パンとワインにリンゴとヘビを

 

「私のところにさえいればあなたの大切なものは全部守られますよ。あなたの養父も弟も。あなたの持つ炎に脅かされることなく過ごせるんです、あなたが私といればね。 あなたの大切なものは全部守って差し上げます。もちろんあなたのこともね。あなたを全ての痛みと暴力と糾弾と理不尽と罪の濡れ衣から守りますよ。ねえ、ですから、 私とずっと一緒にいてください。私と一緒にいるだけで、あなたの全ては守られるんですから。約束しましょう。守りますよ----------」













「燐、もうそろそろ起きたらどうですか?」
妙に優しいいつもの声で起こされる。この声に起こされる朝は何回目か。数えているわけがないので知らないが、自分がここにきてからほぼ毎日欠かすことがない習慣でもあった。
しゃっとカーテンの開けられる音と同時に閉じた瞼の裏が一瞬白くなる。眩しくて一度ぎゅっと目を閉じつつもゆっくりとその下の眼球を動かした。三月も終わろうとしているが、 まだまだ明け方は寒い。燐を包んでいる柔らかで高級な羽毛布団は文字通り羽のように燐を寝かしつけてくれていて、親鳥の羽の下にいる雛というのはこういう感覚なのだろうか、と寝ぼけた頭で考える。 その温かさからは離れがたい。
「燐」
落ち着いて低く通った大人の声が自分の名を呼び、そして額を撫でる。ひんやりとしている。この男の手が温かだったときを未だに燐は知らない。額からなぞるように瞼へ。 その下の眼球をくりくり押されるように指で触られる。痛くはない。むしろくすぐったい。そこでようやく燐は瞼をあけようとして、男の指を鬱陶し気に払いのける。 くつくつ。笑う気配があった。瞼をこすりようやく体を起こして、目を開ければ朝の白い光が無駄に広い部屋に満ちていて冷えた空気を温め始めていた。その白い光の中に 白いスーツを着た顔色の悪い男が一人。ベッドの端、燐のすぐ横に腰掛けて黄色を帯びた緑の目がこちらをのぞきこんでいた。
「おはようございます、燐」
「…はよ…」
メフィスト。
名前を呼べば男は上機嫌にいい朝ですねえと呑気なことを言ってくる。燐は朝が苦手だ。寝起きが悪いというのもあるのだが、目を覚ましたとき自分がいる場所があの10歳の誕生日以来訪れていない修道院なのではないか、という 未練が未だ健在なのを思い知らされるからだった。対して男、メフィストは悪魔のくせに朝日というものが苦手ではあるが好きらしい。 メフィストの話に聞いている「虚無界」という場所には太陽がないので何百年経っても興味深いのだそうだ。
ごそごそ大きなベッドから抜け出す。シーツも羽毛布団も薄いピンク色に染められているそれは最初こそ慣れなかったが今ではもうどうでもいいと思っている。慣れとは恐ろしいものだ。 隣にあるはずのメフィストのわずかな体温の名残はすでになくなって、冷たいシーツが広がっているばかりだった。燐は瞼をこすりながら寝ている間に乱れてしまった浴衣を脱いで無造作にベッドに放る。 下着だけになれば「悪魔の尻尾」がまだ寝ぼけているみたいにふよふよ揺れていた。 なるべく洗濯物などは自分で片付けるようにしてはいるが、朝食を作る朝だけはどこからともなく使い魔が現れて回収していってくれる。すでにソファの上に用意されていた服を着て(ジーンズと変なロゴのシャツというラフな格好だが) 朝食を作るためにキッチンへ向かう。メフィストはそれまでの燐の行動を目を離すことなく見つめ続け一緒に食卓へと向かうのだ。ここまでで燐は一度も時間を確認していない。 そうする必要がないのだ。時間を気にしなくてもメフィストは毎朝燐を起こし、燐はメフィストが「学園」に仕事に向かうまでに朝食を作る。もう体が覚えてしまっていて時間配分は難なくこなせる。 慣れとは恐ろしいものだ。そんな自分に改めて苦笑しながらキッチンで新鮮な卵を、ぱかり、と割りそこから落ちてくる黄色くぷっくりとした黄身をボウルに入れてかき混ぜる。 何が食べたいか、はメフィストがリクエストしてきたときにしか聞かない。何を作っても男は食う。燐も料理好きのプライドとしてまずいものを出す気もないので。
溶かした卵にチーズを混ぜて味をつける。温めて油を引いたフライパンに流せば、じゅわ、っといい音がして焼きすぎる前に手際よく形を整える。 そうして出来上がったオムレツを白い皿に、二人分、盛り付けて。ミニトマトとレタスのサラダも手軽に作る。これも新鮮でしゃきしゃきしていた。 燐が料理にこだわるせいかこのキッチンには新鮮で質のいいものが欠かされたことはない。それらがどこから購入されているのか燐は知らない。 燐が最後にした買い物は、10歳の誕生日に作るはずだったスキヤキの材料だった。
これもどこから買ってきているのか。それもわからずにしかしナイフを入れただけでやわらかく高級なのだろうと思わせるプルマンブレッドも二人分切って、トースターでこんがり焼いて。 甘さ控えめのストロベリージャムを塗る。このジャムは燐が暇つぶしに作ったものだった。燐が朝食を用意している間、男は頬杖をついてその様子を見つめている。 メフィストが朝食ができる間にやっていることはその日によって違うのだが、今日は朝からやたらと見られていると感じる。そういうことはこれまでに何回もあったので、 今更気にすることでもないが。
メフィストのお気に入りの紅茶を淹れて、自分は牛乳を。そうして白くて大きなテーブルに並べられた朝食を食べるのは二人。燐とメフィストである。 朝も、時間ができれば昼も夜も。この食卓を囲うのは燐とメフィストの二人しかおらず、手を合わせて、たまに静かに食べているときなどは世界に自分とこいつしかいないんじゃないか、という錯覚を感じるときがあった。 不本意だけど。



