パンとワインにリンゴとヘビを

 

『兄さんを返して!』
青い炎が噴き出してメフィストの白い袖を燃やしているのにそれなのにメフィストは燐の体を離さなかった。ぎしぎし肋骨が痛むほどの強い力で覚醒した燐の抵抗もささいなものだったようで、 燐は軋む体が痛くて泣いた。父さん、助けて!あの時のメフィストは自分を家族から連れ去るまさに悪魔だった。
(それは今でも同じなのかもしれないけれど)
養父の手が炎に焼かれながらも燐の腕を掴んだ。頼むメフィストやめてくれ!と白い悪魔の腕から息子を奪い返そうとする。それでもメフィストは離さなかった。 酷く空虚でありながら飢えて涎を垂らす野良猫のような獰猛な目。それに燐も養父も雪男も射すくめられた。この子は覚醒したので私が引き取ります。と言うメフィストにおまえが無理矢理覚醒させたんだろう約束が違う! 覚醒するまで俺が育てるって約束だったじゃないか!その時の燐にはわけがわからなかった。大人二人が自分達が生まれたときに交した約束のことなんて。
(父さんも勝手だった)
『武器として育ててたのに親子ごっこだったのに本当の情を抱いてしまって。…あなたは計画を潰しますよ。だから私が引き取ります…私の方が確実にこの子を守れますし』
瞬間、燐を奪い返そうとする養父の力が弱くなった。血が出るほど唇を噛んで。燐にはわけがわらなかった。覚醒のことも約束のことも。自分の体から青い炎が吹き出て耳が尖り、牙が尖り、尾が出ていることも。 それでもそれら全てよりも何よりもメフィストの言葉がショックだった。兄さんを返して!と泣き喚く雪男が駆けつけた修道士の人達に抱きこまれて止められている。 それらの光景さえどこかどこか遠くて、遠くて。
『あなたは、悪魔なんですよ』
養父にも聞こえぬほどの囁き声で。悪魔は燐の耳元で真実を告げた。不思議とその瞬間涙が止まった。同時にそうなんだと妙に納得もした。 力が強すぎてすぐにカッなって人を傷つけて養父を傷つけて友達が一人もできなくて。
『あなたはあなたの養父も弟も傷つける』

ねえ、だから私と一緒にいきましょう?

養父の手が青い炎に焼かれている。燐は咄嗟にその手を振り払った。燐、と絶望した養父の顔。 教会の扉にメフィストは金色に光り、ピンクダイヤモンドの埋め込まれた綺麗なアンティーク風の鍵を差した。がちゃり。その向こうはおいしい食事もやわらかなベッドもおもちゃもある世界だったけれど、 燐は何一つ満たされたことはない。
『いい子ですね』
扉をくぐる。雪の積もる教会の庭で、養父が確かな殺意を抱いた目でメフィストを見ていた。それでも未だに自分がメフィストの元にいてメフィストのいうままに面会の時間さえ制限されていることを受け入れているのは、 養父にも負い目があったからだ。そして息子を本当に守りたいという親としての情。そして何より燐が悪魔の言葉とヘビを受け入れてしまったから。 自分の体から噴出す炎の意味も自分の本当の正体もまだこの時の燐は知らなかった。それでも本能的に理解していた。これは父さんと雪男を傷つける。 だから、

『それでも…燐は俺の息子だ』

ばたん。
扉の向こうはおいしい食事もやわらかなベッドもおもちゃもある世界だったけれど、 燐は何一つ満たされたことはない。







『あなたは武器になんてならなくていいんですよ、計画なんてどうだっていいんです。祓魔師にもならなくていい。あなたは自分を脅かすものには近づかなくていい。ずっと私の元にいてくだされば、 それだけでいいんですから』







僕は今でもあの日のことを夢に見る。
昨日聞いた弟の言葉に燐は俺だってと目覚めた頭で考えた。珍しくメフィストはまだ寝ていてその長い腕で燐の体を抱きこんでいる。窓の外はまだ暗い。 何時なのかわからないがどうでもよかった。 まだ瞼が重く眠かった。ここに来てからメフィストに自室を与えられていたけれど、ベッドだけは一度も使ったことがない。 毎晩毎晩この男は自分を抱きこんで眠るからだ。「燐、ねえ、側にいてください」と燐の体を抱きこんで、離さないとばかりに。決して離さない、と。 背中から抱き込む男の静かな寝息がうなじを撫でる。ぶるり、と身震いした。夜明け前の寒さのせいではない。
もう少し、寝よう。
ここに来てから見る夢なんて、もう過去った家族との思い出ばかりだった。それでも夢の思い出の中だけでもいい。燐は、そっと、目を閉じる。







