●月●日 雨
ちょっと落ち着いたから雪男に教えてもらったたくさんのことを忘れないためにも、書き残してこうと思う。雪男は今日の「塾」
が始まるまでもうちょっと寝てなよ、
って言ってるけど、また忘れてしまうかもしれないのが恐いから、「塾」に行くまでに全部書いておきたい。
昨夜、俺はすげえさみしくてこわくて、字が、がったがたの日記を書いた後、ずっと布団を頭からかぶってふるえていた。どれぐらいそうして
いたのか、わからないけど、たぶん、数十分だったのか一時間だったのか。いきなり、廊下をかけぬける足音がしたかと思えば、ばん、と
少し乱暴に扉が開く音がして、俺は思わず、ひっと悲鳴を上げてますます布団をかぶりこんだ。その布団の上から、
「…兄さん?」
と少し息を荒くしたような雪男の声が呼びかけてきた。俺は、すぐに布団から出て、ゆきお、って呼んだ。すっかり暗くなっていて部屋の明かりもついてなかったのに、
雪男の顔がよくわかった。米神から汗が流れてて大きな瞳を、見開いて、俺を見ていた。そして雪男が、俺がぶるぶるふるえているのに気付くと、
「ごめん、兄さん、ごめん!」
と布団ごと俺を抱きしめてきた。俺はびっくりしたけど、何故か逃げようとは思わなかった。それどころか、すごく安心して…ちょっと
今から思い出すと恥ずかしいのだが、もう、びゃあびゃあ、泣いた。安心できて泣いたのと、まだ何も覚えていないのだという恐怖と、
青い炎が夢を燃やしたおそろしさもあった。もう小さいガキみたいに泣いた。泣きながら、俺は雪男にこう言っていた。
「覚えてない、何にもわからないんだ!この部屋も机もベッドも俺が使っていたなんて覚えてねえし、さっき、ケータイの中も見たけど、
誰の名前にも覚えがねえ!何にも思い出せないんだ…俺は、おまえのことさえ覚えてない!!
自分のことも、まるでわからねえ、なあ、俺ってなんなんだ!?本当に「奥村燐」ってこの部屋にいて、ケータイにあった
名前のやつらが友達で、本当におまえのアニキだったのか!?自分のことが何もわからねえんだ、こわいよ雪男、さみしいよ…!!」
そうやって叫ぶ俺の体を抱きしめて、雪男はずっと背中をなでてくれていた。子どもをあやすみたいな仕草だったけど、
俺はだんだん落ち着いてきた。雪男はずっと、ごめんごめんね、とあやまっていた。
それで、散々泣いた俺だけど、泣きすぎて、ひくひく、とえずくようになったころ、雪男は俺を抱きしめたまま足元に放り投げたのだろう
カバンの中からミネラルウォーターを取り出して俺に飲ませた。俺は自分で思ってたより喉がかわいてたのか、一気に全部飲んでしまった。
「…大丈夫?」
んなわけあるか、とかすれた声で言い返せば、背中をなでられた。どれぐらいそうしていたかわからないけど、
ようやく俺の呼吸が普通になってきたとき、雪男は少し体を離して、手を伸ばして机の上にあったスタンドライトだけつけた。少しあかるくなった部屋で、
雪男は俺の頬を両手でつつんで、顔を真正面から見てきた。そうして瞼を撫でられた。たぶん、なきすぎて真っ赤になってしまっていることは俺にもわかった。
…今から考えれば、アニキだという自分の顔をこんなにやさしくなでてくるのって…この辺でなんかおかしかったんじゃないだろうか。でも
このときの俺にはそれを考えるよゆーがなかった。
「ごめんね、一人にさせないって言ったのに」
雪男は本当にすまなさそうに、そう言った。そして意を決したように俺の肩に大きな手を置いたんだ。
「兄さんのこと全部話すからね。色々、驚くこととかわからないことあるかもしれないけど…」
と言って、雪男は俺に全部を話してくれた。
雪男は、まずなんで昨夜遅くなったのか話してくれた。どうしても外せない「任務」もあって遅くなったらしい。でもそれだけじゃなくて、
雪男はこの学校に来る前に俺達の育ったという「修道院」に、俺達の写真がのったアルバムを取ってきてくれてたんだ。こっちに移るときに、アルバムは置いてきてしまっていたから、
俺にちゃんと説明するためには写真があったほうがいいだろうって考えて、フェレスきょう、って奴に許可をもらって「修道院」に行ってきていたらしい。
雪男はその「アルバム」を、俺の隣によりそうようにして広げて見せてくれた。
…そのアルバムには小さいころの俺達だろう写真がたくさんのっていた。
体も背も小さくて、いまよりずっとずっと幼い顔の俺達がいた。俺は、自分のこと覚えてないけど、写真の中にいる大きな口をあけて常に笑っているばんそうこうだらけの
