Keloidal

 

「ああ、あああああ、あっあっあああああーーーーーーーーー…!!」



兄さんを襲った青い炎は禍々しい悪魔の炎そのもので、それは目の前で兄さんの体を焼いていた。兄さんは地面にのたうちまわって髪と肉の焼ける臭いが僕の鼻について、 僕はそれでようやく我に返った。
「兄さん!!」
全て終わって虚無界門から帰ってきてくれるはずだった。それなのにその門をくぐった途端あふれ出した兄さんのものではない青い炎が、今、兄さんを燃やしている。 肌が焼けても炎に焼かれ尽くされるよりはと聖水を青い炎にかけてもそれは消えてはくれなかった。コートを脱いで兄さんの体を覆ってその上から押さえつけても、 炎は消えない。兄さんのコートをブローチを僕のコートも腕も焼き尽くしていく。熱い。肌をやく炎から感じられるのは兄さんの炎とはまったく真逆の残酷さと禍々しさと、 執念と怨念そして 全てを焼き尽くす絶対の熱だった。抵抗しようと噴出す兄さんの炎さえ食らい尽くしていく。
「くそ、消えろ消えろ消えろ消えろ消えろっ!!」
炎の熱さに暴れまわる兄さんの体を押さえつけ、体ごと炎を地面にこすりつけても聖水をかけてもなにをしてもサタンの怨念は兄さんを放してはくれなかった。
「ダメだ離れろ!おまえまで燃えるぞ!!」
誰かが僕を兄さんから引き離す。僕は抵抗したけれど、みんなが僕を兄さんから引き離した。どうしてそんなことをするんだ。兄さんは目の前で燃えているのに。
「離して離してくれっ!!兄さん、兄さん、兄さん、兄さん--------------!!」

兄さんの絶叫が響き渡る。

僕の腕を掴んでいたのは女性らしい白いしえみさんの腕だった。
しえみさんはその大きな目からぼろぼろ涙を零しながら、燐燐燐!と叫んでいた。神木さんは呆然と立ち尽くしてやがて力なく座り込んでしまった。 勝呂君に志摩君も三輪君もシュラさんも。兄さんの炎を消そうと近づけばまるで獣のように、 炎が燃え上がり僕達を阻む。
どこか頭の奥で兄さんの悲鳴と悪魔の神の狂ったような嗤い声が聞こえていた。

「あ、が…あ…ゆ、ぎ……お……!!」

兄さんは、空を掴もうとするかのように腕を伸ばしていた。僕は、僕たちは燃やし尽くされる兄さんを見ていることしかできなくて、 兄さんの肌が燃やされ真っ黒な塊になってしまっても炎はその体に食らいついていた。



