「だからあまり炎は使わないって約束だったじゃないか」
ふと、遠くから聞こえてくるような奥村先生の声で私は目を覚ました。瞼をぱちぱちさせてぼやける視界が鮮明になると、
つん、と鼻につく消毒の臭い。どうやら私は医務室にいるらしく白いベッドの上に寝かされていた。横を見れば塾のみんなも点滴を受けながら全員眠っていて、
それ以外に特に目立ったケガもないみたいで私はそっと息を吐いた。まだ頭はがんがん痛み、点滴とおそらく先生達の処置のおかげで肺や喉にあった不快感はなくなっていた。
そうっと体を起こす。
私達が寝かされているベッドの周りは白いカーテンで囲われていて、その向こう側は見えなかった。ただその向こうから奥村先生の声だけが聞こえる。
それに答えるような声はない。独り言にしては、カーテンの向こうにある影は二人分だった。
気絶する直前に見て青い炎を纏った男の人を思い出す。
私は手に汗が流れて気持ち悪くなるのを感じながら、そっと物音を立てずに身を乗り出す。カーテンの向こう側の会話は相変わらず先生だけかと思ったけど、
よく聞いてみれば掠れて歪んだ声が一言二言、先生の言っていることに対して返事をしているようだ。ただその声は酷く歪んでいて正確には聞き取れない。
その時に私を突き動かしたものは何であるのかよくわからない。好奇心といえばそうなのかもしれないし、頭から離れてくれないあの青い炎の残像をこのカーテンの向こうを見れば消えるとでも思ったんだろうか。
どくどく、とした心臓の音が聞こえるのではないかというぐらいで。私はそっとカーテンを少しだけ開けた。
まず初めに見えたものは男の人の背中だった。何も着ていない、成人してるような感じの男の人の背中だ。でも私は息を飲んだ。
その背中は酷い火傷で赤黒く腫れ爛れていたからだ。
水ぶくれがいたる箇所にあってじゅくじゅくと膿んでいて、皮膚がめくれて垂れ下がっている。
酷いところなどケロイド状になっている箇所もたくさんあった。
それが本当はそんなに大きくはないんだろう背中をいびつな形にしている。肌色の皮膚の下にあるはずの皮がむき出しになっている、そんな背中だった。
思わず少し身を乗り出してしまう。不思議なことにその火傷には大分前についたのかもしれない古いものから今まさに水ぶくれを噴出す新しいものまで。
その爛れた皮膚に包帯が張り付いていて、奥村先生はピンセットで慎重な手つきでその包帯をはがしていた。私からは先生の顔はわからなかった。
ただ最初に聞いた言葉から先生が酷く怒っている気配は感じ取れる。
焼け爛れたすごく痛そうな背中は、小刻みに動いて痛みに必死に耐えているといった様子だった。背中を向けているのでその人の顔はわからないけれど、
先生はともて慎重にその痛々しい背中の包帯を剥がして何かの薬を塗りつけていく。火傷をした背中がびくりと揺れて、
ぐ、っと息を飲む音が聞こえた。その度に、こちらも火傷の酷い男の人の右腕が先生の左手首を掴んでいる。
痛みに耐えようとしているかのように。私からはやはり先生の顔はわからない。
でも先生がとても優しい声音で、
「兄さん」
と呼んで、火傷だらけの男の人が、
「ゆきお」
とかすれる声で返したのを確かに聞いた。
私は数秒間呆然とその背中を見つめていた。そして、新しくできたらしい水ぶくれがまるでさっきの豪雨の中で私達を襲った瘴気の塊のように、じゅくり、と膿みを噴出したのを見て、
私はあの濃い瘴気を吸ったときの苦しさを思い出して、思わず小さな悲鳴を上げていた。
ばちり。
背中を向けた人は振り返らなかったけど、奥村先生とは確かに目が合ってしまった。
いつも穏やかで優しい顔をしているはずの先生は、眉間にシワを寄せてすごく怒っているような、今にも泣き出しそうなそんな顔をしていたのだ。
「…ご、ごめんなさい…っ」
引きつった声が出てしまった。悲鳴も聞かれていただろう。
私はどうしたらいいかわからず、咄嗟にカーテンを閉めてベッドの布団の中に逃げ込むしかなかった。どくどくどく。心臓が痛いぐらい鳴っている。
