燐さん、杜山さんと別れて塾にいったけど、私は全然授業には集中できなかった。
悪魔薬学の担当のはずの奥村先生はその日、結局授業には出てこなくて、代理に最近塾の講師になった初老ぐらいの先生が担当していた。その人は、普段あまり授業は担当してなくて、
基本事務の仕事を職員室でしているか地方の支部で働いていることが多いそうだ。どうりで顔も見たことがない人だと思う。白髪と目尻のシワが目立ち始めている黄色い濁った目をした先生で授業の進め方もつまらなかった。
まるで睡眠導入剤みたいで眠気を誘われる。余計に奥村先生の授業が恋しくなるね、と授業が終わって背伸びをしながら友達は言っていたけど、私は先生の顔を見ることがなくてどこかほっとしていた。
「最近ちょっと元気ないね?」
友達が私の顔を覗きこんでいたので思わずのけぞってしまう。
「…そうかな?」
「うん、今日の授業もぼーっとしてたし、最近図書館で調べ物ばかりしてるじゃない」
普段、私よりちょっとぼんやりしているタイプの友達にも「ぼーっとしてる」と言われてしまうぐらいだから相当だったんだろう。私はバツが悪くて栗色の髪の毛をいじってしまう。
小学校のときから伸ばしているそれは今ではもう肩甲骨あたりまで伸びている。
「…無理には聞かないけど、何か悩みがあるならいつでも言ってね?あんまり自分のこと話してくれないから、時々心配だよ」
そんな私の様子を見て、にこっと笑う友達。私と違ってショートの黒髪がその赤い頬にかかって、彼女の笑顔は眩しかった。
「…うん…わかった…何かあったら話すから」
私は自分のその返事に、ちくり、と胸が痛む。いつもそうだ。
翌日の塾に先生はいた。私はやっぱり呼び出されて、友達は先に塾に行かせてから職員室で先生と向き合う。他の講師はいなかった。
先生は昨日の冷たさが嘘だったように、いつもどおりに柔らかく微笑んでいた。でもそれが先生の本心からくるものなのか、私にはもうわからない。
「これ、返しておくよ」
怒られるのを覚悟していた私だけど、意外にも先生は昨日のことは言わず、燐さんに渡したクローバーの刺繍が入った水色のハンカチを差し出してきた。
「あのこれ…」
「ありがとう、って兄が言ってたよ。使ってないけど一応洗ったからって」
「いえ、そんなこと別にいいんですけど…」
洗われたのだろうハンカチはキレイにプレスされていてシワ一つなかった。確かにお母さんから貰った大事なハンカチなので返してもらったのは嬉しいけど、
先生は、じゃあもういきなさい、と昨日のことについては何も言ってこない。何故私が燐さんと話していたのか杜山さんか燐さんから聞いていたんだろう。
でも先生は何も言ってはこなかった。
…これは余計なお世話かもしれない。でも私は先生のそんなそっけない態度を見て、昨日、先生の塾での様子をしきりに聞きたがっていた燐さんのことを思い出してしまった。
あれだけ聞きたがったということは、普段、先生は燐さんに自分のことを話してないのかもしれない。
そう思うと、余計なお世話かもしれないけど、燐さんが可哀想だった。
「先生…」
ぎゅっとスカートの端を握る。先生は首をかしげた。燐さんのと違ってその仕草は何かわざとらしさを感じてしまう。
「…燐さんは、寂しいんだと思います」
「………」
先生のじっと見つめる目が恐い。緑色を帯びた青い目は、女の子達の間では「とてもキレイ」ってみんなはしゃぐけど、今の私にはなんとなく恐かったのだ。
「…余計なお世話だと思います…でも、燐さんはもっと外へ出て…誰かと話したいんじゃないんでしょうか…」
「…同じようなこと、あの後しえみさんにも言われたよ」
先生はようやく、ふ、っと笑った。困ったように細くなる目が、その瞬間は嘘じゃないように見えて、私は思わず先生を見つめてしまう。
「君を追い返したこと、兄にも怒られたね。しえみさんにも。…確かに少し言い過ぎた…兄と話していてくれたのに、昨日はごめんね」
まさか先生が謝るとは思わず、私は、いえそんな、と自分でもよくわからない言葉を言って慌ててしまう。顔が赤くなっている自覚があって先生から目を逸らしてしまうけど、先生は、
