奥村先生にはある非常に強力な使い魔がいる。
最初に言い出したのが誰かはわからない。ただいつの間にか私達の周りで噂になっていたことで、少なくとも私の周りで「奥村先生の使い魔」
というのを見たことがある人はいなかったし、若い世代の祓魔師達も知らないことだそうだ。
でもこれについて私は、目の前で先生の使い魔の姿を見た。でもそれは授業で習ったエクソシズムで定義するところの使い魔とはかけ離れたものであるんだろう、と
私は先生の血と魔法円と呼びかけで召喚された燐さんを見て、思ったのだ。
青い目は鋭く前を、私を盾にしているアザゼルを、見据えている。
それは私の知っている燐さんの目ではなかった。全ての悪魔を震るいあがらせて平伏させることのできるほどの力を放つサタンの落胤の目だった。
私に流れる「血」がそう訴えている。
『これはこれは…アスタロトが言っていたことは本当でしたか』
私の首を締め付ける悪魔の腕がかすかに震えているのがわかった。それが恐怖からなのかそれとも興奮からなのか。そのどっちでもあっただろう。
『人間の弟の…祓魔師の使い魔になりその火傷だらけの体を未だ酷使し続けている、と…なんと痛々しいことでしょうね、若君』
若君。それはきっと燐さんのことを言っているんだろう。
でも燐さんは何も言わずに鞘に納めたままの青い日本刀の柄に手を添え、重心を低くするように構えた。
その後ろでは奥村先生が銃を構えなおす。腕から流れる血は止まっていたけれど、それは未だ魔法円を赤く染めていた。私はその出血量に恐くなったけど、
先生は顔色一つ変えずに燐さんと同じように前を見据えている。
ぐ、っと私の首を捕まえる腕に力がこもった。燐さん達に、この山羊がどうなってもいいのか、と脅すようにそれは私の首を絞める。
気道がさらに塞がって私の口から肺に溜めていた最後の息が出てしまう。
ぐらり、と目眩が強くなった一瞬だった。
がっ!!
何か固いものがぶつかるような鈍い音がしたかと思えば、いつの間にか燐さんは目の前にいてアザゼルの額に柄の頭の部分を叩きつけていた。それだけで初老とはいえ大人の男性に憑依した悪魔の体が後方に
吹っ飛んで地面に叩きつけたれた。それと同時に発砲音。先生が撃ったのだ。
すごい、何も見えなかった。
私はといえばいつの間にか燐さんの腕の中にいて、やっとまともに息を吸えるようになって咳き込む私の背中を撫でてくれた。苦しくて涙が出てくる。
でも背中を撫でる燐さんの手の感触は、火傷のせいかごつごつしていたけど、とても優しかった。私は滲む視界の中、
呆然と見上げると燐さんはまだ視線をアザセルに向けている。霧の水分を含んでぬかるんだ地面に転びながらアザゼルはすぐに立ち上がる。
額からどくどくと赤黒い血が流れていて、左腕からも血が出てだらんと力なくぶら下がっていた。先生の撃った銃の玉が当たったんだろう。
それなのに、悪魔は額から口へ流れる血をべろりと長い舌で舐め取ると、不敵に嗤った。
『炎は使われないので?』
「………」
まるで誘うみたいにねっとりとした口調で、アザゼルは言い放つ。赤い霧はどんどん濃くなっていって私と先生の肌をさらに焼き始めた。
『この霧を祓わなければ、その娘も貴方の人間の弟も、』
「兄さん、誘いに乗るな」
先生の固い声がした。先生は腰に下げていた聖水の手榴弾に手を伸ばしていたけれど、先生はそれを簡単には使えない。あれを投げればかなりの広範囲で聖水が飛び散るのだ。
私のせいで。先生はできる手段が限られる。
『そしてこの霧の中に取り残された他の人間のガキ共も全てあなたの罪の身代わりとしますかな』
ぴくん、と刀の柄を握る燐さんの手が揺れた。
「………」
『…若君、その火傷、』
「………」
『それこそが我等の父上を屠った罪であり、父上の最期の怨念がその肌に喰らい憑いている。それは貴方を一生苦しめるでしょう』
アザゼルに憑依されてしまった……きっと名前は思い出せないだろう-------先生の目から口から赤い霧がじわりと噴出してきた。
穴という穴から吐血しているみたいで、私は小さく悲鳴を上げてしまう。
がぁん!!
