をしかめてそれを見つめている。
「…中級以上のやつではないとは思うが…。ちょっと妙だよなあ」
心臓だけを食らい、不気味な黒い液体を残す。そもそも下級悪魔であったとしても、授業で使うはずだった悪魔が食われるなんて、どういうことだろう。
「…以前の件もありますし。警戒しておいたほうがいいですね」
以前の件とは試験と称して中級以上の悪魔をけしかけ兄の燐を殺そうとしたネイガウスのことである。あれは結局、メフィストの差し金が暴走した(あるいは暴走するように仕向けた)結果だが。
もしかしたら今回も内部のものが何かしらの手引きをしたか、企んでいる可能性もある。しかし、下級悪魔の心臓だけを狙うのも妙な話だ。
「…なんとなくだけど、メフィストのふざけた戯れではないような気はするな」
「根拠は?」
「女の、勘」
ふ、っと得意げに口の端を上げて胸を張る女を無視して、雪男は死骸を始末することにした。
「…やっぱおまえお堅いな。勘っていうのはけっこう重要なんだよ?」
「あなたの勘がなんだか信用できないだけです…それより、早く鬼の死骸を、」
そこまで言いかけて雪男は気付いた。床に散らばっていた鬼の死骸が、じゅわじゅわ、と消滅の速度が早くなってきたのだ。そして二人の目の前で、それは例えば銀の弾丸を撃ち込んだ時と同じように、消滅した。
じわりじわり、とした滅びが終焉を迎えたのだろう。後に残ったのは鬼にこびりつくような形でまとわりついていた黒い液体だけだ。シュラと雪男と椿はとりあえず、その液体を片付けることにした。
迂闊に触れると何が起こるかわからないので、まず聖水をかける。じゅわ、っと蒸発した水のように煙をあげて少しずつ消滅させていった。
「っとこれで粗方片付いたかにゃー?ああ、ったくせっかくの夜にこんなわけのわかんねえ事件の後処理しろってよお、あの道化」
せっかくの夜、と呟いてもまるで色気のあるものを連想できないのは普段の態度のせいだろう。どうせ晩酌のことに決まっている。
「ってことで、後の報告はよろぴく、ビビリ君!」
ぽん、と肩に手を置かれて、はあ?と雪男は顔をしかめる。
「なんで僕だけなんですか!シュラさんが行ってくださいよ!」
ちらっと腕時計で時間を確認すればすでに日付が変わろうとしていた。燐は確実に寝ているだろう。それが気になってしまったのが、まるでシュラにばれたように、
「お、もしかしてお兄ちゃんのご飯食いっぱくれてご機嫌斜め?」
「…確かに空腹ではありますけど、」
あなたの前で機嫌がいいなんてことないですよ、と憮然として言い返せばシュラは呆れたように肩をすくめる。
「ま、あいつも京都の件のおかげで前ほど監視が必要じゃなくなったとはいえ、あんまし一人にさせてやんなよ」
再びぽんぽんと肩を叩かれてそれを邪険に振り払った。
「…別に、兄は僕がいなくても平気ですから。課題がどうのと言われなくて嬉々としてマンガでも読んでるでしょうね」
自分で言ってて虚しいが、課題を放って雪男のマンガを勝手に読んでる兄を容易に想像できて軽く頭痛がしてきた。しかし、シュラは、にゃはは、と笑うと、
「不浄王の件で勝手に一人で裏を走り回ってたこと、まあだ、根に持ってんのかー根暗メガネくん」
「あれは8割がたあなたの責任ですからね」
ぎろっとメガネの奥で睨んでやれば、シュラは、ねくらめがねー、と再びふざけるとちゃっかり報告書を椿に渡していた。椿はあとしばらく奥さんの元へは帰れないだろう。
だからといってシュラ(一応上司)に当たる人の頼みを断れるほど椿はシュラと親しいわけでも、軽口を叩ける中でもない。慌てて携帯電話を取り出し「子猫ちゃん今夜はもう寝てていいよ」と話し出す始末である。
雪男はため息をついた。シュラは大きくあくびをし、さかえろー、と去ろうとしたが、
「…あれ?」
「どうしました?」
部屋の隅を見てシュラは何かを拾い上げた。それを、夜中の暗闇を暴く教室の電灯に掲げてみる。
「…鳥の羽?」
それは、白に茶色を混ぜたやわらかそうな鳥の羽。シュラの指で摘まれたそれを見て、雪男は、は、っとしてポーチの中を探る。
「…どうした雪男?」
「それと同じモノが、」
祓魔屋にも。と雪男は先ほどしえみの荒らされた花壇で拾った鳥の羽を取り出した。シュラがそれを受け取ると、今しがた拾った羽と見比べる。よく似ていた。というか同じ鳥の羽であることはほぼ間違いなさそうだ。
「…これはどこでどうして拾った?」
雪男は祓魔屋で見たものの説明をした。シュラの眉間にシワがよる。
「…たぶん、そのキキョウと鬼を食ったやつの羽かもしれないな…同じ悪魔だと断定するのは早いが…けど羽はよく似てる…」
しかし、食われたものが花壇のキキョウと鬼の心臓。共通点がまるでない。雪男はそのキキョウがいささか妙なものであったらしいことも説明した。シュラは、二、三そのキキョウについて質問したが、それは山魅(デックアルプ)
でもなさそうであからさまに悪魔らしい被害もない奇妙なキキョウであったという。ふむ、とシュラは顎に手を添える。
「悪魔の中には無害を装って時間をかけて根を張るやつもいるしな。そのキキョウはその類とみてもいいだろう。それで同じやつに食われたのかもしれないが」
「しえみさんの言っていたキキョウが悪魔の類だったとは断言できませんが…。悪魔を捕食する悪魔がうろついているのは間違いないようですね」
「だな、…それでおまえ、そのキキョウのサンプル持ってるのか?」
やはり正体の不鮮明なキキョウのことも気にかかるのだろう。雪男はポーチの奥にしまっていたキキョウの残骸を入れたケースを取り出す。詳しく調べても何かがわかる可能性はすでに低いが、
何もしないよりはいいだろう。しかし、ケースを取り出した雪男は、呆然とした。
「どうした、雪男…って」
シュラもケースの中身を凝視する。
硝子のケースの中にあったキキョウの残骸は、今まさに、じゅわじゅわ、煙を噴きながらものの数秒で跡形もなく消滅したのだ。
2012.1.3 謹賀新年!