●月●日 夜の11時ぐらい。雨やんできたみたいだ。
今日で日記書くの二回目になるけど、寝てる間に今日「塾」であったことが炎に焼かれる夢を見るかもしれないのがこわいから、
今、書いておこう。…すげえ眠いけど…がまんだ。
夕方、学校の終わるころに「塾」は始まる。「塾」っていうのは、俺は、塾への道も忘れていたので、雪男とその教室に
むかいながら説明されたんだけど(ちなみに塾のとき雪男はエクソシストが着るというコートを着ていた。黒くて裾が長いコート。…雪男、似合ってるな…)、なんでもエクソシストになるための勉強をする場所と言われた。エクソシストは…えーっと色々説明はされたんだけど、ようはアッシャー(
人間のいる世界の呼び方だそうだ)にやってきて悪さをする悪魔をはらう人達…ってものすごく簡単に書いちまってるけど、雪男に説明された
ことが多すぎて…ようは、まあ、そういう仕事をする人達のこと、と省略しておこう。
エクソシスト。記憶をなくす前の俺が
なりたがっていたものだそうだ。で、俺は今はその候補生。うーん、覚えてないから当たり前かもしれねえけど、まったく俺がそういう職業を求めていたという
実感がわかねえというか。とにかく、俺は、夕方になってから、雪男に連れられて「塾」に行った。雪男は、塾に入る前、俺にこう言った。
「兄さんの今の状態のことはもう皆に話てあるけど…特に「しえみ」さんのことだけど、しえみさんね、兄さんが健忘症になってしまったのが自分のせいだって
ひどく落ち込んでたから、教室に入ったらまずしえみさんに声かけてあげて」
「…しえみ?…ああ俺が助けたっていう女の子のことか?どんな子なんだ?」
俺は、ケータイにあった「杜山しえみ」という名前を思い出していた。
「薄い金髪のおかっぱの子だよ。一人だけ和服着てるからすぐにわかる」
あと雪男はみんなには俺が「悪魔」だってことは内緒だから、絶対に言わないこと、と俺はどうやら感情がたかぶると炎を出してしまうことがあるらしいので、
その辺よく注意しておくように、ときつく言われた。…うん、わかっていたけど、俺は「悪魔」、ましてや「サタンの子ども」だってことは
すげえタイヘンなことなんだよな…。しかも、炎を出してしまうことがあるなんて…自分のことだけど、こわいと思う。気をつけねえとな…。
そして一通り必要なことを教えてもらってから、雪男は塾の教室らしい場所の扉に手をかけた。このとき、俺はちょいときんちょうしていた。いやだって、
塾にどんな奴らがいたのか、俺はさっぱり思い出せないから。あれだ、知り合いが誰もいない遠くから引っ越してきた転校生のような気分というか。
「皆さん、こんにちは」
と雪男は、にっこりスマイルで、教室に入った。途端、中ですこしだけ、ざわ、っとどよめく声がした。と思ったら、すぐに細い女の子の声で、
「雪ちゃん…!燐は!?」
と声がした。おいおい、「雪ちゃん」ってどんな呼び方だよ、と俺が扉の向こうで、ぽかん、としていると、
「奥村くんは今日から塾にだけ復帰することになりました。今の奥村くんの状態は…先日皆さんに説明した通りです。
記憶はすっかり失っていますが、必要なことはもう説明して、彼自身、落ち着いているので、安心して以前の通りに接してやってください…奥村くん、入ってきて?」
俺はこのとき、何故、雪男が俺のこと「奥村くん」と呼ぶのかそして何故おまえそんなに先生口調なんだ、と首をかしげたけど、とりあえず、なんとなーく
ネクタイを整えて、無駄なあがきだったけど、寝癖のついたまんまだった髪をなでつけてみてから、教室に入った。
「…え、えーっと…あの…どうも…」
はじめまして、というべきか、すげえ迷ったんだけど、俺にだって空気ぐらい読めるさ…。だって、教室の中にいた合計、6人がいっせいに俺を見たんだから。
うわー、個性的なやつらばっかり、と俺は思った。まず、目に入った順のやつからとくちょうを上げるとして、