突然、奥村先生はまた銃を撃った。銃口から煙を吐いてそれは真っ直ぐ悪魔に憑依された肉体を貫く。今度は右腕がだらりと力なく垂れた。それでも悪魔は大きく裂けた口から、
牙を覗かせている。
そしてその憑依体を戸惑いなく撃った先生の顔を私は見てしまった。
それはとても憎々しげで。
見開かれている先生の緑の目が恐くて、その目は一体何に向けて憎しみをぶつけているのだろう、と私は思った。
奥村先生が、恐い。
あれは心の奥から悪魔だけではなく、世界を憎む目だ。
私は思わず燐さんの腕を握ってしまう。
「よせ!にんげんの、からだ、だぞ!!」
燐さんが叫ぶ。歪んでひしゃげた声はあまり響くことすらできなかった。
「…構わないだろう…。悪魔に身も心も名前も捧げた人間だ。…こういう奴らがいるから、いつまで経っても…!!」
「ゆきお!」
『やれやれ…物騒な人間の弟だ…。ですが、まあ私はもともと肉体派ではない、もので…』
もう治癒したのか両腕をすくめるとアザゼルは、はあ、と赤い霧を口から吐いた。それはあっという間に私達の視界を真っ赤に染める。赤い。
何もわからなくなる。それはとても血生臭くて、肺に溜まっていく。咳き込んだ。私の口からも吐血みたいに赤い水が零れてくる。
まるで竜巻でも起きたみたいに強い霧の風が私達を吹き飛ばすように荒れ狂う。体が飛ばされそうになった。でも燐さんの手がしっかり私の腕を掴み、
「…わりぃ、ゆきお…無理はしねーから…」
腕に持っていた青い日本刀の鞘に手をかける。青い炎をうっすら纏う燐さん以外何も見えなくなって視界の向こうで、兄さん!という先生の叫びが聞こえた。
すらり、と燐さんは流れるような動作で青い日本刀を抜いた。
その途端、それまで薄い布のようだった青い炎が、力強く、大きく、大きく羽ばたく鳥の羽のように燃え上がった。
燐さんの悪魔の耳がさらに尖り、青い目に赤い瞳孔が浮かび上がる。その火傷だらけの体をまるで燃え上がらせるように青い炎が包み込んだ。
それは熱くも痛くもない、むしろ温かく私を包み込んで、視界を真っ青に染めた。
『……それこそが我等の父上を屠った罪であり、父上の最期の怨念がその肌に喰らい憑いている。それは貴方を一生苦しめるでしょう。…
そんなお姿になりながら、この朧な世界を救ったというのに誰も貴方を顧みない…このようなくだらない世界に従属されようとなさいますな…。
虚無界では貴方の王座が待っている。…さあ、私の導くままに
』
その悪魔の囁きは耳から入ってくるのではなくて、まるで頭の中から響いてくるみたいで、その声は頭と体を浸食している。
まるで空気みたいに。
気がつけば、私は白い霧の中にいた。
霧の水気を含んでぬかるみ始めている地面に座り込んでいて、一瞬、一人きりになってしまったのかと思ったけど、私の腕を燐さんはまだしっかり掴んでいくてくれていた。
でも、その私の腕を握る燐さんはぜぇぜぇと苦しそうに息を吐いて蹲っていた。
「…燐さん!?」
燐さんは蹲ったまま激しく肩を揺らして必死に呼吸を繰り返していた。その体からはもう青い炎は噴出してはいなくて、鞘に納められた日本刀はもう片方の手に握られている。
「燐さん、しっかりしてください!」
私は燐さんの苦しそうな姿が恐くなって、必死に背中をさすり呼びかけたけど、燐さんは蹲ったまま、でも私を安心させるためか呼びかけに、うんうん、と頷くように頭を動かしていた。
でもその動作にさえ苦しそうだ。げほげほ、と咳き込み、よく見れば顔を覆う包帯からじわりと赤いものが滲んでいる。