「…兄はね、あそこまで動けるようになるまで四年もかかったんだ…」
先生の顔は見れなかったけど、イスに座っている先生は指先を組んでいた。節の目立つ大きな手は、私達の同年代の男の子達にはまだない経験と努力の痕が見られるみたいで、
でも少し組み替えた指の動きから先生は少し迷いながら私にこの話をしてくれているんだってことを気付かせる。
「潰れてるけどまた話せるようになるまで半年、散々リハビリをしてなんとか体を起こして歩けるようになるまで一年……今のアパートで…僕も一緒に住んでるんだけど、まともな日常生活ができるようになってからまだ一年ぐらいしか経ってなくてね」
はあ、という先生の思いため息がして先生を見れば、組んだ指を解いてその指で眉間をさすっていた。
「ごめん、こんなこと生徒の君に話すことじゃないんだけど…いつまたあの火傷が兄の体を蝕むのかと思うと…ちょっと過保護にしていた自覚はあるよ」
「………」
「でも現実的に考えて、人と話したくて交流したくても…あの見た目じゃあ難しいものもある」
心配なんだ、兄が。
ふう、ともう一度先生はため息を吐いた。
それを聞いて、私は初めてあの火傷を見たとき私自身あまりそれを異質なようには思わなかったけど、確かに普通に考えて包帯を巻いた火傷だらけの人を、普通の人達が
見れば恐がって近寄らないかもしれない。私は見た目を怖がられたり気味悪がられたりすることがどれだけ傷つくか知っているので、燐さんの火傷だらけの体を恐いとかきもちわるいとか思わない。
むしろ気になるのだ。あれがどういう意味での火傷なのかって。
「…だから君みたいに見た目を気にしない人が兄には貴重なんだね…しえみさんにも昨日そんなふうに説教されたよ」
私が去った後、あの三人でどんなやり取りがあったのかは知らないけど、最後に小さくみえた杜山さんはでも言うべきことはきちんと先生に言っていたらしい。
あの温和に見える杜山さんが先生に怒る様子を想像するのはちょっと難しいけど。
「よかったら、また兄とは話をしてくれないかな?」
「…え!?」
聞き間違いなんじゃないかと思ったけど、先生は苦笑しながらメガネをかけなおしていた。
「君が嫌ならいいんだけどね…兄も昨日のお詫びにまたご飯ごちそうしたいって言ってたし」
「ぜ、全然、嫌じゃないです!燐さんのご飯また食べたいですし!」
思わず拳を握って力強く言ってしまって、食い意地を張っているような発言に恥ずかしくなってしまう。
でも先生はおかしそうに笑った。そこにはあの雨の日、試験を無事に果たした私達を見ていた時と同じ本当の笑顔のようで、いつもそうやって笑えばいいのにな、と
私は思う。
その後、すぐに私達は約束をした。
ひとつ、私と燐さんが話していることは決して他人には言わないこと。
ひとつ、アパートの場所は事情があって教えられないのであの噴水の前で、他の人は呼ばないで二人だけで会うこと。
それだけを約束して、こちらも事情で連絡先は教えられないので、僕から兄に言っておくよ、とだけ言われた。
そんな約束をしてしまって私は気持ちが弾むのを抑えきれなくて、塾の間もずっとそわそわしてしまっていた。それを見て友達は「今日はなんだか楽しそうだね」って
まるで自分のことのように喜んでくれた。何が楽しいのか、深くまで聞くことはしない空気の読めるところがこの子のすごいところだ。
確かに他の人にも話せないのは残念だった。あんなにいい人なのに見た目だけできっと人を恐がらせてしまう。
恐がられるのが辛いことは、私はよく知っているから。
燐さんと会える約束ができたのは、その週の金曜日だった。
塾が始まるまえに先生にこっそり「今日の塾は科目二つしかないし、帰りに時間できるだろうから、兄さんと話をしてあげて」と言われて、
塾が終わって友達に先に寮に戻ってもらい、私は噴水の前に向かった。時刻はそのときすでに夜の8時ぐらいで寮の門限は9時だから一時間ぐらいの貴重な時間。
噴水の前にちゃんと燐さんはいてくれた。前と同じようにパーカーを羽織って、深くフードを被っている。噴水の周りの電灯だけが燐さんを照らしていて、