子どもが、俺なんだろうってことはわかった。顔にちょっと合わない大きな黒縁メガネをした気の弱そうな小さい子が、最初はよくわかんなかったけど「雪男」だと気付いた。
雪男は今と全然ちがって見えた。泣きべそかいてるのが多かったし、その泣きべそかいた弟の手を握ってなぐさめるように、弟をひっぱっていくように笑っている「俺」。
たぶん、七五三のときなんだろうか、着物を着て、ピースしている俺とほほえんでいる雪男。聖歌隊のかっこうをして一緒に楽譜を持って歌っている俺達。誕生日の
ときのものだろうか、ローソクが立てられたホールケーキの前でローソクの火を吹き消している瞬間の俺達。他にも雪男がページをめくっていくたびに、色んな写真があった。
運動会のときのものとか、遠足のときのものとか。俺はそれを一枚、一枚見ながらそっと指をはわせてみた。
「よく見てよ、兄さん。これ全部、僕たちの思い出だから」
隣の雪男は優しくそう言った。俺は、どれを見ても記憶を思い出すことはできなかったけど、とても気持ちがあたたかくなっていくのを感じた。
覚えてないのに、心は、ほっと息をはいていた。なんだ…よかった「俺」にはちゃんと小さい頃があったのか、と。
隣の雪男は写真をめくりながら指差しながらその時の思い出を、覚えている限り細かく俺に教えてくれた。雪男だって小さい頃のことは
それほど覚えてないことも多いだろうに、それでも、何にも覚えていない俺のために。
「この一緒に走っている写真は運動会の時のもので兄さんはかけっこではいつも
一番をとっていたよ。この泣いている僕と手をつないでいる写真は、道で転んじゃっただけで泣き止まない僕のために、また転ばないようにって
手を引いてくれていたときのもので、これは「修道院」でのクリスマスでプレゼントをもらってはしゃいでいる僕たちで、これは
初めて大きなホールケーキで僕たちの誕生日を祝ったとき…ロウソクが5本あるから5歳のとき、ねえ僕たち誕生日が12月27日なんだ、クリスマスの
2日後にすぐ誕生日だったから毎年この時期はケーキがたくさん食べられるって兄さんも僕も楽しみにしてたんだよ」
俺は雪男が語ってくれた小さいころの話を聞いているだけで、じわっとまた目があつくなってくるのがわかった。でも
これは昨夜の10時に感じたときのような、こわさによるものじゃなかった。俺はすごく安心した。そうか、俺達はちゃんと。
そこで俺は、ふと、写真の中で双子の幼い子どもを抱えてよく映っている人がいるのに気がついた。子どものような笑顔で笑っているメガネをかけていて、
カソックを着ている。もう初老ぐらいに見える男の人。俺は、つ、とその人の写真に指をはわせた。
それを見て雪男がしずかに俺の耳元でこう言った。
「…その人は、藤本獅郎…僕たちの育ての親だよ」
僕たちの、父さんだ、と。
「………父さん?」
思わず写真をなでながらそう呼んでいた。でも、何故か「父さん」という言葉は俺の口によくなじんでいるようで、不思議な気持ちになった。まるいメガネをかけて、
双子を抱っこしながら笑っている人。または手を引きながら、一緒にバースデーケーキをかこって子どものようにピースしてたりとか。
アルバムを進ませれば俺達の背は伸びて顔つきも少し変わってきているのに、その「父さん」の髪には白いものが
混じり始めおでこや目じりにはシワが増えていく。それを追っていくと、俺は、また涙が流れた。雪男は黙って「父さん」の写真を追う俺を見ていた。
子どもっぽい、でも何かすごく強いものをメガネの奥の目に秘めた、人。そうか、この人が、俺達の父さんなんだ、と俺はすんなり受け入れていた。
同時に、ふと、何か暗いものを思い出したような、感じになった。具体的に記憶が戻ってきたわけではなかったけど、
俺は、なんとなく、わかっていた。
「この人は…」
「もう亡くなった」
間を置くことなく雪男は答えた。そっか、と俺は答えてじっと写真を見ていた。亡くなった理由は聞かなくていい?と雪男がさらに体を寄せてきた。
俺は、どうしようか、と少し迷ったんだけど、頬にまた涙が落ちたから、首を横にふった。この涙が何を感じたときに流れるものか、俺にはなんとなくわかったのだ。
「…思い出せねえけど…「俺」は、知ってる」
俺は膝をかかえた。そんな俺を見て、雪男は、そっと俺の肩に手を置いてきた。まだ少しふるえていたので、雪男に肩を抱きしめてもらえるのは
ここちいい、とこの時は思った。