血が出てる。それはあっという間に白い包帯を染めていって、ぽたぽた、とぬかるんだ地面に落ちて吸い込まれていく。私は自分の体が震えるのを感じた。
燐さんの背中をさする手も震えている。
「…先生!?奥村先生!!」
私は咄嗟にそう叫んでいた。数メートル先も見えない濃霧の向こうに叫んでも、返事は返ってこなかった。それどころか、私がどんなに叫んでも助けを求めてもそれはまるで
、すとん、と地面に落ちていってしまうみたいに向こう側には響かない。
声が「向こう側」に響かない。
「…まだ、アザゼルの、領域、なんだ…」
ごほごほ、と咳き込みながら燐さんは掠れた声でそう呟いた。
「…わりぃ、やっぱりぜんぶは、はらえなかった…ゆきおたちと、切り離された…」
燐さんはなんとか呼吸を整えると、よろけながらも立ち上がろうとしたので、私は腕を使って燐さんの体を支えた。
その体は重くて、燐さんが今にも意識を失いそうなのを物語っている。
「あ、アザゼルの領域って…」
「…霧の中にとじこめる…。そうして頭の中からささやいて、思うままにみちびかれるんだ…」
霧の向こうは全然見えない。
声も届かない。奥村先生もいない。私の友達も塾の仲間みんなも。取り残されてしまったんだ。
「…だいじょーぶ…おれ、といこう…」
燐さんは一つ息を吸うと私の手を握ったままなんとか一人で立ち上がった。
「い、行くってどこへ?」
「アザゼルの領域のでぐち…だいじょうぶ、だ…おれ、にならわかる」
「他の塾のみんなは?!」
「…それもだいじょぶだ、ゆきおが、なんとかしてくれる」
その言葉に揺らぎはないみたいで、燐さんがどれだけ先生を信頼しているのかがわかった。でも私は1メートル先も見えない濃霧が恐くて、ぎゅっと燐さんの手を握る。
その手は温かで、さっきほどじゃないけどほんのりと青い炎が燃えていた。私の恐怖心は不思議なことに少し和らぐ。でも燐さんの顔を覆う包帯は赤く染まっていた。
「待ってください、手当てしないと!」
ふらふらの燐さんを地面に座らせてまず血のシミが広がる包帯を取ろうとした。でもその私の手を燐さんの手が止める。
「…かおは、ひどいぞ…」
青い目は、不安そうに揺れていた。
「…いいんです」
私は戸惑いなく彼の顔の包帯を剥がしていった。血の染み込んだそれは重く地面に落ちていって、
その下から現れた顔は、あの背中と同じで火傷で覆われていた。
無事な皮膚がないぐらいで、今まさに水ぶくれを噴出して肉の覗く真っ赤な皮膚。いたるところにある赤く膨れて膿みを含んだケロイド。
その火傷のせいで皮膚が引きつってしまっているのだろう、
燐さんの皮のめくれた唇の端はいびつな形に釣り上がっていてそのせいで上手く口を閉じれないのだろう、乾燥している赤い口が苦しそうに息を吐き出している。
以前がどんな顔だったのか、それさえよくわからないほどだった。
でもその焼け爛れた顔にある青い目だけは、濡れたように輝いている。
そのアンバランスさを、普通の人々は化け物のような顔だというのかもしれない。
「…こわい、か?」
「…いいえ、全然」
私はこれよりももっと恐い顔を知っている。理不尽に悪魔を恨み、排除しようとする「人間」の顔のほうがよほど醜くて恐いのだ。
荷物は全部キャンプ場に置いていってしまっていたから、代わりの包帯になるものがない。私は迷うことなく四葉のクローバーのハンカチを燐さんの顔に当てて止血した。
「おい、それ…」
燐さんが慌ててハンカチを取ろうとしたけど、私は首を横に振った。
「いいんです…ここに母がいたなら、きっと迷わず使いなさいって言ってくれてたと思います」