そして、兄さんは最後に大きく痙攣をすると、ぴくりとも動かなくなった。















「…生きてるのが奇跡ですよ」

血が滲む包帯を巻かれた顔を覗きこむながらフェレス卿はそう言った。
その顔はいつものように不愉快な笑みは浮かべておらず、珍しく無表情にじっと兄さんを見下ろしている。 いろんな管に繋がれて喉から肺まで押し込められた呼吸器だけが兄さんに酸素を送り込んでいる。その音だけが僕の耳に纏わりついていて、 病室を満たすのは、人の肌の焼けた臭いと膿みから発せられる独特の臭いだけだ。 それは僕の喉と肺に染み付いて、締め付けるようだった。血が滲む包帯で全てを覆われた兄さんをじろじろと見る悪魔の視線さえ煩わしい。 その紫の手袋をした指が顔の包帯に伸びたとき思わず、触って欲しくないと思ったけれどこの悪魔が今まで兄さんをサタンを倒す武器にするためにしてきたことの結果がその包帯の下にあるのだから、 彼は見ておくべきだろうと思い止めなかった。 フェレス卿は少しだけ顔部分の包帯をめくる。 ぺり、っと肌の組織が剥がれる生々しい音がした。
全てを焼かれた兄さんの顔を見て、ここに来て初めてフェレス卿はその眉間に深い皺を寄せた。
そして数秒見つめた後、丁寧に包帯を元に戻す。
フェレス卿が変わり果てた兄さんの顔を見てどう思ったかは知らないし、僕は聞くつもりもない。長く存在している悪魔だ。もっとひどいものなんてそれこそ多く見てきただろう。 でも僕にとって、今の兄以上に酷いものなんてこの先もあるわけがなかった。
「兄は、眼を覚ましますか?」
どんな医者に診せても「わからない」「生きているのが不思議だ」とそればかり。誰一人として僕の欲しい答えはくれない。 そしてこの悪魔も欲しい答えはくれないだろう。
「…なんとも、言えません」
黄色を帯びた緑の目がサイドテーブルに置いてある手付かずの食事を見ている。それは僕のために用意されたものだったけれど、兄さんがここに運び込まれてから三日目、 僕は水しか飲んでいない。不思議と腹は減らないのだ。でも食事を取らない体というのは正直で、三日目から目眩を感じ始めていた。それを誤魔化すように手で顔を覆い、 兄さんの寝ているベッドに頭を預ける。食べなければお兄さんが目を覚ますときまでにあなたが死んでしまいますよ。という言葉さえ僕には効果はない。
「物質界に存在するいかなる技術を使ってもこの火傷を治すのは不可能ですね。私でもこれは無理だ」
僕に食事を食べさせるための説得はあっさり諦めて、フェレス卿は再び兄さんに視線を戻した。
「いくら手術で剥いでも張りなおしても、そこから再び火傷が生まれる」
それは兄さんの手術を担当した医者から聞いていた。何をしてもどうしても、まるで生き物のように火傷が新しく浮かび上がりすでに焼け爛れた肌をさらに焼くのだという。 絡みつく蟲の大群のように兄さんの肌に食らいついて、離さないのだ。
「それでも、奥村君がこうして生きているのは彼の持つ治癒力のおかげですよ」
それでも兄さんがかろうじて生きているのも焼け爛れてぼろぼろの肌でもそこまでなんとか形を持ったのは、悪魔の治癒力と兄さんの炎のおかげだ。 でもそれを喜ぶことなんて到底できるわけがなく。僕は深く項垂れる。フェレス卿もしばらく黙っていた。聞こえるのは兄さんの肺に酸素を送る音だけだ。 他の音なんて聞こえないし聞きたくもなかった。今現在、外で世界がどうなっているかなんて。サタンが消滅したあとの世界がどうなっているかなんて。 今は何も聞きたくない。それなのにフェレス卿は僕に現実を叩きつける。
「…これから多くの上級悪魔が彼を奪い取りにやってくるでしょうね。青い炎がなければ悪魔の数は今後減る一方ですから。虚無界に青い炎は不可欠だ。…意味はおわかりですね奥村先生?」
フェレス卿が指を鳴らす音がしたかと思えば、ふと、部屋の結界の気配が増した。そしてかつかつとブーツで歩き扉を開ける音。帰るのだろう。フェレス卿には何も期待していない。 悪魔に贖罪とか懺悔とか。そんなものに意味なんてないし縛られることもないとわかっている。僕も本心ではそれを求めていないだろう。フェレス卿がしてきたことの結果が今の兄の姿だ。 それを見たのだからもうフェレス卿には何も求めない。私もできる限りのことはしますよ、と去り際そんなことを言っていたがそれさえ酷く無意味で虚しいもののように聞こえた。
フェレス卿が去ってしばらく経過してから僕はようやく顔を上げる。額に汗が滲んでいた。兄さんはやはり目を覚まさない。ねえなんとか言って兄さん、と無理なお願いをして真っ赤に膨れ上がって、 左の人差し指にだけかろうじて爪を残しあとは全て燃えてしまった兄さんの手を握る。火傷のせいで皮膚がざらざらしていて歪な感触だった。しばらくそうして兄の手を祈るように握り続けてから、 僕はのろのろとベッドサイドに置いてあった食事に手を伸ばした。体というのは本当に正直で、何か食べなければ死んでしまう、と体の奥底から訴える。 なのに心は冷えた食事を求めてはいない。人というのは心と体の調和が取れていなければこんなにも生きることをしようとしなくなる存在なんだと、初めて知った。 それでも僕は無理矢理冷えた食事を口に運ぶ。三日振りのそれは胃に痛くて吐きたくなった。
死に掛けている兄さんの目の前で僕は生きるために、兄さんが目覚めた時、側にいるために食事を食べる。それは喉を流れて胃に落ちて、僕を生かす。
それが酷く罪深いことであるような気がした。