『本当でしたら今日は、藤本の命日になるはずだったんですよ』



メフィストは時折、不可思議なことをいう悪魔だった。



かちん。
三月の半ばのこと。丁度時計が深夜0時を過ぎた時であった。
大きなテレビの前で大きなソファで二人で腰掛けて、DVDで映画を見ていた。メフィストの要望で時々夜の時間をこのような安い戯れで過ごすことがあった。 燐と一緒にやりたいんですといって、DVDを見たりゲームをしたり。何故メフィストがそんなことをしたがるのか燐にはわからない。この時は、確かとある監獄に無実の罪で入れられた男と殺人で入れられた男との友情の話。
テーブルの上にはすでに開けられたワインのボトルが三本転がっていて、 メフィストはワイングラスを大きく傾けて残りを一気に煽った。メフィストらしくない飲み方だった。少しとろんとした目つきで見ているのか見ていないのかテレビを睨んでいた。 メフィストは時折、こうして大量のワインを空けることがあった。そんな時決まって不可思議なことをいうのだ。明日はどこかの国でたくさん人が死ぬ事件が起きますよという物騒なことから 、明日は快晴といっていますけど雨になりますから洗濯物は止めておきなさい。という日常的なことまで。不思議と全て当たっていた。しかし燐はそれまで深く考えたことはなかった。 悪魔でメフィストは頭も切れるし立場上常に最新の情報を仕入れている。だから知ってただけだったのだろう、と。それまでの燐は思っていた。
『…縁起でもねえこと言うなよ…』
燐は本気で怒った。ここに連れてこられてから炎のコントロールも覚えさせられたし覚えなければとわかっていたから今でももうかなり扱いが慣れている。 それでもメフィストのその一言にぼうと薄暗い部屋に青い光源が灯る。くつくつ、メフィストは何がおかしいのか少し笑うと四本目のボトルを開けた。 つん、とワイン独特のアルコールの臭いがする。
酔っ払いの戯言だ。
しかし本当は燐はわかっていた。メフィストほどの悪魔が人間の作った酒などで酔うはずがない。酔いたいときは酔っているふりをして楽しむ悪魔なのだ。
今度はグラスにそそぐこともせず、直接ボトルの口からワインを飲んだ。それにはさすがに燐も驚いた。
『飲みすぎだぞ』
『…ワインは好きです。味も香も奥深く年代物で貴重なものほど手に入れたくて仕方がなくなる。そんな不思議な魅力のある酒だと思いますけど………こんなもので酔える人間がたまに羨ましい』
ごくん。白い喉仏が上下する。浴衣に数滴赤い雫が落ちた。普段のメフィストならば考えられないような行儀の悪い飲み方だった。
『そしてそもそもね、こういったものに価値を求められるのは人間だけなんですよ。死があるからこそいつかの瞬間に貴重なワインを飲もうと思う。死があるからこそ離しがたい。 死があるからこそ…手に入れて大事に大事にワインセラー、に』
メフィストが貴重だといっていたワインも空けている姿を見て、燐はいつかの面会のとき養父が「悪魔に対してこういうのは変かもしれないが、 あいつ、メフィストは何かがごっそりと変貌しちまったみたいだった」と言っていたことを思い出した。例えるなら前は何か珍しいものや貴重なものを集めて大事に保管しては楽しむ悪魔だったらしい。 なんだかんだで人間が好きで遊びとはいえ人間のすることを模倣みたいに楽しむ悪魔だったのだ、と。
しかし燐を連れ去ったあの日からそれまで大事に保管しておいたものを、例えばワインのように消化できるものは戸惑いなく手につけるようになったのだという。 確かにメフィストは、燐がここに来てからモノを消化していくことしかしていない。
ぽたぽた。
血のようなそれが白いソファに落ちてしまう。
それを見て燐は怒りも忘れて恐ろしくなった。
『…ジジィに電話したい』
意を決して告げればあっさりと、いいですよ、と言われ、
『ただし一言でも何か言葉を発するのはダメです。でもまあ日付は変わりましたから大丈夫だと思いますけど』
燐のものだと与えておきながらその懐に隠し自由に使わせてくれたことのない携帯電話を取り出し燐に渡す。燐は奪い去るようにそれを手に取ると自室に駆け込んで震える手で電話をかけた。 もう日付が変わっていて養父は寝ているかもしれなかったけどそれでも声が聞きたかった。そして数回のコールの後、
『…燐?』
養父の声を聞いたときそれまで燐は自分が呼吸をするのを忘れていたと気付いた。吸い込んだ空気が肺に痛くて、泣きたくなった。
『燐どうした?何かあったのか?』
『………』
それでも燐は「言いつけ」を守って声を出すことはなかった。父さん。と心の中で叫びながら。
『燐……』
『………』
それでも嗚咽が漏れてしまう。く、っと喉を鳴らして飲み込むが養父には聞こえてしまっていただろう。一瞬、電話の向こうで息を飲む音がした。
『燐……』
『………』
『…すまない、燐…』
養父は謝った。そんな言葉いらなかった。
『…おまえを守るためだと思ってただけなんだ…』
そんな慈悲深い愛情もいらなかった。独りよがりでエゴで独占欲でもいい。燐は俺の息子だ!と悪魔の腕を切り落としてでも奪い返して欲しかった。 いや違う。養父は親としての愛情を貫いてくれただけだった。あの時、養父の手を振り払ったのは自分だ。養父と雪男を傷つけたくなくて。
そのまま一晩、養父は燐に話しかけ続けた。