「おいしかったですよ。ごちそうさまでした」
残すことなく全て胃に収めてからメフィストは言う。そうかそりゃよかった、と燐も適当に返事を返す。朝食が終わればメフィストは「学園」の仕事に向かうための身支度を始める。 最も、メフィストは燐が起きることには着替えを済ませていることが多いのであまりすることはないのだが。
「そういえば、」
白いマントを纏いながらのメフィストの言葉に燐はわずかな緊張を抱いた。
「学校の制服、届きましたから。一度着てみてごらんなさい。後で寝室のソファの上に使い魔に置いておかせますから」
学校。
どうせ、出席もしないのに。
燐は食器を片付けながらぼんやりと思った。洗剤をスポンジにつけすぎてしまってもうもうとした泡が白い食器を洗い上げていく。 食器洗い機はあるのだが一度も使ったことはない。なるべく手作業で家事はすませたかったからだ。
しゅ、っと背後でメフィストが手袋をはめる布擦れの音がした。蛇口からはじゃあじゃあと水が流れる音がするのに、メフィストの立てる静かな音はナニモノにも掻き消せない。
メフィストが勝手に燐を自身が創設した正十字学園に入学させたのはつい先日の話だった。 燐は高校に入学する気などなかった。10歳の時以来、小学校も中学校も一度も出席していないのだ。メフィストがそうさせなかった。ただ教育はずっとこの屋敷で、 メフィストから教えられていた。如何せん頭のできはもともとよろしくないので教えられたことも勉強もほとんど身につかなかったが、メフィストは、あなたはそれでいいのだ、と何故か笑うばかりで。 それでも義務教育というのは不思議なもので(あるいはメフィストが手を回していた可能性のほうが強いが)世間でいう中学の卒業式のあった日に、メフィストから卒業証明書を渡されたのだ。 「中学卒業おめでとうございます」なんて言葉に実感が湧くはずもなく、 それをどうしていいかわからず捨てることもできす、ホコリを被って燐の部屋の隅に放置されているばかりだ。そんな味も形もない学校生活だったので高校に行く気なんて起きなかった。 学校で起きる楽しいこと、というのを燐はとてもじゃないが想像できず「人間」に囲まれて学校にいるという自分でさえいつも掴めない蜃気楼のようにぼうぼうと揺れては消えていくばかりなのだ。
それなのにメフィストは正十字学園に燐の籍を作った、理由は教えてくれなかった。ただ、それがあなたですから、と意味不明なことだけを言っていた。 最初はわけがわからずと惑っていた燐だったが月に何回かの「面会」で弟から「僕も正十字に入学することになったんだ」と告げられて少しだけ気分は明るくなった。 弟と同じ高校。たぶんメフィストは出席することを許してはくれないだろうけど、その事実だけで少しだけほんの少しだけど弟と離れていた物理的な距離が埋まる気がして、 うれしかった。弟も同じだったようで燐も正十字に入学するのだと知ってから随分喜んでいたが、そう喜ばれてはきっと一度も出席できないだろうけど、とは言い出せなかった。
ただ。
「メフィスト」
きゅっと蛇口の水を止めて、少し肩を震わせながら背後の男の名を呼ぶ。はい?と男はかなり近い距離で返してきた。ひたり、と背中にあたる感触。メフィストの体だ。
「…入学式…」
心臓が、つきつき、と痛むほど早くなっている。
「入学式だけは出たいんだ…。その…雪男が…前の「面会」のときに新入生代表で答辞を読むんだって言ってて、ジジィも見にくるって…だからどうしても…それだけは…」
見てやりたくて。