そのお母さんから貰ったハンカチはあっという間に血に染まっていった。燐さんは何故か項垂れて、ごめん、と言う。
「…二度もまきこん、だ…」
「………」
「あいつらの、ねらいは、おれなんだ…ごめん…」
何を言っているんだろう、この人が謝ることは何一つないのに。
私はただ首を横にふって火傷で出血している箇所にハンカチを裂いて包帯の代わりに結びつけた。
きっと顔だけじゃなくてこのコートの下の体もひどいことになっているのかもしれない。
酷い、火傷。止血をしてもあまり治る気配がなかった。
「…この火傷って…」
ちらっと燐さんの様子を伺うも、燐さんは項垂れているばかりだ。
「…5年前のサタン討伐のときのものなんですよね?」
私は確信していた。アザゼルの言葉と5年前に燐さんが祓魔師を引退するしかなかったことと。どの本にも記述されていないことだけど、少し考えれば答えは簡単だった。
「…うん…」
燐さんは一つ頷くと、再び立ち上がり、私の手を握って歩き出した。
「…燐さんがサタンを倒したんですか?」
「おれ、だけじゃない…。みんなのおかげ。おれは、あいつを、燃やしただけだ」
私を引っ張っていく燐さんの背中は真っ黒なコートに覆われている。その背中は広くて、大きかった。
「その火傷は…サタンにつけられたんですか?」
うん、と燐さんはまた一つ頷いた。
「アザゼルのいったとおりなんだ…これはおれの、罪の代わり」
「罪だなんて、だってサタンを!」
「でも…実の父親だった…それにあくまの、神だった」
「でも……それに、どの本にも燐さんの名前なんて…」
「………」
燐さんはそれ以上何も言わなかった。私も言葉を失くしてしまい、ただ二人で濃霧の中を進んでいく。
霧の中は何も見えない。歩いて行く道は石ころの広がるあぜ道で、それは確かに私達がゴブリンを追っかけていたキャンプ場の地面のようだった。
でも何にも見えない。置いてきたはずの荷物も。塾の仲間も。途方もない、ようなそんな感覚に襲われていると、ふと、白い霧の向こうに倒れている人を見つけた。
「…先生だ…」
それはアザゼルに憑依された-----先生だった。
燐さんは私を引っ張ったままその人に駆け寄ると、痩せた首に指を当てて脈を確かめた。ぴくりとも動かないし、顔も青白かったのでもう死んでしまったんじゃないかって私は思ったけど、
まだ生きてる、と燐さんは言った。
「え、その人、連れて行くんですか!?」
「もう、アザゼルはぬけてる…つかいすてにされたんだ…」
「で、でも!」
「はやく、しないと、しんじまう…」
燐さんは何の迷いもなしにその痩せた体を左肩に背負う。ぐ、っと燐さんが呻いた。コートの下の火傷に響いたんだろう。
「わ、私が背負いますから!」
「だめだ…まだアザゼルのなごりが、ある。おまえじゃ、とりこまれる…いいか、おれの、手は、ぜってーはなすな」
ぎゅっと燐さんの手を握る。瀕死の先生は骨と皮だけみたいになってしまっていて、それでも重さはあるだろう。私は燐さんを支えるために背中に手を回した。
燐さんは笑ってありがとう、と言いながらその顔は苦痛で歪んでいる。ハンカチから血と脂汗が染み出てきて、私は怖くなった。
このままだと燐さんは死んじゃうんじゃないか。
そう思うと同時に、もしかしたら、奥村先生が先に魔法円を消してしまうんじゃないかという想像がよぎった。
使い魔として召喚されたなら魔法円さえ崩してしまえば使い魔は強制的にもといた場所に返される。
もし、奥村先生がそれをしたら。私はこの先生と一緒に霧の中に取り残されてしまう。