ちょっと薄暗いのだけどそれでも燐さんの嬉しそうな青い輝きが消えないから不思議だった。
「燐さん、こんばんは」
「ん、こんばん、は」
燐さんの声はやっぱり潰れていて歪んでいて、普通の人がこういう声を聞いたらきっとそれだけで恐がってしまうんじゃないかってぐらいのものだ。
でも私には、その声もとても心地いい。こんな風になってしまう前はどんな声だったのか気にはなるけど今この声が燐さんのものならそれでいいんじゃないかって思う。
「これ」
ちょっと気恥ずかしくてやっぱり少し離れて座ってしまったけど、燐さんは気にした様子もなく、私に手作りだろうなんとお菓子をくれた。中身はパウンドケーキだった。
すごい。
「すごいですね…お菓子も作れるんですか!?」
「…こーこーの時、すこし、つくってから…さいきん、おもしろくて、つくってる」
我ながら図々しいかなと思いつつもお礼を言ってパウンドケーキを受け取った。感想を聞きたいというのでさっそくその場で食べてみれば、バターの味がとてもよくてやわらかくてしっとしていてケーキ屋さんで買うよりもずっとおいしい。
「おいしいです、燐さんすごい!」
「…ん…そか、よかった」
遠慮なくぱくぱく食べる私に燐さんは本当に嬉しそうに笑った。ついでに、この間は追い返してごめんな、と謝ってくるので、気にしてないです、と慌てて言った。
とても誠実な人らしい。しかも先生のしたことを自分のことのように言ってくるので、その様子がちょっと「お兄さん」って感じで先生は本当に弟なんだなあ、と改めて思った。
しっかりしていて完璧に見える先生だけど、お兄さんのことを心配して過保護になってしまうのは兄みたいだと思う人もいるだろうけど、私にはそういうのはむしろ弟っぽい行動のように思える。
それからたった一時間だけど燐さんと私はおしゃべりしていた。やっぱり私ばっかり塾のこととか先生のこととか話していて、
燐さんは、うんうん、と相槌を打ちながら聞いているばかりだった。でも燐さんはそれで満足なようだ。
「もーじかん、気をつけてかえれよ」
そう言われて私は名残惜しかったけど、燐さんにそっと背中を押されて寮に戻ることにした。
パウンドケーキ丸々ひとつはさすがに食べ切れなかったので、友達にもあげていいですか?と聞けば、
「いーぜ、でも、ゆきおにはないしょな」
と人差し指を口のある辺りに持ってくる燐さんはやっぱりどこか幼かった。
でも心なしか燐さんの話し方が大分なめらかになった気がした。
少なくとも初めてお話したときよりはぎこちなさが抜けている。
「おまえ、えくすわいあ、だろ?つぎまた、しけん、あるの、か?」
最近になって奥村先生から言われていたことを思い出す。確か来週には実践訓練のために学園都市からは離れた山で合宿をすることになっている。
そのことを燐さんに言えば、
「きぃつけろよ、なんかあったら、おれ、いくから」
と私の頭をわしゃわしゃと撫でてくるので私はうわわ、と変な声を上げながら燐さんのその言葉をとても頼もしく思った。前に実際、助けてもらっているから。でも、
今回は遠い山の中だし、何かあってもすぐに来れるわけがない。それに実践訓練といっても下級悪魔の討伐をするだけだって聞いている。
燐さんは私を安心させるために言ってるだけなんだろうなと思った。でもその言葉はとても嬉しいし、頼もしい。
「ありがとうございます!」
「ん、おやすみ」
そういって私は寮に戻った。いつまでも後ろで手を振っている燐さんの「おやすみ」という言い方が少し先生のと似ていた。
燐さんは顔を包帯で覆っているし、先生とは双子と聞いているけど似ているかどうかもわからない。それでも、時々見せる仕草とか話し方でやっぱり兄弟なんだろうなって思わせるものがあった。
私は、燐さんと話すのが楽しい。パウンドケーキを抱えて寮に戻りながらそう思う。燐さんも楽しそうにしていてくれたと思う。そこからわかってきた燐さんの人柄は本来人に好かれやすいものなんだと思う。そして、
先生が言っていた通りに先生にお弁当を作ってきてあげていて、