さらり。メフィストのマントが体を覆う薄い感触。男の手が背中を撫で、燐の存在を確かめるように頭を撫でてくる。
「構いませんよ」
数秒の沈黙の後、返された返事に思わず振り向いてしまう。メフィストは薄く微笑みすでにシルクハットを被っていてその影の落ちる目が燐を捕えていた。 いつもだったら身をすくませるかもしれない視線だが、燐は許可をもらえたことがただうれしかった。
「ほ、ほんとに!?」
「ええ、いいですよ。あなたも兄として弟の晴れ姿は見ておきたいでしょう。それに今月はいつ燐に会わせるんだと藤本が憤ってましてね。本気で私を殺しそう、ですし、丁度いいですね」
細まる目つきはおそらく彼なりの冗談なのかもしれないが、燐は、ぞっと背筋が寒くなった。
ああ頼む父さん自分を想ってくれるのはうれしいが、決してこの男に。
「ほ、ほんとだな…!ほんとに「外」で雪男とジジィに会ってもいいんだな!?」
その寒気を振り払うためにメフィストのマントを掴んで強く確認をする。はい、と男は頷いた。じわりじわりと嬉しさがようやく体に浸透してくる。 「外」で雪男と養父に会える。月何回かの「面会」みたいな決められた部屋で、祓魔の術が厳重に施され時間制限までされた空間でではない。あの桜の満開の外で。
「ただし、送り迎えはしますから。式が終わって15分経過したら迎えにいきます。それまで何を話していてもいいですけど、決して大講堂からは出ないように」
思わず顔を綻ばせる燐の頬を撫でながら男はいう。燐はその言葉に一瞬表情を固まらせたが、それでも外で二人に会えるなら、と思うとやはり無償に嬉しかった。それが周りの人間から見れば 哀れともいえるほどの小さな小さな要望の成就なだけなのに、燐はうれしかった。
それが男の、この悪魔の男のやわらかな茨なのだと、わかっていても。
「燐、左腕を」
気持ちのはじゃぐ燐に苦笑しながら「いつもの」ように男は燐の左腕を望む。燐は、
「…あ……うん」
と慌てて手を拭いてからシャツの袖をめくる。 まだ若さ溢れる筋肉の筋の通った15歳の腕。左手首には青く太目の血管がうっすらと浮かび上がっている。メフィストはぺろっと一度唇を舐めると、では、と妙に恭しく燐の左手を取り、 ねとり、とその左腕の血管の透ける皮膚を舐めた。ぴく、と燐の体が震える。メフィストのヘビのような長い舌がなぞるように二度、三度、と左手首を舐めていった。 てらてら、と燐の皮膚をぬらす唾液が光る。最後にその太い血管にキスをする。それが終われば燐の左手首には不可思議な黒い模様が浮かび上がる。枝に巻きつくヘビのように燐の左手首に浮き上がってくる。 それは形容しがたいいびつな文字のような象形文字のようなもので、 10歳のとき始めてこれをつけられたときメフィストは「それは私のものだというサインです」と言っていた。定期的につけるのだ、とも。 ただその不可思議な文様はひっくり返して見てみても「メフィスト・フェレス」と書いてあるようには見えなかった。 燐にはわからない異国語という感じでもない。なんとなく物質界の言葉ではないというのだけはわかっていた。 ただ、メフィストから学んでいるエクソシズムの知識から推測できるのは「悪魔のサイン」というのは強力な拘束力と契約力を持つということだ。
すう、っと左手首の模様は皮膚に浸透していく水のように消えていく。
そして、それをつけられるということが何を意味しているか燐は10歳で初めてそれを施されたその瞬間から悟っている。
「………」
模様の染み込んで消えた手首を撫でる燐を見て、メフィストは満足そうに吐息を燐の耳の側で吐いた。