「…知ってるよ「俺」は…だから…「父さん」の最期は話さなくいい…」
「…うん、わかった」
藤本獅郎。俺達の「父さん」。やっぱり思い出せないけど…俺はこの人こそ俺の「父さん」なんだと「知っている」。そして、どんな最期だったのかも、きっと
「知っている」。今、これを書いているときも考えてみたんだけど、きっとこの「父さん」の最期は「かっこよかった」んだと思う。そう確信している。そして同時に
前の俺にとってとても「悲しい」別れだったことも。
膝を抱えてしばらく泣いていた俺のことを、雪男はずっと抱きしめていた。…その時の俺は、その隙間のない俺達の距離感を
おかしいな、と思うこともなく雪男によりそっていた。しばらくそうしていると、ねえ兄さん、と雪男が固い口調で俺に言ってきた。
それは、俺の「実の父親」のことだった。
…実の父親の話について正直俺はどう思うべきかわからなかった。雪男は全てを話してくれた。その前にまず、この世界には悪魔というものが
確かにいるということ…これについては、俺はすんなり受け入れられたので(まあちょっとはびっくりしたけど)、以前の「俺」にとっての
日常というのはそういう世界の中にあったんだろうな、と思った。ていうか、「奥村燐」はそういう世界に生きていくしかなかったんだ。
俺は、「奥村燐」はサタンという悪魔の神の子どもだ、と雪男に言われた。
それを雪男の口から聞いたとき、俺は、それがすごくタイヘンなことなんだろうってことを、雪男のけわしい顔でしか察することができなかった。
以前の「俺」の世界の常識とか世界観をすっかり忘れてしまった今の俺にとっては、「サタンの子ども」という事実がどれだけのことか、実はいまいちつかめていないんだ。
でも雪男に
「兄さんはサタンの青い炎を継いでいるんだよ」
って言われたときは、背筋が、ぞっとした。それはあのこわい夢を思い出したからだ。そうか。あの炎が俺のものだという確信は間違ってなかったんだな。
「…つまり俺って人間じゃねーんだ…」
病院で目を覚ましてから勝手に自分のこと当たり前のように「人間」だって思ってたけど、違ったってワケだ。でも、俺は不思議とそれほどショックは受けなかった。
それより、昨日の夜の10時。何もわからないことに頭が混乱して、吐いてしまってぶるぶるふるえるしかなかった時のほうが、つらかったと思う。つまり、クロと
話せることも、この「俺」の
顔の尖った耳も、牙も、しっぽも。つまりは、そういうことなんだ。それを聞いた直後、さすがに俺はぼーぜんとしてしまったけど、
それも事実としてスポンジにしみこむ水みたいに俺の中に入っていったんだ。それより、「俺」という「悪魔」のことがわかって、
どこか納得した。
「…ごめんな、雪男…そんなわけありな「俺」だったのに…全部、忘れちまって…それどころか「親と連絡できねえの」とか無神経なこと……」
思い返せば俺はそうとう無神経なこと言ってたんだと自覚できて、しょんぼりしてしまった。でも、雪男は苦く笑いながら、
「それはもう仕方ないことだよ。だって兄さん、何も覚えてないんだから…それに、謝るのは僕の方だ。ごめん兄さん。僕ね、どうしたらいいか
わからなかったんだよ。どう話してあげればいいのか、話したら兄さん、傷つくんじゃないかって、考えてたけど、本当は僕自身が話すの恐かっただけなんだ…それで
2日も何も話せずに、しかも、一人にさせて、泣かせて…本当にごめん」
そのとき、俺はとうとつに、ああ雪男は俺よりずっと大人に見えたけどやっぱり俺と同じ15歳の子どもだったんだ、ってわかった。それにこのことについて、雪男があやまる
ことは一つもない。雪男は悪くない、っていって雪男の顔を真正面から見ると、雪男は、ちょっと目を見開いて、でも、ありがとう、と頷いた。
でも俺はそこで少し不安になったんだ。双子の弟だという雪男。アルバムのたくさんの写真も見せてもらったけど、
「でも…俺だけがサタンの炎を継いだっていうけど…それなら…雪男は…」
不安な俺のことを察したのか、雪男は強い口調になった。
「ねえ、兄さん…僕たちは間違いなく双子の兄弟だ。「奥村燐」は僕の兄で「奥村雪男」は兄さんの弟だよ」
俺はその言葉が一番聞きたかったのかもしれなかった。
そうか、俺達、ちゃんと兄弟なんだ、って俺はそのとき、ようやく心からそう思えた。雪男と病院で目を覚ましたときに出会ったのが、悲しいけど今の俺にはそれが雪男との
「初対面」になるんだけど、それでもその「初対面」より前から兄弟としてむすんできたものはちゃんとあったんだ。アルバムの中の思い出が、