人恋しさに学園に迷い込んでくる、きっと寂しい人なのかもしれない。だけど先生と燐さんの間にある溝みたいなもの…溝というよりお互いがお互いを心配しすぎているようにも見えた。
あいつ、ひっし、すぎて、しんぱいなんだ。
心配なんだ、兄が。
二人の言葉を思い出す。燐さんの火傷のことを深く聞こうとは思わない。誰にだって聞かれたくないことや簡単には話せないことがある。でも、
先生と燐さんを隔てている何かもまたあの火傷のせいではあるんだろうな、と私はなんとなく気付き始めていた。
それから燐さんと話ができる時間はなくて、あっという間に次の週になり私達は学校が夏休みになったので休みを利用して候補生として実践訓練に入った。何人かの仲間は「
夏休みもずっと訓練ってしんどい」って文句言ってたけど、これまで先生達に付き添ってやる任務といえば川原の石に紛れたバリヨンを探して拾ったり(これがひとつひとつがめちゃくちゃ重たくてそれなりに疲れた)、
何故かエアコンに入り込んで冷気をふさぐコールタールに聖水を吹きかけて掃除したりと地味なものばかりだったので、みんな心なしか少しうきうきしているみたいだった。
もちろん、遊びにいくんじゃない。でも今回は奥村先生と他にも数名の先生がついてきているし、山のキャンプ場に住み着いてイタズラをしているゴブリンの除去という簡単な任務内容だったので、
特に不安に思うこともなく歩を進めていた。強いていえばやたら重い荷物を抱えて山道を上らなきゃいけないのが辛い…。
私達の前を進んで引率する先生は、あれから私と燐さんが何を話しているのかまでは聞いてこないけど「君と話をするようになってから兄が少しずつ話すのが上手くなってきたんだよ」と言われたときは嬉しかった。
先生も燐さんの話し方が回復してきたのが嬉しいのか「僕は忙しくてなかなか兄さんと話してあげられないから」と言っていたけどどこか寂しそうでもあった。
「………」
米神に流れる汗を自覚しながら先生の黒いコートの背中を見る。隣にはあの授業のつまらない初老の先生もいて奥村先生と何かこそこそ話していた。大方、この先の訓練のやり方について相談しているんだろう。
訓練生の時のような抜き打ちは勘弁して欲しいなあと思いながら、先生の背中を見つめる。
「ねえ、汗すごいよ、髪の毛まとめたら?」
私と並んで重い荷物にひいひい言ってる友達はショートヘアなのに何故かシュシュを持っていて私に差し出してくるけど、私は軽く断った。
「猫っ毛だから結んじゃうと絡まって大変なんだ」
私のいいわけを彼女は特に気にせずに、そお?と言ってそのシュシュで自分の前髪をとめた。おでこが丸出しになってちょっとおかしかった。
その日は夏の始まりを裏切ることなく憎たらしいぐらいいい天気で、照りつける太陽はお昼過ぎまで眩しかった。
でもたどり着いたキャンプ場で、やたら広い場所だったので二手に分かれて逃げ回るゴブリンを追っているうちに天気が変ってきていることに気付く。
「霧が出てきたね」
二手に分かれた私達を引率している初老の先生は周りを見てそういった。確かに白いモヤがキャンプ場に漂い始めていて、それはあっという間に足元まで覆い始めた。
「ちょっと霧が濃いですね」
私が呟けば、少し離れた向こう側で作業していた奥村先生と他の先生達と塾の仲間達もきょろきょろ周りを見渡していた。奥村先生が私達に手を振りだして、
こっちに集まって、と言い出した。その間にもなんだかすごく早く霧がキャンプ場を覆い始める。
そして何故かそれまで周りをぴょこぴょこ跳ねていたゴブリン達もいなくなってた。
山の天気は変りやすいっていうけど、これはちょっと早くないかな、それになんでゴブリンいなくなったんだろう……
と私は少し不安に思った。奥村先生の方をみれば先生はまだ手を振って私達に戻るように呼びかけている。
「先生、行きましょう」
どうしてか、じとっと霧の向こう側を見て動かない初老の先生に呼びかけてみてもその先生は動かなかった。一緒にいる友達も、わずか2メートル離れているだけなのに見えなくなってしまいそうで私は怖くなった。
「-----ちゃん、こっちきて!」
私は友達に呼びかけたけど、
「え、なに?聞こえないよ?」