前の席にいた薄い金髪のおかっぱの女の子、この子は「杜山しえみ」だな、とすぐにわかった。だって一人だけ着物着てたし、金髪おかっぱだし…。
おおなんか目も大きくてかわいい子だなあ、と
思ったよ…。うん、しえみって女の子はかわいかった…。で、次に、俺にケンカ売ってるんだろうか…ってぐらいすごい目つきで(ていうか目つきがもともと悪いらしい)
とさかみたいに髪を染めてピアスもしている、いかつい男…一見、すげえ不良っぽく見えたんだけど気合入ってる感じで、おおかっこいい奴だ!と俺は思った。その時はそいつが
誰かわからなかったけど、そいつに続いて、坊主頭でメガネの小柄なやつ、とタレ目でピンクの髪したやつ、そして、長いストレートをふたつに
結って、マロ眉をした目つきのちょっときつい感じだけど、
顔が小さくてけっこうかわいい女の子。人形を手に持った小さい子どもみたいな変なやつ(こいつについては現在もよくわからん)。
合計、6人。俺を一斉に、すげえおどろいたようなよくわからん、とにかくすげえ顔で見てきた。正直、そんな顔で見られると俺がびっくりするじゃねえか。
だが俺はめげずに言ってみた。
「…あー…あのええっと…雪男から聞いてると、思うけど…。俺、今はなんも覚えてないので…と、とりあえず、こういう時はまず
じこしょうかいかな…(な?雪男!?と小声で雪男に尋ねれば、とりあえずそうして、と言われたので)……はじめましてじゃねえけど…
はじめまして…奥村燐っていいま」
しかし、俺のじこしょうかいは全部いうまえに遮られた何故なら、「しえみ」が、
「…り、燐ーーーーー!!!!」
と叫んで盛大に泣き崩れてしまったからだ。それだけでも俺はおどろいたのに、その後がもうすごい。すごかった。
「おおおおおまおま、おまえええええ、奥村ああああ!ほんまに全部忘れとるんかーーー!?」
と目つき悪い奴に思い切り肩をつかまれ関西弁(京都弁?)でどなられ、ぶんぶん、揺すられてしまったから、じこしょうかいなどできるはずないだろう。
ぎゃんぎゃん、ゆすられる中で、
「あかん坊!奥村くん頭打ってたんですよ!?ゆすったらあかん!」(これはピンク頭の奴の声っぽかった)
「坊、落ち着いてくださいー!」(これは坊主のメガネくん)
「ちょっとなにやってるのよ!放してあげなさいよ!」(これはマロ眉の女の子)
「燐ーーーーー!ごめんね、ごめんねーーーー!全部、私のせいなのーーーー!」(これは「しえみ」すげえ泣いてた)
と、ちょっとしたプチパニックになったわけだ。このパニックを雪男はじつに迅速に収束してくれた。まず、俺をゆさぶるやつを、「ちょっとみなさん、落ち着いて!」
と引き剥がした。…俺は軽くめまいを起こしたぞ…。「しえみ」は泣くし。
とりあえず、みんな落ち着くまで数分かかった。雪男、なんかすまない…とパニックを収束させる弟に俺はこっそり謝ってみた。俺は落ち着いてるけど、むしろ
落ち着かせなきゃいけないのこいつらだったじゃねえかよ…。
そんなわけで、俺の「塾」デビューはじこしょうかいもままならなかったわけだ。
でもまあ、みんなが騒いでしまうのも無理ねえよなあ…前の「俺」が塾の人達とどれだけ交流があったかは…塾生の誰の顔を見ても結局思い出せなかったけど、
少なくとも、同じ塾に行ってた奴がいきなり記憶がすっからかんで再登場してきては、事前に聞かされていたとしても、そりゃあびっくりするだろう。
と、まず、「しえみ」を泣き止ませるのに雪男が一番苦労して、ようやく、ひくひく、と「しえみ」が涙をハンカチで全部拭ったころ、
雪男は溜息をはく。そして、俺は気を取り直してもう一度。
「あの…えーっと…奥村燐といいますってもうみんな知ってると思うけど…ああー…とりあえず…すんません、
みんなの顔みても何も思い出せないから…名前教えてもらえると、助かる、っていうか、ありがたいです…」