雪男の強い言葉がなによりの証明だった。そうか、よかった、と心から安心した俺の頬を、
雪男が手の平でなでてきた。ちょっとびっくりした俺だけど、逃げなかった。雪男は、すごくすごく、ていねいに、俺の顔を撫でて、瞼をなでて、髪も撫でていた。
…今から思えば、あの触り方…あれは本当に「兄」にするべきものだったんだろうか…。でもその時の俺はあまり気にしなかった。それより雪男に触れられていたいという
欲求の方が強かったのだ、不思議なことに。そして、その時雪男は、
兄さん、と。
何かとても不思議なものをふくませるように俺のことを呼んだ。とても熱く呼ばれた気がして、俺は固まってしまった。雪男のメガネの奥の
きれーな目がすごく近くにあるなあ、とわかったときには、ちょっと、おお!?と戸惑うぐらいに雪男の唇が俺の顔に近づいてきていて------
ぐう。
とその時、ぜつみょうなタイミングで俺の腹がなった。なんというマンガみたいなタイミング…。俺と雪男は顔を近づけたまましばらく固まってしまったけど、
先に、耐えられなくて、ふ、っと噴出したのは雪男だった。
「…ちょっと、兄さんはもう…お腹すいたの?」
くくく、と耐えられずに笑う雪男に、俺は顔が赤くなるのを自覚してた。うるせえなあ、と言い返そうと思ったけど、ぐう、とまた腹がなった…。俺はすごく腹が減っていたんだ。
いつの間にか食欲が戻っていたんだ。
「何か用意するよ。といっても僕は料理についてはさっぱりだから…インスタントラーメンぐらいしかできないけどね」
雪男はまだくつくつ笑いながら食堂に向かっていった。俺はもう恥ずかしくて、そして泣きすぎて頭もふらふらしていたから雪男の言葉に甘えることにした。そして、
雪男特性のインスタントラーメンをいただくことにした。できあがったラーメンはインスタントだけどうまかった。雪男が気を利かせたのか、
ネギとかだけじゃなくてメンマやかまごこやゆで卵も入っていた。それを二人でちゅーぼーのテーブルで向き合って食べた。足元にはいつ戻ってきたのかクロがいた。
りん、もうだいじょうぶか?と大きな目をくりくりさせて聞いてきたので、「もう大丈夫だ」と答えて、俺のラーメンをわけてやった。そのとき雪男が、
「実は、
クロがまだ寮の前でアルバム抱えて迷ってた僕のところまできてくれて、にゃーにゃー、大騒ぎしたんだよ。それで僕、兄さんに何かあったんだって
気付いて慌てて部屋に戻ってきたわけ」
とバツが悪そうに言っていた。それを聞いて、メンマとかまぼこもクロの皿にわけてやった。
俺たちは、少しずつ話をしながらラーメンを食った。
学校の方はさすがに記憶喪失引きずったまま行くわけにはいかないから、しばらく休まないといけないけど、「塾」にはいってみよう、と雪男に言われた。
「塾」は少人数で俺の友達ばかりがいるらしく、そして今の俺が記憶喪失になっていることも、もう話してあるらしい。そして記憶を取り戻すきっかけは、
やっぱり以前と同じ生活をしてみることが一番だそうだ。
「みんなすごく心配してる、でも
一応、兄さんはまだ落ち着いてないからって話してしまっていたから、みんなに気を使わせてしまって、ケータイにも連絡入ってないと思うけど」
と
言われて、ケータイに登録してあった人達のことだろうか、と俺は思った。俺は少し楽しみになった。雪男とラーメンを食べならが、
俺は病院で目が覚めて、雪男と過ごしてから2日で初めて、とても満たされた気持ちになった。
で、長くなったけど、これを書いている日の夕方には「塾」に行くことになっている。
「塾」に行ったらまた日記に細かいこと書いておこうと思う。その前に、まだ少しだけ眠っておこう。なんか不眠症も治ってきたのか、眠気がきてるんだ。
っと、眠る前に俺についてわかったことをメモっておく。
俺、奥村燐は「サタンの息子」で半分悪魔。でも藤本獅郎って人が俺の「父さん」。そして「奥村雪男」は俺の双子の弟。間違いない。
……でも、すこし不思議に思うことがある…。なんで雪男は「双子の兄」である俺にあんな風にさわってきたんだろうか。泣いている俺を
なぐさめるにしては、やさしすぎるような…熱すぎるような…。
雪男はまだ俺に隠していることが、あるような…。俺の考えすぎかな…。
うん、考えすぎだろう。だって俺達、兄弟だもんな。
アルバムは、夢のように燃えてしまうかもしれないのがこわいから、引き出しの一番奥に大切にしまっておこう。
2011.6.14