その日は燐と雪男が10歳になる日のことであった。すでに料理を覚えて中々の腕前を誇っていた燐は近所のスーパーまで一人で行って食材を買ってきた帰りだった。
がさかさ音を立てるビニール袋にはスキヤキの材料が入っていて燐は弾む気持ちを抑えきれず早足で雪男と養父の待つ修道院までの道を急いでいたのである。
学校も冬休みに入り街が色めきたつクリスマスを2日過ぎた日。それが双子の誕生日で、クリスマスとは別にこの日を祝うのも習慣であった。
最近「塾」に入ったからといって何かと家を空けることの多くなった弟も何かと忙しい養父も、クリスマスの都合がつかなくてもこの日だけは予定を空けておいてくれていた。
燐にはもとより養父と雪男以外に約束事のできる人間もいなかった。学校ではすでに除け者にされることばかりで悪魔だの化け物だの陰口を叩かれていることも知っていたし、
友達が一人もできないことを諦めてもいた。10歳の子供の世界というのは狭いものだが燐はことさらその兆候が強く、心のどこかでこの自分は馴染めない辛い世界から離れた場所で生きていくべきなんじゃないか、と
考えていたのかもしれない。10歳だったのでそれはほんの無意識であったのだが。
「ただいまー!」
吐く息は白く、修道院に帰りついた時にはちらちらと綿毛のように雪が降り始めていた。初雪であった。わあ、と燐は無邪気な声をあげて空を見上げた。
暗雲とした空。そこから舞い散る空の散り。後に燐が思うに、本当の自由を持って見上げた空とはそれが最後であったのかもしれない。これは積もるだろうか積もったら雪男と一緒に雪合戦をして遊ぼう。
最近、塾だのなんだのと自分とはあまり遊んでくれなくなってしまっているので、誘ったら喜ぶだろうか断られてしまうだろうか。期待と不安を見上げる空の雪に織り交ぜて、
燐は修道院に入った。
…あれ?
そこで燐はいつもは違う何かに気付く。誰の返事もない。おかしいな鍵は開いていたしなにより自分の材料費を渡してちょっとお使いに行ってきてくれ今日はおまえの好きなスキヤキでいいぞ、と行って見送ってくれたのは養父だ。
ならば養父の、おかえり、という返事だけでもないとおかしい。
「…父さん」
嫌に、しん、とした修道院。燐は急に恐くなってビニール袋を持ったまま養父の姿を探し回っていた。修道院、養父の部屋にもおらずならば教会か、とそちらへ向かおうとしたとき、確かに燐の耳は養父の怒鳴り声らしきものを捕らえたのである。
「ふざけるな!てめえ、約束が違うだろう!?」
聞いたこともないほどの養父の怒りに満ちた怒鳴り声。燐は教会の扉を隔てた向こうで聞こえるそれに肩を震わせた。養父と他に誰かいるのだろうか。
知らない人の声も聞こえた。養父の快活なのとは違って落ち着いているのだが低く通った大人の声だった。その知らない人の声と養父の声が言い争っているのか燐の幼い耳には痛いぐらいに交わされあう。
どんな内容かはよくわからなかった。ただしきりに養父は、話が違う早すぎるまだ時期じゃない、と言っていた。それに対して知らない人がどう返していたのかはわからなかった。
どうしよう。
誰か他の大人を呼ぶべきだとわかってはいたが、何故か燐は扉に手をかけることもできず立ちすくんでいた。大きな綿毛のような雪はその数秒の間にも燐の青い黒髪にたまっていき、
白く染めていく。
「待て!---メフィスト!!」
ばん!
急に目の前で扉が開かれた。あと少しで燐の顔に当たるところだったのだが扉を開けた人物は燐が扉に当たるような場所にはいないことをあらかじめわかっていたかのように。
迷いなく、扉を開けると燐の前に立った。
「…誰?」
知らない人だった。
とても背が高く真っ白な長いマントを纏い、大きな白い帽子の影から覗く黄色を帯びた緑の目は、夜中に遭遇する猫のように爛々と獰猛な輝きを放っていた。
おなかをすかせた動物みたいだ。
それが燐のこの男に対する第一印象で数秒置いて、ピエロ、みたいだと思った。
長身の男は雪のつもり始めた地面に膝をつき、燐と目線を合わせた。やはり緑の目がぎらぎらしているのに、口の端は狂ったように、にやついている。
そこから見える犬のような牙。時間にして1秒にも満たなかったのかもしれないがそれでも男はつま先から頭までしっかりと燐を嘗め回すように、見つめた。
そうして、ほう、と息を吐く。男の吐息も白く染まり冬の空気の中に散っていく。
「コンニチハ、燐くん」
何故か、初めましてとは言われなかった。
呆然と立ちすくむ燐の前で、男は長い腕の中に抱えていたものを取り出す。それは青くシンプルな装飾の施された、日本刀。
「待てメフィスト!やめろ!おまえどうしちまったんだ!?」
はっと気付くとまだ教会の中で獅郎が喚いていた。数人の黒装束を纏った人達に腕を押さえられている。父さん!と駆け寄ろうとする燐の体を片腕で簡単に押し返す男。どしん、と
燐は尻餅をついた。まだ腕に下げていたビニール袋の中身は地面に転がった。
その上から男が覆いかぶさるように見下ろしてくる。ばさり。真っ白いマントが世界から燐を隠す。
メフィストよせやめろ約束が違う!と獅郎は喚き暴れていたようだがもうそれは音だけでしかわからず、
「燐、逃げろっ!!」
その呼びかけに必死に立ち上がろうとする燐を嘲笑うかのうように男は燐の目の前で青い鞘の刀を掲げ、
「気が、」
すらり、と抜いた。
「変ったんですよ、藤本」
濡れたように白く光る刀身に、青い目を命一杯見開く自分とその端に兄さん!と叫んで自分に駆け寄ろうとしていた弟を認めた後。
ごう。
目の前が真っ青な世界に染まる。
この日を境に燐の生き方は一変することとなった。
2012.4.23