と俺がぼりぼり頭かいてそう言うと、なんかもう教室の中がしーんってなって…重い空気になった。みんながみんなぼうぜんと俺を見ていた。俺はいたたまれなくなってしまい、
そしてみんなの顔みても何一つピンとこない自分にちょっと罪悪感さえ感じてしまった。
でも俺が、きゅっと拳を握ったとき、雪男がさりげなく俺の横に立って、
「…というわけで、奥村くんはこういう状態です…。何も覚えていません。皆さんも戸惑うかと思いますが、なるべく以前と同じようにしてあげてください。
健忘症を治すには以前と同じ生活を続けることが一番ですので。…とりあえず、自己紹介をしてください」
と、フォローしてくれた。ありがとう、しっかり者の弟よ(昨日のこともあったので余計に弟という存在がありがたい)。
そして、みんな戸惑っている様子だったけど、やがて、一人ひとり、自己紹介してくれた。忘れないためにも、
みんなの名前を改めて書いておく。
「…なんや、奇妙なことやけど…勝呂竜士や…。よろしゅうな…というべきかわからんけど……」
と言ってくれた目つきの悪いとさかみたいに髪を染めたやつが、「勝呂竜士」。関西弁(というか京都弁?)で話す。すげえかっこいい奴。
「ほんまに忘れてしもうとるんやなあ…まあ、ゆっくり思い出したらええよ奥村君。あ、俺は、志摩廉造っていうんや、よろしゅうな」
と言ってくれたピンク頭のタレ目でおでこに傷痕があるやつが「志摩廉造」
「僕は三輪子猫丸です。よろしゅうお願いします奥村君。なんやわからんことあったらまた何度でも聞いてください」
とやさしいーこと言ってくれたメガネの小さい奴が「三輪子猫丸」
「よろしく…っていうのも変な感じだけどね…。神木出雲よ」
と、ふん、と腕組んで眉にシワをよせてた女の子が「神木出雲」。
「………」
結局、名前も言わなかったけど、雪男がさりげなく「宝くんだよ」と教えてくれた正体不明の「宝」くん。そして、
「燐…ほんとにごめんね…私のせいで、私のせいで…私がドジして悪魔におそわれたから!」
と、またぼろぼろ泣きながら言ってた子が「杜山しえみ」。
しえみは、自己紹介が終わってもまだ泣いていた。ぼろぼろと大きな目から涙が出てくるのを見てて、俺は胸がいたんだけど、それを見てても、しえみのこと何も
思い出せない自分に少しイラついた。
「あ、あのさ…雪男から聞いたから知ってるけど…。そんなふうに自分のせいとか思わなくていいぜ?だって、俺が勝手にかばって勝手に頭割れて、
勝手に記憶がすぽーんと抜けただけなんだからよ。泣かないでくれ…」
何故だろう、しえみが泣くと、俺はすごくかなしくなった。しえみはまたハンカチでごしごし目をこすって(もうすでに真っ赤だったけど)、何度も俺に謝ってきたんだ。
…その健気さが俺は一番つらく感じた。みんなしえみにつられて、どこか重い空気になってしまったけど、ようやくしえみが
泣き止んだ頃、それまで見守っていた雪男が、
「…みなさん、落ち着きました?…では、奥村くんが少しでも生活に関して思い出せるように…授業はいつもどおりに始めますね。
奥村くん、とりあえず席に座って?」
言われて慌てて席につこうとしたけど、俺は、ふと、迷ってしまった。席順とか決まっているのかわからなかったのだ。でもそこはすぐに、しえみが(まだ
目を赤くしながら)、
「…燐、こっち座って…。「燐」はいつも私の隣に座ってたから」
と涙声で言った。俺は、そそくさ、としえみの隣に座り、
「あー…ありがとうな…も、杜山さん?」
とりあえず、名字で呼んでみたのがいけなかった…。しえみは再び目に涙をためてしまったのだ。
「しえみでいいよ…燐、やっぱり何にも覚えてないんだ………うわああん、ごめんね、ごめんね、ぜんぶ私のせいなのーーーー!!」
「ああああー…杜山さ…じゃない、しえみ!うん、しえみって呼ぶから!落ち着け、しえみ!」
で、大泣き…どうやら以前の俺は「しえみ」と呼んでいたのにいきなり「杜山さん」と呼ばれてショックだったようだ…。そしてまた泣き止むまでしばらくかかった…