そうなったら…どうすれば。私に帰り道はわからない。でも奥村先生は燐さんのことを何より心配しているのだ。
魔法円を消してしまうかもしれない。
「…だいじょーぶ…」
でも私のそんな不安を読み取ったかのように、強く手を握ってくれた。
「ゆきお、は、んなこと、しねーから」
「……本当に?」
「…ああ、だって、おれの、弟、だからな…」
そう言って、燐さんは血の滲む顔で精一杯笑ってみせたのだ。
火傷のせいで口の端はいびつに歪んで、皮膚も真っ赤に焼け爛れている。膿みを含んだケロイドがその顔を醜くしていたけど、
それでも、青い目だけは、きれいに輝いていて。
そんな顔で懸命に笑おうとしている燐さんの顔に、幻かもしれないけど、火傷をする前の顔を見た気がした。
「…ごめんなさい…」
燐さんは、いいよ、と言うように首を横に振った。私は奥村先生を疑ったことがすぐに恥ずかしくなった。燐さんは何にも疑うことなく奥村先生を信じている。
奥村先生もきっと、そうなのだろうか。
「…なんか話して、くれ」
ざりざり、とあぜ道を進みながら燐さんが掠れた声で呟いた。
「え?」
「アザゼルは、けむりみてーに、頭の中、はいってきて話しかけてくる…。だからおまえ、しゃべってて。おれが、じぶんを見失わないように…」
おまえのおしゃべり、おれは、すきだ。
心臓が跳ねる。
燐さんを見れば青い目はまっすぐ前を見ている。出口を探して、私の手を握って、私達を裏切ったはずの人まで背負って。
サタンの火傷を背負って、痛みに耐えながら、それでもまっすぐ前を見つめて私達を助けてくれようとしている。
そんな人の前で。
「……私…悪魔と人間のハーフなんです…」
おしゃべりをしてくれ、と言われて何故このことが一番に出てきたのかわからない。
でも燐さんと今まで話したような普通の会話のような、普通の女の子を装ったものではダメなんじゃないかと思ったのだ。必死に私達を助けよとしてくれて、
顔の火傷までさらしながらの燐さんの前で。
「…そっか…」
やはり途中で気付いていたんだろう。燐さんは特に驚かなかった。
「母親が氣の眷属の悪魔で父親は普通の人です。本当に普通に働いて悪魔とは縁のないはずの人でした」
「………」
「二人がどうやって出会ったかはわかりませんけど…でも父は母が悪魔だと知っていながら結婚したんです。
私はそんな両親の子どもとして生まれて、すごい田舎に育ったんですよ」
田んぼが広がってコンビニもないような田舎だった。その小さな集落にある役場で父は働いて、母は家で家事をしていた。
母は悪魔だというにはとても人間っぽくて無邪気な人で、何より平凡な人の生活というものに憧れていて幸せを感じられる悪魔だった。
そんな優しい両親だった。当時の私は知らなかったけど父は母の正体のことを自分の家族にも隠していた。悪魔とは縁のない町で、
私以外ハーフの子どもなんていなかったので私はかなり大きくなるまで自分の異常性を自覚できていなかったのだ。
母が悪魔といっても特にその属性の能力を継いだわけでもなくて、尻尾があって耳が尖っていて牙のあって怪我が治るのが早い。
それだけの弱いハーフの子どもだった。
もちろん、母には厳しく言いつけられていた。尻尾を見せてはダメ尖った耳も牙も怪我がすぐに治ることも周りの人に気付かれてはダメだ、って。
でも幼い私はわかってなかった。
「…小学校二年生ぐらいの時、うっかり友達に尻尾を見られちゃって…。悪魔だって、恐がられました」
「……」
そして結局その町にはいられなくなって、父の家族にも母の正体のことがばれて私達は追い出されるような形で都会にいる親戚を頼ってそこで生活をすることになった。