正十字学園を取り囲むのは要塞のような建物の塊で、メフィストの屋敷もその要塞の中にある。一番目立つ大きな屋敷なのだがその中の様子を知っているものはほとんどいないだろう。 ピンクのリムジンに乗り込んで窓の外を過去る景色を燐はぼんやりと眺めていた。その身を包んでいるのは汚れひとつない妙にぱりぱりした新しい制服。 袖もスラックスの丈も丁度だけれど肌には馴染めなかった。 「外出」は久しぶりであったが燐は10歳のあの時、メフィストに引き取られて以来この要塞のような町から出たことがない。 屋敷から出ることさえ稀だった。たまに外出できても必ずこの車でメフィストは側にいるし、そもそもメフィストの気まぐれな散歩に付き合わされるだけで、燐に決定権などない。
ちらちら、と。
走る車の窓を桜の花びらが撫でていく。車はゆっくりと走行しているので、時々、花びらは窓に引っかかってしばらく張り付いていても風に巻かれてどこかへ落ちていってしまった。その窓に張り付いた花びらを燐は窓越しに指で撫でる。 それもぱあっと窓から剥がれて宙を舞い、落ちていった。
「燐」
しばらくそうして遊んでいた燐を呼ぶ声に目を向ける。メフィストはこちらへと手招きしていて燐は素直に向かいに座っていたメフィストの隣に腰掛けた。 車は進む。エンジンの音も運転手の気配もほとんどなくて、まるで道ではなく空中を漂っているような変な感覚だった。
「ネクタイ、どうしました?」
ゆるくボタンの開けられたまだノリの効いたシャツ。その襟をいじってメフィストは首をかしげた。見やすいように燐の頬を両手で撫でて正面を向かせる。燐は抵抗しなかった。
「…別にあんなもんいらねーだろ。ホットビズだホットビズ」
「それをいうならクールビズですしまだ4月ですよ」
おかしそうに牙を見せる男にうるせえと悪態をつく。しかしそっぽを向くことは許さないとばかりに頬の撫でる指が少し食い込んできた。それはほんの少し痛いぐらいだった。
「結び方、知らないんでしょう?教えて差し上げますよ」
燐はしばし迷った末、ポケットにつっこんでいたネクタイを取り出しメフィストに渡す。まず襟を立ててとメフィストのいうままに襟を立て少し首を上げた。 そこに巻きつく細いネクタイの布の感触。そのまま縛られるのではないかというよくわからない怯えが頭の片隅で、もぞり、と動く。それさえ見破っているようにメフィストは唾液に濡れた牙を見せている。
しゅるしゅる。
赤と黒と梵字で飾られたネクタイは燐の首を絞めることはなく、けれどゆるいゆるい拘束感を与えていく。
これはやわらかな首輪だ。
燐は綺麗に結ばれたネクタイを見てそう思った。メフィストはシャツの襟まで丁寧に戻すと、
「これからはネクタイは私が締めてあげますよ」
と飢えた獣のような目でずっと燐の首を眺めていた。