と言われた。
おかしい。
もう一度大きな声を出しても彼女は首をかしげる。
「ねえ、どこにいるの?」
彼女はいよいよ不安そうにきょろきょろし始めた。私が見えていないのだ。私からはかろうじてだけど、彼女の姿は見えているのに。
『惑え』
その時、私の耳に聞いたこともないような不気味な声が響いた。
『惑え、迷い彷徨え。そうして私にてめえらの頭の中を魅せてみろ』
「先生!」
明らかに異常な事態に私は目の前にいる先生の腕を掴んだ。先生の腕は奥村先生のと違って痩せていて、頼りない、そう思った。
「頼りない?」
でも、私はそんなこと口に出してないのに、その先生はぼそりと呟いた。
「…え…?」
ゆっくり、と。
まるで糸を引かれた人形みたいにその先生が私を振り返った。
普段は黄色く濁った目が真っ赤に染まっている。
私が後ずさるよりも早く、骨ばった手が私の肩を掴んだ。
「ねえ君、」
「………!?」
「私の名前、今、思い出せる?」
思い出せなかった。
「いつからだ!?」
その瞬間、すぐ近くから奥村先生の声がした。私の肩を掴む手に力が入って痛くて私を見据えてくる赤い目が不気味で、恐くて、私は動けなかった。
奥村先生は今まで見たことがないほどの鋭い視線で、私の肩を掴む先生を睨んでいる。その手には銃。
「奥村先生!?」
「その子から離れろ----先生」
何故かこの初老の先生の名前は、霧の中のように不鮮明で聞き取れなかった。
「…さすが四大騎士だね、この霧の中でも私を見つけられるなんて、でも気付くのがちょっと遅かったかな?」
「その子から離れろと言っている」
ちゃき、と先生は真っ直ぐ銃を構えたけど、私の肩から骨ばった手は離れなかった。それどころかぎりぎり食い込んできて、よく見ればその痩せた指は異常なほど爪が伸びている。
痛い!と叫んでも離してくれない。私の肩を掴むその名前の思い出せない先生の顔を見れば、目が赤くなったかと思えば、みしみし、とその枯れた口から牙が生えて、
頭部からは白い小さいけど七つもの角が飛び出し、背中からはコートを破って六対にもなる黒い翼が生えてきた。みしみし。と骨を破る音が不気味だった。
悪魔堕ち-----?
まだ教科書でしか習っていなかった現象を目の当たりにしている。
先生もその光景に顔をしかめた。痩せた手が震えるほどその先生だったものは笑いだした。
「どうだい素晴らしいだろう?」
「…いつからですか?-----先生」
「さあ、いつからだったろうね…昨日だった気もするし、生まれた頃からこうだった気もする……もう覚えてないよ」
けたけた笑うその人はもう人間の笑い方じゃなかった。私の肩から血が出るほど爪が食い込んでいて、私は動けなかった。それ以前に恐くて足ががくがく震えている。
「…いや、悪魔堕ちじゃないな…」
でも奥村先生は冷めた目で確信したようにそう言った。
「…貴様はどの悪魔だ、名乗れ」
「………」
「名乗れといっている」
『惑え、迷い彷徨え。そうして私にてめえらの頭の中を魅せてみろ』
その歪んだ不気味な声は私の頭に直接響いてきた。先生も同じだったようで、きゅっと先生の緑の目がきつくなる。
『……お初にお目にかかります…私は「神の如き強者」……アザゼルと申します』
ぺこり、とやけに丁寧に頭を下げ顔を上げたときにはもう先生の顔は以前の人間っぽさはなくなっていた。頬が不自然に引きつって、口がありえないほど裂けていて、
長く伸びた真っ青な舌からは犬みたいに涎が流れている。零れそうなほど限界まで見開かれた目玉は赤黒く濁っていた。私は悲鳴を上げたつもりだったのに、ひゅう、と空気が口から漏れただけだった。
恐くて恐くて…呼吸さえ苦しい。そんな私を見てその「アザセル」は嘲るように嗤った。
「…以前のアスタロトといい…おまえらのような上級が何故…」
『はい、全てこの自分の名前さえ捧げた愚かな人間のおかげでし、て』
そういって白髪だらけの薄い頭を、ぴん、と爪の伸びた指で弾いた。
「やはり憑依していたのか」
『はい、実際はそうです。取り付いたのはつい昨日なんですけどね、この男、もともとあの学園ではない地方の支部にいましたでしょう?