いっそ、あの時一緒に死ねばよかったのだろうか。











兄さんが目を覚ましたのはそれから一ヶ月も後だ。
けれど薄く瞼を開けるようになっただけで、青い目は一点を虚ろに見つめるばかりで周りを認識しているとは思えなかった。僕やかつての塾の仲間達の誰が呼びかけても、反応しない。 脳がやられてしまったのだろうか。こんな状態を一生続けるのだろうか。そんな途方もない恐怖に怯えながら僕は兄の側にいた。フェレス卿曰く、彼は今一番早く治すべきところを治すために必死なんですよ、だそうだ。
ねえ兄さんの一番早くに治したいところってどこなんだ?おバカだったけど僕や仲間達との思い出がたくさん詰まっているだろうその頭の中から? だったらこの際、悪いことは全部置いてきてしまえよ。キレイで楽しかった思い出だけ兄さんの頭の中に残ればいい。そうして穏やかな余生を送ろうよ。僕はずっと側にいるから。 だって兄さんはもう充分やったんだから。
僕は毎日兄さんにそう話しかけて手を握り続けた。外がどうなっているのは相変わらず僕は知ろうとはしなかった。でもそんなある日、毎日のようにお見舞いに来てくれていたシュラさんがいいにくそうにこう告げた。

「燐の祓魔師の免許が剥奪された」

シュラさんらしくない震えた声だった。

「…そうですか」

「なんだ…思ったより取り乱さないな」

「だってもう兄さんには必要ない。確かに結局名誉騎士どまりで聖騎士にはなれなかったけど、それ以上のことやってのけたじゃないですか。神父さんだって…」

神父さんだって、もう充分だ、って天国で泣いてくれているかもしれない。神父さんが兄さんを生かしたことは正しかったのだ、ときっと誰もが、

「…ヴァチカンは…燐のしたことは認めないみたいだ」

ぎしり。彼女は動いていないのに胸の奥で骨の軋むような音を聞いた気がした。

「燐がもう動けないのをいいことに、おまえがそうやってうじうじしている間に、色んなことが進んだぞ。最もおまえが動いたってどうにもできなかっただろけどな」

あいつらは、悪魔に救われたなんて認めないつもりだ。

ばん、と床に何か叩きつけられた。ヴァチカンからの通告書だった。それは一、二枚叩きつけられた衝撃で宙を舞って落ちていく。
「あいつらは燐がもう充分に炎を使えないのを、いいことに…!」
叩きつけられた通告書を拾って目を通す。
一文字一文字、読み進める度に頭がじんと痛くなってぼうっと靄がかかったようになってくる。シュラさんは兄さんのベッドの淵に額を押し付けて、泣いているようだった。 彼女の泣き顔なんて初めて見た。嫌に現実感を伴わない。彼女は悔しそうに血が滲むほど床を殴り、獅郎獅郎獅郎なんでもいいから生き返って燐を助けてくれ、と泣いていた。

兄さんと引き離される。

最後までその冷たい紙を読み進めて最初に僕が理解したことはそれだ。

頭がじんと痛くなってぼうっと靄がかかったようになってくる。ぱさり、と無慈悲な紙が床に落ちる。シュラさんの咽び泣く声がとても惨めに思えたけど、 ここでただぼうっとするしかない僕の方がこの時、よほど惨めだった。











「これが虚無界に存在する…「悪魔の契約書」です」



黒光りするデスクの上にフェレス卿はたった一枚の紙を取り出した。
学園の理事長室でのことだ。
黄ばんだその紙は相当年月が経っているように思えたが不思議と重厚な存在感を醸し出している。紙なのに。まるで生き物のような奇妙な感覚。 悪魔の契約書とは契約者の血でラテン語の鏡文字で記されていると聞いていたが、これはラテン語でもなければ鏡文字かどうかも判別できなかった。 そこには僕は知らない、いや、物質界の誰もが知らないだろう文字が書き記されていた。血のように真っ赤で、歪な、見つめているだけで蟲のように動いているのではないかと錯覚するような、 悪魔の文字。
「これは人間が作った契約書とは比べものにならないほどの契約力があります。…我等の一等上の兄が戯れで数枚だけ作った、強力な悪魔を契約させるほどの力があるものです。 これが私の持っている最後の一枚」
すっとフェレス卿はそれを僕に差し出す。
「悪魔と人の契約は契約者となる人の方の血でサインをし契約期間は通常20年ほどとなりますが、これは悪魔にサインをさせ悪魔の存在そのものを契約書を差し出した相手に縛り付ける。 一度サインをしてしまえば破棄することは不可能となります。終わりのない契約となるんですよ。このように、」
びり、っとフェレス卿は目の前で紙を左右に引き裂いた。しかし次の瞬間には紙はまるで何事もなかったように、手品のように、元通りになっていた。 紙面に綴られている文字が躍って嘲笑っている。本当に、けたけた、文字が嗤っているのだ。
「つまりそれに兄のサインをさせればいい、と」
自分で発した言葉なのにまるで他人が言っているようだった。
あの日から、僕の中で骨の軋むような音が鳴り続け、ぼうっと霞のかかったような頭は晴れない。フェレス卿に何か償ってもらおうとは思っていないし、 今後もそれを求めることはないだろう。フェレス卿やシュラさんやみんながヴァチカンの思惑を阻止しようとしていることは知っている。でも僕はすでに分かっている。 何をしても、もう足りないのだ。間に合わないのだ。

