夢喰う炎 1,5

 

「奥村君の状態は?」
こぽこぽ。とティーポットからカップへ。湯気のたつ色の濃い紅茶が注がれた。黒光りするテーブルを挟んで向かい合って座っている雪男の 元にも紅茶が注がれているが、なんだかその香は鼻につくだけだった。雪男が手をつけそうにないのを見ると、メフィストは自分の紅茶のカップに 口をつける。ついでに、ひょい、と皿に盛り付けられていたクッキーをつまんだ。雪男は、そんな呑気にしてていいんですか、と言いそうになるのを耐えているようだった。
「…専門家の言ったとおり、何も覚えていません。全生活史健忘です。とりあえず寮まで連れて行きましたが、 部屋を見ても、使い魔のクロと会ってもなにも分からないようでした。 …特に、使い魔のクロが話したとき「猫がしゃべった」と驚いてましたよ。頭の怪我が「悪魔」に よるものだと説明しても「悪魔、なんだそれ?」と首をかしげる始末です。今の兄の中での常識は、たぶん、この世界を知る前のものになってるんだと思います。 」
淡々と説明する雪男の言葉に、くつくつ、とメフィストが嗤った。嗤い事ですか、という意味をこめて眼鏡の奥で睨んでみせる。メフィストは気付いていないフリをしていた。
「それはそれは、随分とまたやっかいな」
手を顎にそえて、髭を撫でるような仕草をする。
「何も覚えてないんですよね?」
病院での検査の様子を見ていたはずなのに、改めてメフィストは雪男に尋ねてきた。
「…はい、何も」
「塾のことも、藤本のことも、貴方のことも」
「はい」
「自分がサタンの落胤だということも」
一瞬の間。そして、はい、という端的な答え。先ほど雪男から報告を受けたことからすでにメフィストも知っているが、まだ奥村燐は自分の名前と年齢と 双子の弟のこと、使い魔のこと、そして寮での生活に必要なことぐらいしか教えられていない。一度に、多くを思い出させようとすると頭痛を起こすことがある、と 医者に言われているのもあるが、それ以前に、一体どこから説明してやればいいのか、雪男自身も戸惑っているのだろう。とメフィストは予想する。しかし、優秀な この「先生」は優先事項ぐらいわかっているはずだ。
「とりあえず、明日にでも奥村くん自身の正体のことを話してやりなさい。たぶん、彼は今自分が普通の人間だとさえ思っているかもしれませんよ。 覚醒する前の、普通の感覚のように、ね」
「…兄が…とりあえず、落ち着いたら…怪我をしたばかりですし」
おや、とメフィストは首をかしげた。すぐに「はい、明日にでも」と即答されると思ったのだが、雪男は珍しく言いよどんでいる。膝の上で組んだ手が、堅くなっているのを メフィストは見逃さなかった。落ち着くもなにも、彼は自分の身に起きていることの重大さをいまいち理解できていない。まあ、自分の正体のことも忘れてしまったのだから、 危機感が薄れてしまうのは当然だろう。しかし、こちら側はそう呑気にしてられないのも事実である。
「…確かに側頭部に外傷を負った直後は意識を失ったそうですが、病院に運んだときにはもう治療の必要がないぐらい頭の傷は塞がって治癒していたそうですよね。まあ、それでも 記憶を失ってしまったわけですが」
試すような口ぶりに変えてみると、雪男の肩がわずかに跳ねた。
「傷はすぐに治ったのに、健忘症は治らないとは」
「兄に怪我を負わせた悪魔もその場で始末してます。 記憶に害をなすような魔障は持っていなかったはずです。しかし、脳に負ったダメージというのは回復しにくいものです、フェレス卿。まだ一日しか経過してません。治りきってないんでしょう」
「では、その「傷」が治れば記憶も」
「一概には、そう言えないのが健忘症です…僕より専門家に聞いたほうが早いと思いますよ。……こんなことを聞くために呼び出したんですか?」
ちらっと青緑の目が部屋の時計を確認していた。そろそろ日付を越えそうである。早く兄の元に戻らないと、という焦りがわずかに漏れていた。そういう ところはまだまだ若いのだな、とメフィストは思う。
「まあまあ、大事な「武器」がとんでもない状態になってしまっては、私としても大いに困りますから。知るべきことは知っておかなければと思いましてね。 とりあえず、傷が治れば記憶も戻るとは一概には言い切れない、と。ふうむ、やっかいですよね。ですが、「傷」が治れば多少は見込みはあるのでしょうね?」
にや、っと口の端から牙が覗いた。雪男はもう苛立ちを隠すのもしないで、眉をよせる。記憶のない兄が、何もわからなくなった兄が、念のため結界を強化したとはいえ、寮に一人。 さぞや、早く戻りたいであろう。テーブルに手をつきでもしたら、遠慮なく、爪でこつこつ叩きそうだな、と思った。そう思ったところで、さ、もうお帰りなさい、とひらひら 手を振ってみせる。多少、拍子抜けしたのか、けれど、一礼だけすると、すぐに雪男は出口に向かって行った。がちゃがちゃ、と寮へ直行できる鍵を取り出し、鍵穴に入れたところで、
「…早く治るといいですね」
と、声をかける。
------がちゃ。
瞬間、鍵を回す動作が止まったが、次には、がちゃり、と音がして、素早く雪男は扉をくぐって行ってしまった。







2011.6.10