「新入生代表、奥村雪男」
大講堂に響く弟の名前にそれにかき消されることなく響く、はい、という弟の返事。一番後ろの席の隅に座っていた燐はそんな弟の晴れ姿を食い入るように見つめていた。 たくさんの人間に囲まれているのは慣れないのでどこか緊張してしまうが10歳までは小学校にもなんとか通っていたのだ。規模は違っていても人ごみを嫌うような繊細さは持ち合わせていなくて、 いつもあの屋敷ですごしているのとは違う環境が燐の若い好奇心を刺激していた。 雪男を食い入るように見つめつつ、周りも見渡す。皆が皆、新しい制服に身を包み保護者達は自分の子供の姿にしか興味はないようで。 誰も一人きりの黒髪の少年が、隅のほうに座っているなど気付かない。いや違うか、こんなに大勢の中でも。
ふと、答辞を読み終え拍手を送られる雪男と目が合った。けっこう離れているのにメガネのクセに、雪男は燐を見つけると、メガネの奥の青緑を丸くしていた。 驚いただろう。入学式に出ることははっきりと伝えていなかったからだ。驚かせたかったのもあったが、結局メフィストに入学式に出席する許可を貰ってから今日まで一度も雪男と養父に面会できなかったのだ。 そうだジジィ、父さんいるんだろうか、と燐は思わず周りをきょろきょろと見渡せば、がし、といきなり誰かに肩をつかまれ声を上げそうになってしまった。しかし丁度式も終了していたので人がイスから立つ金属的な音に掻き消される。
「よう燐、元気にしてたか?」
でも養父の声だけはナニモノにもかき消されない。
また少し目尻にシワが増えただろうか。目を細めて笑う灰色の髪の養父、獅郎。養父にも今日、出席できることを伝えられなかったし3月など一度も会えなかったが、それでも養父はまるでちょっと外へ出かけていた息子が帰ってきたように、 くしゃくしゃと頭を撫でた。燐は泣きたくなった。泣きたくなったので養父の胸に顔を押し付ける。そこでようやく養父はいつものカソックではなくスーツに身を包んでいると気付いて、濡らしてはいけないだろうか、と 思って身を離そうとしたがそうする前に養父に背中を抱きこまれた。むしろ胸に押し付けられる。何も言わずに背中を撫でる手がどうしようもなく切なくて嬉しかった。