そのおかげであの裏切り者の嘘つきの上から二番目の兄にも隠れて惑わしアスタロトを手引きさせることができたのですが。…あの私よりひとつ上の兄アスタロトがしくじりましたので、
このような手段に出たわけです。自分が私を支配して悪魔堕ちしたつもりでいた実に愉快な男でした』
痩せた腕が急に私の首をつかんできて、呼吸がさらに苦しくなった。でもそんな時、私は霧の奥に隠れてしまった友達のことを思い出して周りを見たけど霧が濃すぎてもう何も見えない。
先生、となんとか声が出たけど先生も私が盾にされているためか、簡単には動けないらしい。
「目的はなんだ?」
『…わかっておいででしょうに…』
くつくつ、と嗤うとさらに痩せているのに尋常じゃない力で首を締め付けてくる。私もその腕を掴んで引き離そうとしたけど、びくともしなかった。
噛み付いてもダメだった。相手の悪魔は嘲笑うばかりだ。
『…我等の若君を、』
アザセルがそういった途端、先生の顔色が変った気がした。
『喚んでいただきたい』
「………」
若君。なんのことは私にはわからない。
先生は黙り込んでしまって気のせいだろうか、銃を握る手が少し震えだした気がした。霧は濃くなって白かったはずのものはいつの間にか血のように赤黒くなっていく。
それが先生の肌に纏わり憑いて、私の肌にも纏わりついて、じわじわ、とまるで酸に焼かれたみたいに痛みを与えてくる。
首を締め付けられて、息が苦しくて、朦朧としてきた。痩せた手を掴む手にも力が入らなくて、だらん、と宙に投げ出してしまう。先生は私を見て、焦ったようにぎりっと唇を噛んでいた。
でも、そのかすむ視界の中で見えたものがある。
先生はいつの間にか、足元に魔法円を描いていた。
それは授業で習ったものとは違いかなり複雑で誰かの名前らしいものが私の知らない字で書きこんである。アザゼルもそれに気付いて、涎を流しながら、あなたもわかっておいでだしかし迷いがある、と
私の首に爪を食い込ませてきた。痛い。
「いたい、やめて…!」
「よせ!その子を離せ!」
『いかがいたしましょうや。このままこのか弱い山羊を「若君の犯した罪の身代わり」として私に捧げますかね?…実に若くて美味そうな山羊だ…しかも、』
我々と同じ、臭いがする。
その言葉にかっと頭が熱くなったけどそれは一瞬だった。食い込む爪から私のものだろう赤い血が流れているのを見て、私はさらに意識が遠のく。
恐い。恐い。恐いよ。
「…おかあ、さん…っ!」
咄嗟に頭に浮かんできた私のお母さんの顔に、私はぼろぼろ涙を流していた。
私のその声を聞いて、私を見て、先生は血が出るほど唇を噛んで、
やがて、ゆっくり銃を下ろした。
「………わかってるよ、兄さん」
何故かここにはいないはずの燐さんに言うように先生は呟いて、コートの内側からナイフを取り出すと自分の腕を裂いた。先生、と私がかすれる声で叫ぶと、先生は、
とても弱々しく笑っている。
「今ここで喚ばないと…兄さんに一生恨まれるから」
先生の真っ赤な血がぼたぼたと魔法円に広がっていった。
すう、と先生はひとつ息を吸う。
「……陰府(よみ)に落とされ穴の奥底に入れられた黎明の子、明けの明星を父とし、」
先生の声はとても透き通っていて、持っていかれる意識さえ引き戻す何かがあった。
「聖女、ユリ・エギンを母として、」
「その夢の中で見出し産まれた、光をもたらす者、」
「求めに応じ、出でよ」
ごう。
私達の周りの霧を晴らすように風が吹いて、円を囲うように青い炎が舞った。
ちりちり、と燃えるそれは力強いのに蛍の光のようにとても幻想的でキレイで、
なんかあったら、おれ、いくから
歪んでいるけど優しくて強い燐さんの声が鮮明に蘇えってきた。いや本当に耳元で囁かれているみたいだった。
そうして、青い炎の向こうから現れたのはブローチもない黒い祓魔師のコートを着て、手には青い鞘を輝かせる日本刀を持っていて、
青みのかかった黒髪を舞わせ顔も指先も包帯で覆われいる、燐さんで。
でも、その包帯の間から覗く青い目は、私は一度も見たことがないほど、鋭く前を見据えていた。
2012.5.20