私と母のことがわかった途端、それまで優しかった祖父母も友達も手の平を返したように、私達を「化け物」だと罵っていた。
私がスカートの端を引っ張るクセがついたのはそれからだ。尻尾がスカートから出てないか、しばらくは気になってしょうがなくて。
髪を伸ばして尖った耳を隠すようにしたのもそれからだ。だからどれだけ髪が邪魔でも結んだりはしない。
私は普通じゃないんだ、と。
「…都会で静かに暮らそうって…家族三人で幸せでした。…でも住んでいる地域で悪魔の起こした事件があって…どこで正体のことがばれたのか、祓魔師の人達が家に来て、
母と私が疑われたんです」
「………」
「…悪魔と人間のハーフの子ってヴァチカンに報告して登録しなきゃいけないんですよね…。でも私達家族はそれを知りませんでした。
父親は普通の人だったし母親が知ってるわけもない。身近に祓魔師の人達もいなかったし…だから私達は事件に関わっていたから正体を隠していたんじゃないかって疑われて、
私と母は父から引き離されそうになったんです…」
おまえらがやったんだろう、と。
私と母の言葉にも耳を貸さず、悪魔を心底憎んだ目で私達のせいだと決め付けたあの祓魔師達の顔を私は一生忘れないだろう。
悪魔を憎む、恐い顔。
人間はあんなに醜くて恐い顔ができるんだってことを私はあの時初めて知った。人間の方がよほど悪魔より悪魔らしい一面があるのだということも。
「…でも、そんな私達を直前で救ってくれたのが…奥村先生だったんです」
父と引き離されて連行されそうだった私と母の元へ、奥村先生が勝手に私達が事件を起こしたと判断した上司の人に追及してくれた。
ちゃんと調べたのか事件を起こした悪魔の気配はこの母子のものじゃないじゃないか、って。おかしかったところを全て指摘してくれて、
それどころか本当に事件を起こした悪魔を捕まえて私達の無実を証明してくれたのだ。
「…そうして私達を助けてくれたんです」
「…そっか…ゆきお、が」
「はい…私すごく嬉しくて…それからです、祓魔師になろうって決めたの。祓魔師になって先生みたいに悪魔とのハーフだからって理不尽な扱い受ける人を少しでも助けられたらなって」
当然、父と母は最初は反対していた。父と母、特に母は私に普通の子どもとして生きて欲しかったのかもしれない。でもどうしたって私は普通じゃないんだし、
尻尾も耳も牙も何より私に流れる母の悪魔の血が消えることはない。そうして最後にはどうにか両親もわかってくれて、今では私はあの学園の寮で一人で部屋を使って生活している。
「…もう、4年も前の話です…。奥村先生はだからずっと私の憧れです」
「………」
「…でも、先生は私のこと覚えてないんだろうなあ…」
当然、講師として私がハーフだってことは把握しているはずだった。でも、
初めて塾に来て奥村先生と再会したとき「初めまして」と当たり前のように言われた。その時私はほんの少し悲しかったけど、
当然かもしれない。きっといちいち覚えていられないぐらい、先生はたくさんの人達を救ってきたんだろう。
「…そのこと、ともだちや、じゅくのなかまには?」
「…まだ話してません」
私が悪魔と人間のハーフってことを、塾の友達と仲間達は知らない。
「…だって…祓うはずの悪魔の子どもが祓魔塾にいるなんて…話せないですよ」
無理に笑ってみせたけど、きっとぶさいくな顔になってしまったと思う。
「…私、恐いんです…」
深い霧の向こうは未だ見えない。
「恐いんです、自分自身が」
「…おれも、じぶんの炎がこわい」