兄と、引き離される。

僕が今、はっきり理解していることは、それだけだ。

「…ええ、彼の血でここにサインをさせれば彼の意思も関係なく契約完了です」
紙面の一番下。空いている箇所を指差される。ほんとにいいのですか?と今更フェレス卿は聞いてきた。
「これしかないんです」
僕は契約書を受け取る。それはまるで大きな石のような重みがあった。けたけた、文字が歓喜で躍っている。さあおまえの好きにしたい悪魔の名をここに書かせろ、と囁きかける。 僕をそれを一蹴した。好きにしたいわけじゃない。そんな醜い感情であるわけがない。僕は、ただ。兄さんを守りたくて。
「……兄を守る、ためです」

違うだろう、と紙面の文字が囁いた。

そうだ、やっぱり違う。
僕の中でずっと鳴り響いている骨の軋むような音は、煮えたぎった憤りだ。
僕は、兄さんと離されたくなくて、そして兄のことを何も認めないこの世が許せなかった。
許せないんだ。
兄さんの側を少し離れて外へ出てみれば、誰も何も知らずに笑って生きている。久々に任務に参加してみれば何故か僕がサタンを倒したのでは?と言ってくる馬鹿な奴までいた。 本気で殺してやりたいと思ったぐらいだ。何にも知らない愚かな奴らを。兄さんを認めてくれなかったヴァチカンも、全部。あれから一年も経ったのに、 彼らは何一つ知らず当たり前のように生きている。そんな凶暴な殺意を抑えたくてまた兄というサタンの落胤を扱えるほどの祓魔師として認めてもらうために僕は出世のために我武者羅に任務をこなした。 我武者羅に医学の勉強もした。 兄さんを使い魔にするという考えは、あの通告書を見た一年前から決めていたのかもしれない。その間に悪魔を憎む人間もたくさんみたし、自ら悪魔になる人間も減らなかった。 罪のないはずの悪魔の母子を犯人と決め付け連行しようとした祓魔師もいる。何にも、知ろうとしないで。泣き叫ぶ母子を引き離そうとする。 悪魔は何も認められないに決まっている、と平然と言ってのける人間のほうがよほど悪魔だ。憤りをぶつけるように母子の無実を証明してやれば随分感謝されたけど、 それは僕の心には響かなかった。感謝されるべきなのは、僕じゃない。僕じゃないんだ。それなのに、みんな何にも知らずに僕に感謝をする。気付きもしないで。 反吐が出る。何もかも僕の心には響かない。この一年、任務でしてきたことは全て忘れた。これからも僕の心には何一つとして残りはしないだろう。
「…奥村先生」
おぞましい思考に落ちていた僕を皮肉にも悪魔が引き戻した。フェレス卿は哀れむような目で僕を見て、
「いつになるかはわかりませんが…いつかもっと別の方法に気付いたらその時は、手を貸しますよ」
と意味のわからないことを言う。
別の方法なんてあるものか。
もうこれしかないんだ。

僕の中でずっと鳴り響いている骨の軋むような音は、煮えたぎった憤りだ。
僕は、兄さんと離されたくなくて、そして兄のことを何も認めないこの世が許せなかった。
どうしても、許せないんだ。
だから、僕は、