『本当でしたら今日は、』



「久しぶり父さん」
がやがやと保護者と学生が移動する中、二人はイスに座ったままだった。
「よしよし、ほんとに一ヶ月ぶりだな!…悪かったなかなか会いにいけなくて」
会わせなかったのはメフィストなのに養父は自分のせいのように言う。首を振って燐も同じように養父の背中に腕を回した。少し痩せたかもしれないと思った。
「…ジジィこそ元気にしてたのかよ?…病気とか本当にしてねえ?」
「ああ、この間も電話でいっただろう?病気も怪我もしてねーって!ぴんぴんしてる!あと100年は生きてやるよ!」
そんな言葉に思わず、ふっと噴出してしまう。3月の半ば。泣きながら一晩中養父に電話をしていたあの夜からずっと今日まで燐は恐くて恐くて仕方なかった。
何の根拠もない、悪魔の戯れ言を聞いただけだというのに。



『本当でしたら今日は、-----------』



「おまえ、制服なかなか似合うぞ!二人の息子の晴れ姿が見れてよかった」
暗い思考に沈んでいた燐を明るい養父の声が呼び戻す。そうかな、と少し照れてしまう。この制服を着て学園に通えることはないだろうが、それでも養父が喜んでくるなら一回だけでも着てよかった。
「お、ネクタイ上手に結べてるな----」
どきん。心臓が跳ねる。
「そ、そうかな?」
「おう、なんだあおまえネクタイの結び方知ってたのか?雪男も自分で勝手に調べててよ今朝はさっさと結びやがるし。けっこう父ちゃんの憧れなんだぞ、成長した息子にネクタイの結び方教えてやんの」
それなのにそうする必要がねーぐらいいつの間にかでかくなりやがって、二人とも。
苦笑する養父の顔を燐は直視できなかった。照れているふりをして拳を握る。
俺だって父さんに教えてもらいたかった。
それを言うことは許されず、喉まで出掛かって虚しく肺に落ちていく。







「兄さん、元気にしてた?」
答辞が終わり女の子達のアプローチもなんとかかわした雪男は(そのことを養父にからかわれつつ)久々に「外」で会えた兄に向けて本当に嬉しそうに微笑んでいる。 10歳のときはほぼ同じだった身長もとっくに抜かした双子の弟の晴れ姿を見た後で、燐はいつも以上に雪男が誇らしかった。
「おう!元気だったぜ!おまえこそもう風邪引いたりしてねーか!?春だからって油断すんじゃねーぞ!」
「ちょっといつの話してるんだよ。もう体の弱い子供じゃないって」
「…それもそーだな!」
目線も違う弟の頭を、養父が自分にしたようにわしゃわしゃ撫でれば、やめてよ、と苦笑されつつも手は振り払われない。まだ大講堂の中は後片付けなので騒がしいが、 燐には養父と弟と三人だけの世界のように感じていた。周りには監視の使い魔も祓魔の術を施した札や鎖もない。 灰色の殺風景な部屋でまるで囚人に面会しにきた家族のようなそんな光景ではない。燐にはただその事実が嬉しかった。それと同時に、湧き上がるどうしようもない衝動をなんとかごまかしたくて弟を軽く抱きしめる。 雪男は抵抗せずに兄の抱擁を受け止めた。
「新入生代表とか…ほんとすげーなおまえ…」
「…ありがとう、兄さんに見てもらえて本当にうれしいよ」
「おいおい、俺も見てたぜ雪男ー」
横から割り込む養父に思わず、笑ってしまう。はいはい神父さんもありがとう、と雪男は苦笑していた。そんな雪男に抱きつきつつ燐は大講堂にかけてある大きな時計を見ていた。
あと、10分。
燐が唯一時間というものを気にする瞬間である。
「でも、僕、本当に驚いたよ。兄さんも正十字学園に入学だなんて。…もしかして、寮生活になるの?」
雪男はやんわりと燐の腕を解いて覗き込むように尋ねてきた。期待の込められたその目を、燐は直視できなくて思わず床を見つめてしまう。寮生活どころか。
「…いやそれはたぶん、無理。屋敷から通うことになると思う」
寮生活どころか出席さえ許してもらえないだろうと燐は確信していながら、雪男にはやはり言えなかった。二人を見守る養父が一瞬顔を曇らせたのを見て、 養父はわかっていたのだろう。今はもう、憎しみを込めた目でしか相手を見ないけれどあの悪魔、メフィストとは旧知の仲で友人だったのだから。
「そっか…でも学校に通えるならもう「面会」まで我慢しなくていいんだよね。学校にさえいれば」
「雪男」
春からの生活に期待する弟の言葉をそれ以上聞いていられなくて、燐は遮った。
「おまえさ、祓魔塾の講師もするんだって?」
雪男は兄の言葉にまんまと話題を摩り替えられて、一瞬、きょとん、とした顔をすると、うんそうだよ、と困ったように微笑んだ。これは本当に困っているのだ。 弟の口から春に祓魔塾の講師をするとは聞いていなかった。メフィストから聞いていたのだ。雪男はそっちの世界のことは中々話さない。何故なら燐に興味を持たれることを恐れているからだ。 祓魔の世界に関わらせることを。何故ならその世界は「危険」だから、と。
あと、7分。
「頑張れよ。たった13歳で祓魔師になって講師までするなんてさ、おまえはやっぱり俺の自慢の弟だ!」
再び雪男の頭をわしゃわしゃ撫でると雪男は何故か、悲しそうに目を細める。
「…なんか…ごめん…兄さん」
突然の雪男の謝罪に今度は燐がきょとんとした。本気でなんで雪男が謝る必要があるのかはわからないが、雪男が謝らずにはいられないという気持ちは理解できた。
「何謝ってんだ…!ほんとはおまえに危険なことしてほしくねーけどなったからには…俺の分までがんばってくれよ」
そうだ、それでいいんだ。自分の分まで雪男は。
「ほらほら、せっかくの入学式に辛気くせー顔してんな雪男!久しぶりに燐に会えたんだからゆっくり話しておけ」
3月は一度も会えなかった養父は当然のように兄弟にこの貴重な時間を譲るつもりらしい。二人の肩をぽんぽんと叩くその広い手の感触が心地よくて思わずスーツの袖を握ってしまう。 兄弟だけでなんていわずに養父にもいて欲しかった。
だってあと5分。
縋るようにスーツを掴む手を養父は寂しそうに微笑みながら握り返してくれた。