しばらく歩きながら私はいろんなことを話した。
喉が渇いても話し続けた。田舎に住んでいたときは祖父母にも友達にも優しくしてもらえて幸せだったことや、今はその祖父母とは連絡もできないけど、親子三人で幸せだってことも。
そうしてしばらく話していると燐さんが、辛そうに顔をしかめたので少し休むことにした。景色の変らない霧の中で、燐さんは気絶している先生をそっと地面に下ろすと、
自分も崩れるように座り込んだ。息が荒い。水もなにもないから、何にもできないもどかしかった。そして、しばらく経って燐さんの呼吸が整ってきたとき、ぽつり、と
そんなことを言い出したのだ。
「…5ねんまえ…サタンに燃やされてから…じぶんの炎もこわくなって…」
燐さんは焼け爛れた両手を見つめていた。
「…炎をつかうたびに、それはおれの体も燃やすようになった…うまくコンロトールできないんだ…じぶんに対してだけ…」
そうか、だから燐さんの体には古い火傷から新しい火傷までがその体を蝕んでいるんだ。じゃあ私達を助けるために、燐さんは自分の体を傷つけることになる。
だから、奥村先生は。
燐さんは地面に爪を立てていた。その爪も左の人差し指に残っているだけで、あとは全部剥がれてしまっている。サタンの炎に焼かれたとき全て燃えてしまって、
未だに伸びてこないんだろうか。私はたまらなくなって燐さんの地面を引っかく手を握った。
たまらない。何もかも胸が詰まるほどだ。だって。
「…燐さんが…サタンを倒したことはどの本にも載ってないんですよ」
「…知ってる…でもそんなのいい」
「私の友達も塾の仲間も、若い祓魔師の人達もそのこと知らないんですよ!?」
「…うん」
「燐さんがサタンを倒したからそんな火傷をしながら倒したから、みんな今を生きていられるってこと知らないんですよ!?」
「…いいんだ…そんなこと、のぞんでない…」
「…じゃあ何を、」
「…みんなが、」
燐さんは私の言葉を遮るように、言った。
「みんなが生きてて、ゆきおも生きてて、おれも生きてる。おれ、だからもう、いいんだ…。でも、ゆきおには心から笑えるようになってほしい…」
燐さんは私の手をぎゅっと握り返してきた。その手はやっぱりとても温かい。
「…ゆきおの使い魔になったの、は……火傷をして、やっと…まともに体うごかせるように、なったころで…ほんとうは、あいつ、半分おれをだますみたいに、
使い魔のけーやくをさせた」
はは、と燐さんは軽く笑ったけど、それはとんでもないことなんじゃないか、と私は絶句してしまった。
「…でもあいつにとって…あのころは、そうするしか、なかったんだ…」
「…え…」
「…おれ、サタンのこどもだから…サタン倒してから、ヴァチカンに収容されそうになって…」
だから、ゆきおはおれと離されたくなくて、おれを使い魔にしたんだ、と。
燐さんはどこか遠くを見るように霧の向こう側を見つめていた。
「おれ…ほんとはわかってた…ゆきおがおれを騙して、使い魔にしようとしてたこと…でもおれ、何もいえなかったし、騙されたふりした…」
「………」
「おれも、ゆきおと離されたく、なくて」
青い目が悲しそうに伏せられた。私は座り込む燐さんの手や顔をじっと見つめる。
「でも…それが正しかったのか…もうわかんねーんだ…。おれがこうして火傷を増やすたびにあいつ、おれなんかより、ずっと、くるしそうな顔して、おれの火傷なおそうと、
おれをヴァチカンにわたさないように、ってひっしになって…。気がつけば、ずっとアパートで、ひとりでいるようになって、ひとりでメシくうようになって…そんなとき、ふと、おもうんだ。
