「…マジかよ…」
と言って、燐は深く項垂れた。雪男の渡した日記を今まで読んで、最初は、戸惑ったり、顔を青くしたりかと思えば赤くしたり、
しかめっつらにしたり、果てはちょっと涙ぐみながら。一通り、全部読んでしまった後、燐は項垂れるしかなかった。
「燐」が最後の日記を書いた翌日のことである。
朝、のそのそと起きだした燐は、隣に雪男が寝ている、というか雪男のベッドに一緒に寝ていたという事実を寝ぼけた頭で認識した瞬間、盛大に悲鳴をあげて、
一体何がどうなっているのかというかここ何日かの記憶がすぽんと抜けているのはどうしてなのか!(昨夜、「燐」が「一緒に寝たい」というやましい意味など
まったくないお願いをしてきたので、そうしただけだった)と大騒ぎしたのである。雪男は、「あの燐」が言ったとおりのことになってしまって、
しばらく燐をなだめるのに手間取った。燐は何もかも、この10日間のこと以外のことは全て思い出していた。しかし、頭を打ったときからぶっつんと記憶が途切れている燐は半ば混乱はしていたが、
「とりあえず、説明するとなると時間かかりすぎるから、これ読んで」
と「燐」が直前に雪男に託した日記を渡したのである。
その日記を読んでいる間の燐の百面相をこっそり楽しんでいたことは、内緒だ。
「マジなのかよ、これ全部…?」
「うん、マジだよ。その汚い字は間違いなく兄さんのだろう?」
「…くそ、確かにそうだよ!このきたなくて読みにくい…っておまえ、これ読んだのか!?」
雪男は首を横に振った。本当に雪男は「燐」の日記を読んではいない。そこに触れるべきではないと、わかっていたからである。あくまで燐さえ知っていればいい、
燐の中だけの日記なのだ。雪男が読んでないとわかると、あからさまに燐は胸をなでおろしていた。よほど読まれたくないようなことまで書いてあったに違いない。
しばらく、燐は、あー…っと呻いて。
「…おまえの前で、びゃあびゃあ、泣いたってマジか?」
両手で顔を覆ったが、耳まで赤いのであまり意味はなかった。
「うん、そりゃあもう、小さい子どもみたいに泣いたね」
と雪男が楽しそうに答えれば、兄のメンツが…と燐は泣きそうな声をあげる。
「…おまえと…き、き、き」
「うん、したね、キス、あの時のだけじゃなくて何度も」
いうな!と燐は叫ぶ。
「…炎が…燃えてたとか…」
「うん、「兄さん」はそう言ってた」
しばらく、燐は黙っていた。このことについてやはり、心当たりはあったらしい。無論、記憶喪失になってしまった直前に燐にそのことが自覚できていたとは思えないが。
「…おまえと、ちゃんと話した、とか…」
やがて、おそるおそる、言った。雪男はうなだれる燐に近づいてみた。燐はまだ顔を覆ったままだったが、雪男の近づく気配に肩を揺らしたが、逃げようとはしなかった。
どちらにせよ、この狭い「602号室」では逃げ切れまい。
「話したよ、僕達、ちゃんと話し合った」
「覚えてねえんだけど…」
「大丈夫、僕は覚えてる…。兄さんはちゃんと、ごめん、っていったし、僕もだ…」
でも、とようやく顔を上げた燐は、その顔は戸惑いや不安や恐怖を乗せていた。振り出しに戻りそうになったら、と「燐」は言った。今の燐の
反応を見るに、その日記には雪男がわざわざ言葉で説明しなくてもいいぐらい、充分細かくこの10日間のできごとが記されているのだろう。そして日記を雪男に託した。
それでも、その間のことに覚えがないのは不安なのか。ならば、後は
自分の記憶の役目がある、と雪男は思った。ふるえる燐の肩に腕を回して抱く。燐は体をゆらしてわずかに逃げようとはしたが、強く引き寄せれば大人しくなった。
「兄さん」
「……」
「僕達、もう大丈夫だ。もちろん、これから先も」
燐は、ぎゅ、っと雪男の胸に顔をよせた。吐きかけられる息が熱くて、湿っていた。
「おまえに、俺は、言ったんだよな?」
何を、とは聞かなくてもわかった。うん、と雪男は頷く。はは、と燐の渇いた笑いがあった。
「…一生、いわねえって決めてたのに…何言ってくれたんだよ、「俺」は…」
あー俺の努力?全部、無駄になった!
と半ば叫ぶようにいったので、わずかに伝わる言葉の振動がくすぐったい。
「僕はしっかり聞いたからね。…またなかったことにするつもり?」
僕の中からは、絶対消えてはくれないよ。と半ば意地っぽくそう言えば、燐は、くそ、と舌打ちをした。
「…しねえよ、バカ!……わーったよ!認める、認める!ああったく…認めるよ!俺だって今更もう…取り消さねえからな!」
いいのか!?と言いそうになった口を、ふさいで止めた。途端、燐はびし!と固まったが、もうあの時のように平手打ちが飛んでくることはなかった。
それどころか、ぎゅう、っと雪男の背中に腕を回して、身を寄せてきた。その仕草が、あの「燐」とまったく同じで…あの「燐」が燐の中にいた
別人格とかそういうのではないはずなのに、
雪男は少しだけ、切なく感じたのである。しかし、そんな刹那の郷愁にも似た想いは、しん、と雪男の胸の中に染みきって消えていった。
何故なら、小さな、しかしはっきりとした意思で、
「雪男…大好きだ」
と、あの「燐」とまったく同じ言葉と気持ちを持って、燐が再度、告げてくれたからである。
「…ただ、もう一回、なかなおりさせてくれ。でないと俺がそうした気がしなくて妙な感じだから…」
「当たり前だよ。それにそういうことはこの先何度だってするだろうから」
これから先も、ケンカしてすれ違って想い合いすぎるせいで、燐が己の正体のことを考えて、齟齬が起きてしまってそのせいで行き違ってしまうこともあるだろう。何故なら、兄の燐はそれだけの
運命をその身に負っている。それから逃れることはできないし、今までの15年も含めこれから先、何一つ「なかったこと」になどできない事ばかりが
自分達の身に降りかかるのであろう。燐が人から悪魔になったあの時を「なかったこと」になどできないように。でも、
その分、自分たちは「なかなおり」
するのだろう。ならば、自分達は、もう大丈夫だ、と雪男は強く、そう思うのだった。
「だったら、僕の好きな食べ物、覚えてる?」
「…当たり前だろう」
俺達、兄弟じゃねえか。
と燐は雪男の腕の中で、笑うのだった。
2011.7.3