あと5分、あるのに。

大講堂の一番大きな扉の向こうに白いマントが揺れるのを見て、燐はぐっと唇を噛んだ。

今日は気まぐれでも起こしたのだろうか。一度約束した時間を縮めるのは実は珍しいことだ。逆光と距離が少し遠いのとで男がどんな顔をしているかはわからない。ただ、 無表情にこちらを「監視」しているのだろうことは確信できる。春になってからますますメフィストはその傾向が強くなってきた。常より神経質になっているともいえて、 燐は逆らう気はなかった。逆らったらどうなるか。逆らったら-------
「…わりぃ…もう行くな」
名残おしく養父の握られた手を離す。わずかに逃すまいとシワの増えた手が燐の手を追おうとしたが、やはり掴むことなく離れていく。ほらだって…結局は養父も雪男も。
「ちょ、ちょっとまって兄さん!まだ----」
しかし雪男は燐の左腕を掴んできた。扉の前にいる悪魔に気付いていないのか。養父は気付いているだろう。目つきが悪魔に本当の殺意を抱いたときのそれだった。
10歳のあの日、 泣き叫ぶ息子が悪魔に連れて行かれたのに何もできなかったあの時の養父と同じ目で。
「待ってよ兄さん…」
「雪男…わりぃ…メフィストから言いつけられてて…」
ぴくん、と燐の腕を掴む手に力がこもる。痛くはなかった。痛くはないのだがその力に喉から込み上げてくるものがあった。
「…兄さん…僕は今でもあの日のことを夢に見る…」
雪男の声は妙に静かで冷たかった。
「フェレス卿が無理矢理兄さんを覚醒させてそのまま連れて行ってしまったことは今でも僕の悪夢だ。あれさえなければ…今だって兄さん…普通の生活を送れてたのかもしれないのに!」
さすがにまだ人のいるところなので声は抑えているが、少し響くそれに雪男と咎めても雪男は、
「兄さん、目を覚まして!あの悪魔の言ってることは全部甘言だよ!兄さんも悪魔からとはいえエクソシズムを習ってるなら悪魔の甘言に乗ってはいけないって…」



『私のところにさえいればあなたの大切なものは全部守られますよ。あなたの養父も弟も。あなたの持つ炎に脅かされることなく過ごせるんです、あなたが私といればね。 あなたの大切なものは全部守って差し上げます。もちろんあなたのこともね。あなたを全ての痛みと暴力と糾弾と理不尽と罪の濡れ衣から守りますよ。ねえ、ですから、 私とずっと一緒にいてください。私と一緒にいるだけで、あなたの全ては守られるんですから。約束しましょう。守りますよ----------』