『藤本、元気でしたか?』
一晩過ぎて。泣きすぎて目を腫らした燐はリビングに戻った。その日は曇りでカーテンを開けても朝日は入り込んでこなかった。まだDVDは流れていた。同じ映画だった。 メフィストも同じくソファに座ったままでワインに汚れた浴衣を変えてもいなかった。カラになったボトルはもう10を越えていた。 何回か繰り返してみていたのだろうか。監獄に収容された囚人二人は、自分達を閉じ込める絶対の壁を見上げていた。

ぱんっ。

テレビから目を離さないメフィストの頬を気が付けば叩いていた。頭の中は真っ赤だった。本来燐はこういう性格だった。メフィストの「脅し」に怯え家族を想い、ずっとずっと我慢してきただけで。
『…二度と、あんな冗談、言うな』
自分でもぞっとするほど冷たい声だった。
『…あんた、何なんだよ!?俺はあんたの言う通りに10歳の頃から大人しくこの屋敷にいて外へ出たくても我慢したし家族に会いたくてもあんたの言いつけ通りの時間だって守ってる! 電話だって!…祓魔師になりたかったのにそれもあんたの望む通りに諦めた!この5年間俺はあんたの言いつけを守ってきたじゃねーか!?…あんたが、あんたが、 父さんと雪男を守ってくれるっていったから!』

ナニモノにも二人を「殺させない」。

守れるということはいつでも殺せるということだから。

『それなのにあんたはそうやって手当たりしだいに何かを失くしていって…!……俺が俺が…何しても言いつけ通りにしてもちっとも安心しなくて満足もしなくて…! あんたは何を望んでるんだよ!?…いい加減にしてくれよっ!』
打たれた頬が少し赤くなっていた。悪魔なのですぐに消えるだろうけど自分も悪魔でけっこう力を入れてしまったからしばらく残るだろう。今日は会議があるといっていた。 せいぜいその無様な顔を人に見られればいい。燐は頬を打ってしまった罰をもらおうがなんだろうがもうどうでもよかった。契約のサインは未だ手首に残っている。 頬を打ったぐらいでは契約違反にはならないということだろうか。それなのに嬉しくもなかった。背を向けてリビングを出ようと扉に手をかける。 それでもきっと数分後に自分は悪魔のために朝食を作っているんだろう。悪魔は何事もなかったように振舞うに違いない。そういう、悪魔だ。
『…燐』
背中から投げかけられる呼びかけに答える気はなかった。ただ縋るような弱々しいメフィストらしくない声だとは思った。