手から顔から変な汗が出てきてぴりぴりお腹が痺れるような感覚がした。ぎゅっと目を閉じれば瞼の裏にちかちかと星が舞っているようで、でもそれが雨の中で見たあの青い炎の火の粉のようだった。
数秒そのまま目を閉じていたけど、先生から声はかけられなかった。代わりにごそごそと布のこすれるような音がして、扉が開けられて閉められる音がして、
人の気配がなくなったので別の部屋に移動したんだろう。その時になって私はようやく目を開けて、はあ、と息をはいた。
「…どうしたの?」
まだ点滴と治療の時に使ったんだろう麻酔でぼんやりしている塾の友達が私を見ていた。
眠いのだろう、今にも閉じそうなその黒い目を見て、私はなんでもないと首を振る。友達は、そう、と安心したように頷くと再び眠り始めた。
医務室には軽い怪我だけですんだみんなの寝息だけが聞こえる。
私は何故かとても泣きたくなってでも泣けないまま、ぎゅっと避けそうなぐらいシーツを握り締めて向こう側を向いて寝てしまった友達のつむじを睨んでいた。
見てはいけないものを見てしまったんだと、そんなことぐらいはわかる。
あれから私達を襲った悪魔は上級で取り逃がしてしまったけどもうこの学園に近づくことはないだろう、ということを知らされて、
みんな安心していた。何故、学園を襲ってきたのはそれについてみんなあまり疑問には思わなかった。
祓魔師を育成しているこの学園には何かと悪魔に狙われる理由が多いせいだから、と納得していたのかもしれないけど、
私は納得できなかった。生徒を安心させるように微笑む先生の目は相変わらず笑っていないように見えて、私だけは奥村先生の顔をまともに見れずにいる。
その日の授業にも集中できなかった。
頭の中ではずっと青い炎と包帯で顔を覆った青い目とあの酷い火傷の背中が、ぐるぐる回っている。
青い炎。それが何を意味しているのか若い世代の祓魔師達だって知らない人はいない。ただそれを実感も伴って知っているという人は、私達より上の世代の話になる。
悪魔の歴史学の授業中に、先生が言っているのとは別のページをめくっていた。25年前の青い夜。有力な祓魔師が死んだというサタンの起こした惨劇は、
もうそのサタンのいない世界でも鳥肌を立たせる何かがあった。さらにその先のページをめくっていく。でもそれ以降、青い夜に似たようなことが起きたという記述なんてない。
サタンに関する記述はその25年前の青い夜のものと5年前のサタンと騎士団の死闘を最後にぷっつり途切れている。よく読んでみても、その戦いで何人の死者や怪我人が出たのかは記述されていない。
サタンはもう虚無界にはいない。でもそうだとしたらあの男の人が纏っていた青い炎はなんだったんだろう。そして先生の「兄さん」という呼びかけ。
包帯から覗く優しい青い目。わかるのは、あれがたとえサタンの炎だとしても確かに私と私の仲間達を守ってくれた。それだけはわかる。でも引っかかるものも感じながら、
その日の塾が終わり寮に帰ろうとしていたとき、奥村先生に呼び止められた。
じわり、と背中に変な汗が流れる。
「…このあと、少しいいかな?」
一日ぶりに見上げた先生の顔はやっぱり地味だけどとても整っていてたくさんの女の人が騒ぐのがわかる。わかるけど、私には何故かこのとき、
先生の微笑む顔がとても恐かった。先生は、やっぱり目が笑っていない。頭の中では包帯に巻かれて顔もわからないのに目で笑うあの優しい青がずっと蘇えってきている。
「君の見たものなんだけどね、あまり周りには話さないで欲しいんだ」
思ったとおりの言葉を、もう誰もいなくなった教室で告げられていた。先生と二人で教室にいるなんてちょっと前の私なら舞い上がっていたかもしれないけど、
冷や汗は出るしなんだか体温も下がったような気分になる。やっぱり先生の顔をまもとに見れなくて私は床ばかり睨んでいた。
もちろん、先生の言葉には素直に頷く。話たって誰も信じてはくれない。そんなことわかりきってるし、
あれが見てはいけないものだったんだってそれぐらいわかっていた。
「…はい、誰にも言いません…言ったって信じてくれないし、変な噂になるだけだし」
「…そうだね、ここは噂好きの人達が多すぎるから」