父さんと雪男のところに帰りたい。と言って泣く子どもに悪魔は甘い言葉を囁いた。そうして頷いてしまった自分の左手首にヘビを刻んだ。 甘い誘惑を囁くヘビを。堕落に落す甘言を囁く舌を持つヘビを。 確かに10歳のあの時のあの言葉は雪男のいう「悪魔の甘言」だったのかもしれない。しかし、燐はすでにその本質を知っている。



「…違う雪男…あれは甘言なんかじゃない…それに俺はいずれ覚醒してたんだから…あのまま放っておかれても今も普通の生活送れてたなんて保証はなかったんだ」
「兄さん!」
「雪男、もうよせ」
養父が雪男の肩を少し強く掴んだ。雪男はそれでも腕を離さない。メガネの奥の普段は柔和な青緑が、瞬間怒りに染まった気がした。
「…神父さんも神父さんだ…3月は一度も兄さんに会わせてもらえなかったじゃないか!?どうして…フェレス卿の言う通りにこんな状態続けてるんだよ----やっぱりおかしいじゃないか!」
「雪男!」
思わず雪男の手を振り払う。ぱしんと渇いた音がしてそれが痛い沈黙を作った。養父はわずかに項垂れている。
あと10秒。
耳元で囁かれた気がするカウントと同時に、ずきん、と左手首に痛みが走った。一瞬で脂汗が出てくる。
「…燐?」
「わりぃ…もうほんとに行くから…。また…「許してもらえたら」面会もできるし電話もする…」
二人に悟られないように痛みに耐えさりげなく左手首を押さえる。ずくずく、と。締め上げられるように痛みが続く。痛い。しかし口の中をわずかに噛んで耐えた。

アインス、

二人を振り返らずに駆け出す。今振り返ったら手首が千切れそうな痛さにも構わずずっとあちらにいたくなるからだ。手首の痛みなんてどうだっていい。 これはあくまで警告の痛みで本当にあの悪魔が自分を傷つけることはない。燐が本当に恐ろしいのはそれではない。

ツヴァイ、

兄さんと弱々しい雪男の呼びかけ。人ごみの中大講堂を一気に駆け抜ける。何人かが何だあいつと言っていたが構わなかった。どうせ一度も、高校に出ることはないのだ。

「すまない…燐」

いいんだ父さん。俺のことなんて本当にどうだっていいんだ。燐は言葉には出せないままそう返す。燐が本当に恐ろしいのは自分のことではない。

ドラ、

「帰る」

出口に立っていた男の白い腕を掴む。そのまま引っ張れば男は腕を振り払うことなく、くつくつ、笑った。メフィストに触れた瞬間、手首の痛みは消えた。 手首を見ればふと黒いヘビのような「メフィスト・フェレスのサイン」が浮かび上がって、しゅう、と煙のように空気に溶けて消えてしまう。

「また、」

耳元で悪魔が囁く。

「つけましょうね」



『私のところにさえいればあなたの大切なものは全部守られますよ。あなたの養父も弟も。あなたの持つ炎に脅かされることなく過ごせるんです、あなたが私といればね。 あなたの大切なものは全部守って差し上げます。もちろんあなたのこともね。あなたを全ての痛みと暴力と糾弾と理不尽と罪の濡れ衣から守りますよ。ねえ、ですから、 私とずっと一緒にいてください。私と一緒にいるだけで、あなたの全ては守られるんですから。約束しましょう。守りますよ----------』



あなたが私といるのなら。



ナニモノにも二人を「殺させない」。







雪男、あれは甘言なんて優しいものじゃないんだ。
あれは、もっと残酷で恐ろしく強欲で執念深く横暴で無慈悲な、悪魔の本性なんだ。







燐がいるのはやわらかであたたかな檻の中である。その中にはヘビがいて、 それは燐の手足に頭に心臓に巻きついてやわらかいのに常にちくちくと皮膚に食い込んでいる。











2012.4.28