「燐、もうそろそろ起きたらどうですか?」
妙に優しいいつもの声で起こされる。この声に起こされる朝は何回目か。数えているわけがないので知らない。やはり額を撫でてくる手は冷たくて、しかし今朝は振り払う気にはなれなかった。 瞼がくっついてあかない。燐、とメフィストは甘く優しく呼んだ。
「…泣いてたんですか?」
「………」
答えたくなくて羽毛布団の中に逃げる。しかし布団ごと大きな体が伸し掛かってきた。重いと文句を言ってものかない。仕事は?と聞いても今日は何もないんです、と返された。
「燐…」
「………」
「燐、側にいてくださいね、私の側に…その事実だけで私は満足なんですよ」
馬鹿じゃねえの。その言葉は布団のやわらかさに奪われて上手く音にはならなかった。 返事がないのに構わずメフィストは自身も布団に潜り込んで、燐の肌蹴た首に唇を寄せた。何をするのかと驚いたが、メフィストは燐が戸惑う間に、 ヘビのような舌を二度、三度燐の成長途中の首に這わせた。そして最後に喉仏にキスをされ、呆然とする燐に笑うと手鏡で首を見せてきた。
燐の首には黒いヘビが巻きついていて、それも以前と同じように皮膚に浸透して消えていった。











すっかり春が過去って、夏が終わってもやはり燐は学校に一度も出席しなかった。そのことで雪男と面会したとき問い詰められたが燐には何も言うことはできない。 弟は期待を裏切られた落胆を隠さなかった。そんな弟を見て、10歳のあのときから雪男は自分のために祓魔師の勉強をもう始めていたのかと思うと、 雪男には申し訳なかった。でも考えてみればあの時、メフィストが自分を連れ去ることがなければ雪男の今とはどんな風になっていたのだろう。 兄を守らなければという負担からもしかしたら悪魔堕ちもありえたのだろうか。そう思うとぞっとしたが同時に安堵してしまった。 だってもう雪男は自分を守るために生きなくていいのだ。
家族と離されたのは悲しかった。寂しかった。でも結果的にメフィストのしたことはやはり自分の家族を守っているのではないか。
あの男に対して考えが甘くなっている自分に首を振る。
雪男にも養父にも告げていないし告げる気はないが、丁度世間でいう夏休みが終わるころ燐は初めてメフィストに抱かれた。
いつも夜、ベッドで抱きしめられるようなものだけではない。 暴かれて全てを奪われた。最初は驚愕して思わず抵抗してしまったが、首を絞めるメフィストのサインに抵抗は奪われた。最も、そんなのがなくてもメフィストはどろどろに燐を解して甘い刺激を与えて、 とても、優しく、とても穏やかに肌を合わせてきたので、燐は途中で全てを忘れてメフィストの痩せた背中に手を回してしまったのだから。呆然としながらも自分の肌を這うメフィストの手が、初めて温かいと感じて、燐は何故か、ふう、と息を吐いてしまっていた。
燐、燐、燐。
縋るようにずっとメフィストは自分を呼んでいた。
そんなことがあった日からメフィストが求めるままに肌を重ねる日々が続いている。いつもメフィストは自分を放すまいと縋るように抱いていた。狂ったように自分の名を呼んでいる。
だからだろうか。最近、メフィストに対して何か言い表せない感情が生まれるようになって、でもよく考えてみたらそれは最初から燐の中にあった気がするのだ。
途中でぼうっと考え込んでしまったので雪男に心配されたがまさかいかがわしいことを考えてしまったなどといえるはずもなく。その日は当たり障りない会話をした。 祓魔の術が隙間なく施された見張りつきの部屋で。春から弟はまた逞しくなった気がする。
「なあ、祓魔塾のほうはどうなんだ?」
「いや、それは…まあまあ順調だけど…」
雪男は祓魔師の世界のことはあまり燐には話さなかった。きっと後ろ暗いのだろう。弟が13歳で祓魔師になったと聞いたとき、自分も祓魔師になる、と言い出してメフィストと養父も巻き込んでひと悶着あったのだから。 結局、燐は諦めたけれど、そうやって兄の諦めてきた世界で生きているのが雪男は後ろ暗いのだ。別にそんなこと気にしなくていいのに、と燐は思う。祓魔師になりたかったのだって、 ただのエゴだ。雪男に置いてかれたような気がしたから焦っていただけだった。
でも今はそれでいいと思っている。
短い面会を終えて、自室で雪男のくれた祓魔塾の塾生達と撮ったのだという写真を見てそう思う。雪男に頼んだ写真だった。 雪男はこれを渡すのに罪悪感があったようだがどうしてもおまえの生活を見たいんだ、と兄にねだられて結局は渡してくれた。それは夏休みの最中のことのようで、 燐は知らない塾生達と講師をしている雪男の姿が映っていた。おかっぱのかわいい女の子が「杜山しえみ」。一見不良みたいに髪の一部を染めたごつい男が「勝呂竜士」。 ピンク頭が「志摩廉造」で小さいのが「三輪子猫丸」ツインテールの写真の中でいつもそっぽを向いてるのが「神木出雲」。というのだと雪男に教えてもらっていた。
写真の中の彼らは年相応に笑い夏の日差しの輝きの中、成長期の若木のようにキラキラしていた。ここは京都なのだろか。 古い寺や町並みが背景に映りこんでいる。京都での任務を終えた後、観光してきたんだと雪男は燐にもお土産をくれた。京都タワーのマスコットキャラの大きなぬいぐるみを燐は気に入った。
俺は知らない知ることはこれからもないだろうという世界だ。
でもそこで雪男が笑っている。それだけで燐は満足だった。京都での遠征はかなり大物の悪魔が復活してしまって大変だったという。燐は詳しく知らないが聖騎士の養父まで駆り出されていたのだから相当な戦闘だっただろう。 それでも養父に雪男に塾生もみんな無事だったのは、メフィストが最後に留めを刺したからだと養父から聞いている。
「燐?」
メフィストが帰ってきたようで自室の扉をノックする音がした。返事はしないが数秒経てばメフィストは構わず扉を開ける。ベッドの端に座って写真を眺める燐を見て、 メフィストも燐の隣に腰掛けた。ぎし。もう一人分ベッドが沈む。
「塾の写真。雪男がくれたんだ」
メフィストが尋ねる前に答えた。物を渡しあうことは別に禁止されてないのでメフィストは何も咎めなかった。
「そうですか」
「おう、すげーよな雪男!こんな俺らと年も同じな奴らの講師しててさ、こんなに…人に囲まれて…」
それ以上はなんだか虚しくていえなかった。燐の写真を握る指に力がこもったのを察したのかメフィストがその指を撫でてくる。
「…メフィスト、ありがとうな」
思っていたより案外簡単にその言葉は出てきた。メフィストは目を見開いていた。そんな顔がどこか間抜けで燐はおかしくて少し笑う。
「だっておまえが京都のバケモン倒してくれたんだろう?だから雪男もジジィもこの写真にいるみんなも無事なんだ。ありがとうな、なんだかんだであんた約束守ってくれてるし、」
言い終わる前に抱き込まれた。白いスーツの生地が驚くほど滑らかででもそこに顔を押し付けられた。肩を掴まれてそのままベッドに引き倒される。 いつの間にか手袋を取った手がスエットの中を探ってきた。自室でするのは初めてだった。 背中にあるシーツも布団も使わなくても毎日干しているが、それでも何故か、メフィストの部屋にある羽毛布団のほうがよかったかもと少し思った。 それも熱に浮かされる頃にはどうでもよくなったけれど。