ひとりになりたくなかったのに、なんで、おれ、今、ひとりなんだろう、なんでゆきおは側にいてくれないんだろうって…」
わがままだって、わかってるけど。
「…なんにもいらない…。本に名前とかのらなくても、いい。みんなからかんしゃされなくても、いい…。でも…おれ…ゆきおにはまた心から笑ってほしい…あともう、
ヴァチカンも悪魔もかかわってこないようなしずかなところで、いっしょにいたい…」
いっしょにいたい、だけなんだ。
私は胸が詰まって気がつけば燐さんの体を抱きしめていた。成人した男の人の体はごつごつしていて逞しいけど、そのコートの下に確かにあるんだろう膿みの塊が、
ずっとこの体を蝕み続ける。それだけのものを背負いながらそれなのに、ヴァチカンも悪魔も誰もこの人をそっとしておいてはくれないんだ。
そう思うと。
私は。
「…ありがとうございます、燐さん」
「………?」
私は何度もありがとう、と繰り返した。気がついたらぼろぼろ泣いていて、燐さんはそんな私に驚いていた。
本に載っていなくても誰も知らなくても、私は知った。
世界はこの人に守られたんだ。
私達が親の腕の中で温かく育てられたことも今こうして生きて家族と一緒にいられることも、ぜんぶこの人が5年前世界を守ってくれたから。
自分は体中に火傷を負って、言葉もうまく話せなくて、ちゃんとした食事が食べられなくなっても。そんな体を引きずりながらも、
未だに誰かを助けようと救おうと必死になれる。
そんな「奥村燐」さんに私達は守られたんだ。
「…ありがとうございますっ…!!」
「………」
「ありがとうっ…」
世界はこの人に守られたんだ。
私達が親の腕の中で温かく育てられたことも今こうして生きて家族と一緒にいられることも、ぜんぶこの人が5年前世界を守ってくれたから。
自分は体中に火傷を負って、言葉もうまく話せなくて、ちゃんとした食事が食べられなくなっても。そんな体を引きずりながらも、未だに誰かを助けようと救おうと必死になれる。
そんな「奥村燐」さんに私達は守られたんだ。
燐さんは泣きながらありがとうと繰り返す私の頭をそっと撫でた。私はいつの間にかその袖に縋ってわんわん泣いていた。
泣きながら、その燐さんの望みを奥村先生に話すべきなんだ、と思ったので燐さんにもそう訴えた。燐さんは少し困ったような顔をしたけど、やがて泣きじゃくる私の小さな背中を撫でながら、
「…そうだな…おれ、勇気、だして、みるよ…」
と、囁いてその青い目から一筋だけ涙を流した。それは赤く爛れた頬を伝って、私の胸に落ちた。
一瞬、世界が青に染まる。
そして気がつけば、世界が明るくなっていた。霧の中のような白いだけの世界じゃない。緑の木々が爽やかに太陽の光を受けていて、さわさわ、と音を立てている。
私達が座り込んでいたのは霧の晴れたキャンプ場で、座り込んでいる私達を見つけたのか塾の友達と仲間達が私の名前を呼びながら私に抱きついてきた。
中でも友達が「見つかってよかった!」って泣きじゃくって私の制服を濡らしていた。
「…兄さん!?」
でも燐さんは地面に倒れこんだまま、ぐったりとして動かなくなった。
その燐さんの体を奥村先生が抱きこして必死に名前を呼んでいた。
「兄さん、しっかりしてくれ…兄さん!兄さん…!」
私も燐さんが動かないことが恐くて、震えてしまう。同時に体から急に力が抜けて、友達が驚きながら私の体を抱きしめたけど、すぐに意識が遠くなっていった。
「僕を独りにしないで…!!」
最後に聞こえた奥村先生のその言葉はまるで、迷子になった子どものようだった。
2012.5.27