しえみってかわいいけど、ちょっとめんどくせえ…とまあこれは俺の日記なのでこっそり書き記しておこう。
てな感じでようやく授業がはじまろうというときに、俺は本日一番のショーゲキを受けることになった。
…雪男がさも当たり前であるかのように「先生」のようにふるまっていたからだ。俺はひじょうにおどろいた。だって、双子の弟がよ、
「では、昨日の続き…悪魔薬学教書の50ページを開いて」
と言っていたのだから。俺は思わず、きょとん、として聞いてしまっていた。
「…え、なんだ…雪男…どうしておまえ先生してるの?」
俺のこの言葉に塾の人達は、は?と顔をしかめ、雪男は、あ!と声を上げた。
「…え、なになに?なんだよ、雪男、おまえって塾の先生なのか!?俺と双子の兄弟なのに!?」
「あー…ごめん…説明してなかったよね?」
「聞いてねえよおおおお!?一体どういうことだ雪男、説明しろおおおお!!」
「わかった、わかったから、奥村君!席について!」
と雪男の胸倉つかむ勢いで飛びかかった俺になっとくいく説明を雪男はすることになったわけだ。ちなみに俺達のやりとりを見て、他の塾生は、ぽかーん、としていたけど、
志摩だけが、
「なんや前も同じことあったような気がしはるわー、デジャビュってやつやね…あはは、やっぱ奥村くんっておもろいわー」
と、一人のんきに笑っていた。
そして、俺は雪男にさらに説明されたわけだが、なんと雪男は13歳にしてエクソシストになり今は塾で先生までしている、と。うわー…もうにてねえ双子だよな、って
思ってたけど、こいつどこまですごい奴なんだろうか。と俺は塾も始まってないのになんだか気が抜けてしまう思いだった。そして、実に数十分遅れでようやく「塾」が始まったんだけど…
正直、マジでさっぱりわかんなかった。開き直ろう、何にもわからん!今、日記書きながら教科書ぺらぺらめくってみたんだけど、何にもわからん!
なんかもう難しいとかそう思う以前に、世界観がさっぱり頭に入ってこねえし、いまいちピンとこねえことばっかりだったんだ。俺はもうわからなさすぎて
汗かきながら、でもとりあえず、きたねえ字だけどノートだけは取っておいた。いずれ記憶戻ったときにさすがにノートも取ってないようでは、俺が困るだろうから…と
真面目に考えてみるも…結局、わかんなさすぎて最初の1ページで止まってしまった。手をとめならがなすすべをなくした俺は…とりあえず、授業をしている雪男観察に
移ることにした(ようは暇つぶしになるけど)。
…なんていうのか、雪男はほんとすげえなあって思った。黒板に、かりかり、
よくわかんねえ図式とか、多すぎる量の文章とか、悪魔と対抗するための薬草、薬の調合法とか。すらすら、書いて、説明していったんだ。しかも
つっかえることなく。あいつってほんとすげえ。と俺は思った。同時に、以前の俺がバカだったことはわかってるけど、たぶん記憶なくした分だけ
授業のこともよりわからなくなってしまっていたから、なんだか自分の居場所がないような気持ちになった。何にも覚えてない、みんなの顔みても思い出せもしない
俺が、ここにいていいのだろうか、と。
授業を教えるりっぱな弟の姿。本当なら俺はそれを兄として誇りに思うべきなんだろうけど…さみしく思う俺は勝手だったろうか。
「…燐?」
と、しえみに呼ばれて俺はやっと我に返った。はっと気付けば、雪男の授業は終わっていて、雪男は
使った教科書を片付けていた。休み時間になっていた。しえみが心配そうにぼんやりしていた俺をのぞきこんでいた。
やわらかそうな髪からすげえいい匂いがした。俺は、真っ白いままのノートと進んでなかった教科書を見て、ため息を吐いた。それを見て、しえみは何か勘違いしたのか、
「や、やっぱりまだ具合悪いの?大丈夫、燐?」
と、あわあわしていたので、俺は大丈夫だと笑ってみせて、そこでふと、自分の前髪を止めている髪留めのことを思い出したから、
しえみに聞いてみたくなって聞いてみた。