「燐…今年の誕生日のことですが、」
平らな胸に肌に首に舌を這わせる悪魔に喘ぎながら、
「わかってるよ…雪男と父さんにも言っておいた。っ……今年はあんたと過ごす…拗ねられてすげー大変だっ…!」
と言う声にも余裕はとても持てず、切れ切れになってしまう。それでもメフィストはそうですかと息を燐の首に吐きかけた。ひどく温くてしめっている。 それはやわらかくあたたかく燐を拘束して離さない。
「燐、燐…離れないでください。私を置いていかないで…」
いつも。
こうしているときメフィストは心底怯えたように自分に縋る。たった15歳の今年の冬になれば16歳になるただの子供に。サタンの落胤に。末の弟だという自分に。 年長の悪魔は縋るのだ。離さないと離れたくないと置いていかないでくれ、と。そんなときいつも思う。メフィストはずっと何かに怯えていて少なくとも自分を連れ去ったあの日から一度も満足したことはないし、 一度も本当の安堵を得られたことはないのだろう。
あんたは何がそんなに。
何度もそう聞きたかった。でもそれはメフィスト自身から話すべきことだろうと察してもいた。細い肉付きもそんなによくない自分の体を貪って首に所有のサインを残す。 面会時間を決めて外には出さずに祓魔師になることも許さずに、このやわらかい腕の中に閉じ込める。そのわけは。 あるはずだ。そのわけを話してもらえるのはきっと次にメフィストがワインを大量に空けるときだろうと燐は男に揺さぶられながらぼんやり思った。















2012.4.28