「…ゆ、…ぎ…」
三日振りに病室を訪れた僕に兄さんは目を細めて喜んでいた。
ゆぎお。と歪んでしまった声で必死に僕の名前を呼ぶ。布団の隙間から手を出して僕を求める。僕はすぐにその手を握ってあげた。 兄さんは安堵したように息を吐く。
「リハビリ、どうだった?」
「ん…が、ん……ば、っだ…」
たっぷり10秒ほどかけて兄さんはそう言った。上体を起こしたいみたいだったので背中を支えてあげる。今日は調子が悪いようだった。天気が悪いというのもあったかもしれない。 外はどんより曇っていて雨がざあざあ降っていた。兄さんの包帯の間から覗く青い目の焦点が定まっていない。上手く見えていないのだ。 この一年、兄さんは頭の中を回復させることに専念していたみたいで、記憶には何の障害もなかった。僕が願ったようにはいかなくて、兄さんは全て覚えていた。
青い炎に燃やされた恐怖も。
そうして兄さんの意識がようやくはっきりして言葉を発したのは 火傷をしてから半年後のことだった。一番初めに兄さんは「ゆぎお」と言って僕を見て、目を細めた。 あの時の哀しみと喜びが交じり合った感情を僕は一生忘れないだろう。
ただ五感のいくつかはまだ完全には回復していなくて、 それでもリハビリを繰り返してようやく立てるようになり歩けるようになっていた。 無論まだ誰かの支えが必要だけど、ようやくここまで回復したのだ。まったく役に立たない人間の医療は何もしてあげられなくて、兄さんは自分でここまで回復した。
でもそんな兄に待っているのは理不尽な現実だけだった。
残酷にも意識のしっかりし始めた兄さんにすぐにその現実は告げられたけど、兄さんは、そっか、としばらく黙ってから、でも僕やみんなが生きていてよかった、と笑うのだ。 兄さんはどんなになってもやっぱり兄さんだった。兄さんを虚無界に連れ戻そうと湧き出てくる上級悪魔を祓う武器にするためヴァチカンは兄さんの回復はまだか、とせっつく。 兄さんは青い炎に焼かれた恐怖で次に炎を出したらその体がどうなるかわからないのだと、言っても誰も聞き入れてはくれなかった。彼らにとって所詮兄さんは武器で、 炎を前ほど自由に使えないのなら暴走もしなくて丁度いい程度にしか思っていないのだろう。
何もかも反吐が出る。
顔の包帯がずれていたので一度外して巻きなおすことにした。兄さんはこうなってから他人に顔を見られることに少し戸惑いを抱くようになった。 でも僕には何の抵抗もなしに見せてくれる。
いたるところにある赤く膨れて膿みを含んだケロイド。その火傷のせいで皮膚が引きつってしまっていて、 皮のめくれた唇の端はいびつな形に釣り上がっている。そのせいでうまく口を閉じれなくて、乾燥している赤い口。その口の中を潤すために水を飲ませてやる。 兄さんはまるで母乳の必要な子猫のようにこくこくと飲んだ。
兄さんの体には無事な箇所はなく全身が焼け爛れて、赤黒く腫れ上がり体の形を歪にさせていた。今まさに噴出す水ぶくれやケロイドは、兄さんの肌に食らいつくサタンの怨念と、 それを癒そうと抵抗する兄さんの治癒力と青い炎の両方が拮抗しあって、消えてはくれない。
じゅくじゅく、と兄さんの肌を僕の心の中にも水ぶくれやケロイドができてくるようだった。
それでも兄さんは笑い続けるのだ。
「…兄、さん」
ベッドを少し起こして兄さんの背中を預けさせる。上手く話せない兄さんは首をかしげた。
「…火傷の治療のことなんだけど、医者が新しい療法があるから試してみないか、って。でも治療に必要な同意書があってね…」
「……ん…?」