困ったように笑っている先生だけどその言葉には随分な皮肉が込められていることぐらいわかる。私だって先生が思っているほど子供じゃない。
「…あの人、先生のお兄さんですか?」
少し迷ったけどあそこまで見てしまっているのだから、私は思い切って聞いてみることにした。先生は少し目を見開いた。
「…そうだよ、噂の僕の双子の兄だ」
「………」
「それでついでに5年前に消滅したサタンの落胤でもある」
聞いていいかどうかさすがに戸惑ったことをあっさり告げた先生に私は驚いた。先生は、やっぱり苦笑すると腕を組んで、僕は普通の人間だけどね、と付け加える。
「兄だけがサタンと人間の女性のハーフなんだよ。兄はサタンの炎を継いだんだ。このことは今の若い世代は知らない人が多いけど、僕ぐらいの世代になれば誰もが知ってることだし、
別にかん口令が布かれているわけじゃない。君もあそこまで見てしまったんだし…なんていうのか、兄さん自ら青い炎をまとって生徒に話しかけるなんて思わなかったしね」
呆れたようにため息をつく先生に、まるで兄というけれど先生の方が兄みたいだ、と少し思った。
「…やっぱり人と会話することに飢えてるのかもしれないな」
ぼそり、と私に対してではない独り言のような言葉。それはすっかり暗くなった教室の床に落ちていく。私はそれまでずっと緊張してスカートの裾を握っていたけれど、
ようやく裾を離して先生と向き合った。
「…先生…私の代わりにあの人に謝っておいてください……悲鳴上げてしまってごめんなさい、って。でもあの人の火傷の痕にびっくりしたわけじゃないんです」
人に見られたくないものを見られて恐がられる。それがどれだけ傷つくことか私は知っているからあの時のことを私は気にしていた。
先生はちょっと驚いたみたいに私を見ろしていたけど、わかったよ、とやっぱり穏やかに頷いてみせる。
「…火傷のことは聞かないんだ?」
探るような先生の口調に、どき、と悪いことしてないはずなのに心臓が跳ねる。
「…聞かれたくないことは誰にでもあります」
再びスカートの裾を握る。シワになってしまっていたけど構わなかった。
「…ありがとう。君はそのあたりの女の子と同じでもっと詮索好きで噂好きなのかと思ってたけど、誤解だったみたいだ」
ふ、と先生は息を吐く。その時の先生はどこか安心したように眉を下げていた。
さ、もう寮に戻りなさい。と先生はそれ以上「お兄さん」のことは何も語らず、わざわざ鍵を使って私を寮に帰した。寮に続く廊下の向こうでは塾の友達が心配そうに私を待っていて、
先生はまだ戸惑う私の背中を軽く押した。
「おやすみ」
そして音も立てずに背後の扉は閉められて、瞬間見えた先生の顔はメガネが反射していてどんな目つきをしていたのかわからなかった。
奥村先生はみんなの憧れの的だ。
特に女子に人気がある。背が高くて地味だけと整った顔。13歳で祓魔師になったという彼の最年少記録は未だ破られていなくて、昔から天才祓魔師と呼ばれていたらしい。それは今でも変らず、
25歳という年ですでに全資格を取得していて四大騎士の称号まで手に入れている。今、聖騎士に最も近い男と言われている。
そんな女の子の夢みたいに完璧な人。いつも優しくて穏やかな笑みを浮かべている人。
でも私は気付いてしまった。
四大騎士という立場であり全称号を貰い聖騎士に最も近い男と言われて、綺麗な顔をして教壇に立って優しくやわらかく微笑む先生は、目が笑っていなくて。
対してお兄さんだというあの男の人は火傷だらけで声もつぶれていてサタンの落胤で祓魔師のコートを着ていながら何故かブローチもつけていない。それなのに、
痛々しい包帯の巻かれた顔の奥で目から笑うことができる。
恵まれているのに笑えない先生と明らかに不遇なのに笑える「お兄さん」。
その違いというものを改めて知った私は、何故かその時、初めて先生を、可哀想な人だな、とふと思ってしまっていた。
本当なら火傷だらけの背中を見たときにあの「お兄さん」
に感じるはずのものを、何故か。
「お兄さん」の体にあったケロイド状の火傷の痕のように、先生の何かも本当は膿みを溜め込んでいるのかもしれない。
2012.5.13