僕は黄ばんだ契約書を兄の手元に差し出した。

「僕は試してみるべきだと思うんだ。だから、ここに、兄さんのサインが必要で」
兄さんは目がよく見えないのでぺたぺたと契約書を触っていた。それで気付かれるかと思ったけれど兄さんは首をかしげるだけだった。
兄さんに全てを話すつもりはない。
この兄のことだ。終わりのない最後がどうなるかわからないそんな不透明な「悪魔の契約」なんて僕にさせたいとは思わないだろう。そして拒絶する違いない。 どれだけヴァチカンに連行されるのが恐ろしくても、独りになるのが寂しくても。僕の中の兄はそんなに弱い人ではなくて、 必要ならきっと僕の側さえ離れることのできるそんな強い人で、それは間違ってないと思う。
でも、ごめん、兄さん。
僕はそんなに強い人間じゃない。
むしろ弱い人間なんだ、兄さん。
紙面をなぞる兄さんの手を取ってペンを握らせる。ここにサインがいるんだ、と確認させてからインク壷の中にペンの先を浸らせた。そこに入っているのはインクじゃない。 検査の採血と称して以前兄さんの体から抜き取った血液が入っている。兄さんはその血液の入った壷にペン先をひたした。ぴたり。一瞬動きが止まる。 血液の臭いに気付かれたかと思ったが、兄さんはその一瞬だけ止まっただけで素直にペン先を紙面につけた。
「すごし、は…」
すこし、は、からだ、よくなるか?
と兄さんは僕の言ったことを疑うことなく聞いてくる。そうだねきっと少しは、と僕は嘘を続けた。
「これでダメでも…兄さんの火傷は僕が治すよ。そして兄さんのしたことも世間に認めさせる」
そういえば何故か兄さんは少し寂しそうに目を潤ませた。それを見ないふりをして、ペンを握っていない方の兄さんを手を握る。
兄さんが青い炎に燃やされて、火傷を負ったあの日から僕は決意していた。フェレス卿は人間には治療は不可能だといったけれど、僕はやってみようと思う。 どんな方法を使っても兄さんを側に置いて兄さんの火傷は僕が治す。
何も残らずにきれいに治して、そして兄さんを炎の恐怖から解放してあげるよ。だって知ってるんだよ僕。今でも兄さん夜中にうなされていることを。 あついあつい、と叫んでいることを。担当している医者と看護士から全部聞いている。兄さんは「ゆきおには、はなさないで」と言ったらしいけど。
何も残らずにきれいに治して、そして兄さんを炎の恐怖から解放する。
これは僕の人生をかけた償いだよ兄さん。あの時、見ているしかできなかった僕の。 何にも知らない、そして兄さんを認めない人達にも代わって。
そんなこと、この優しい何より僕を想ってくれる兄さんに言えるはずもないけれど、僕はそっと誓った。

「兄さん」

「………」

「ずっと側にいるから」

兄さんは、悪魔の契約書にサインをした。

目がよく見えなくても感覚で覚えているのだろう。 赤い血液の文字が、相変わらずヘタだけど、確かに「奥村燐」という名前を綴られ、紙面の中に呑み込んでいく。 これは僕たちを一生縛り付けるのだ。終わりがないからこそどんな結末が僕たちに待っているかもわからない。

兄さん。

兄さんの目が見えないことをいいことに僕はそっと泣いた。

ごめんね、ごめんね、ごめん、兄さん。

声には出せなくても兄さんの手を強く握って僕は誰にもいえない懺悔をする。
そっと兄さんの手が僕の手を握り返してきた。兄さんの顔を見ることができなかった。それは今自分のしでかした罪の重さの自覚があるからだ。 でもそんな罪、なんだというんだ。あの時、見ていることしかできなかった僕自身が何より、罪深い。 兄さんのことを認めないヴァチカンよりも何にも知らずに生きている人達よりも人から悪魔に堕ちるものよりも、本当は、僕が。

「…僕は、」

声が震えた。
兄さんは黙って僕の頭を撫でてきた。頭皮と髪に触れる歪んでしまった兄さんの指。



(キレイで楽しかった思い出だけ兄さんの頭の中に残ればいい。そうして穏やかな余生を送ろうよ。僕はずっと側にいるから。 だって兄さんはもう充分やったんだから)



最初はそれだけを望んでいたはずなのに。人間も悪魔も、周りがそうさせてくれない。そっとしておいてくれない。 僕の中で燻る後悔と罪の意識と恐怖と憤りがそれを許さない。おかしいね、兄さん。 どうしてこんなことになってしまったんだろう。どうしてこうなってしまったんだろう。

わずかに嗚咽が漏れた。兄さんは気付いてはいないだろう。止まることなくその指が僕の頭を撫で続けている。僕は必死に嗚咽を噛み殺して、 ただ涙だけを静かに機械的に流し続けた。



この日から兄さんは、サタンの落胤は僕の使い魔になった。











2012.6.9