「…なあ、そういえばこの髪留め、雪男から聞いたんだけど、「俺」が前に塾の誰かから借りたって…もしかして、しえみか?」
その言葉に、しえみは、眉をきゅっとよせて、違うよ、と首を横にふった。
「それは俺や。俺がかしたった」
と、意外にも前の「俺」に髪留めを貸してくれたのは、勝呂だったんだ。俺はびっくりしながらも。
「おお、そうなのか!ありがとうな、勝呂!これ使いやすいからさ…もうちっとだけ借りてていいか?」
「別にいつもでええよ。……おまえ、ほんまにナンも覚えとらんのか…」
目つきの悪い目が、少し悲しくなったように感じたのはたぶん気のせいじゃなかったと思う。俺はなんだか申し訳ない気持ちになった。
以前の俺は、こいつらとどれだけの仲であったのかわかんねえけど、
たぶん、嫌われてはいかなかったんじゃないだろうか。そうだといいんだけど。
「わるい、なるべく早く思い出すからさ…」
「いや、別に責めとるわけやない。…ただ、なあ…奥村、おまえ」
と、俺は俺の座っている席の前に来た、勝呂を見上げて、そして、ふと、まだ片付けをしていた雪男を見た。神木出雲に何か授業の内容のことで質問されていて、それに
よどみなく答えていた雪男。同じ双子の弟なのに、俺よりずっとずっと優秀で前を進んでいる雪男。俺はこのとき、何故かそれを強く感じとった。
雪男が遠い。昨夜、兄弟だと確かめ合ったばかりなのに、遠いと感じた。勝呂が俺を見下ろして何か言っていたけど、俺は何故かよく聞こえなくなってしまった。
…何故か、俺はそのとき、勝呂の声がよく聞こえないはずだったのに、頭の奥で今の勝呂のものではない、声がした気がしたというか…確かに聞こえたんだ。
『奥村、おまえなあ、』
…その続き、なんだっけ?
と、俺が考えようとしたとたん、ずき、っと頭の右側が痛んで、思わず、片手で抑えた。
「奥村!?」
「燐!?」
と俺を呼ぶ声が少し遠いなあ、と思った。思わず、う、と呻いてしまった。めら、っと。頭の奥で
青い火を見た気がしたとき、俺は、誰かに腕をつかまれていきおいよく席を立っていた。ぼんやりする頭で見てみればそれは雪男だった。
「すみません。兄はやはり気分が悪いみたいです。もうつれて帰りますので。心配しないでください」
兄が平気でしたらまた明日。と雪男は塾のみんなに告げた後、俺の腕をひっぱって、教室から出ていた。
で、その後、寮の602号室に戻った記憶がどうもぼんやりとしていた。でもずっと雪男に腕を引かれていたことはわかっていた。
雪男はずっと何か声をかけていたと思うけど、遠くてよく聞こえなかった。
部屋に戻ったとたん、雪男に、薬を用意されて(医者からもらった薬だった)、これ飲んで、と言われるままに飲んだ。飲みながら、これ
なんの薬だったかな、って思ったけど、確か睡眠薬とか精神安定剤みたいなものだったと思う。薬を飲んだあとは、すぐにベッドに寝かされた。
寝かされながら、兄さん大丈夫?とかけてくれる声がやさしくて俺はうれしかったんだ。
「…なあ、今、何時だ?」
と俺はベッドにもぐりこみながら聞いていた。
「…まだ7時だけど、少し寝てなよ…」
「…あいつらに、大丈夫だっていっておいてくれ。明日はまた塾に行きたいんだ」
と俺は雪男に言っていた。雪男は少し迷ってたみたいだけど、うん、と頷いてくれた。俺はそれで安心して、ふう、と息を吐いた。
…俺はこのとき、何か、なにか、雪男に言わないと聞かないと、ともう強迫的にそう感じた。なんだっけ、俺、雪男に何言いたくて、何を聞きたかったんだろうか、って。
だんだん眠くなる中で考えた。そして俺は、ふと、「思い出して」こう聞いていた。
「…なあ、雪男、晩飯なにがいい?おまえの好きなもん、作ってやる…」
自分で言いながら俺は、あれ?って思った。今、これを書いている今も、あれ?って思う。俺は、雪男に晩飯なんて作ってあげてたんだろうか…。
でもそうだとしても、どうして、そんなこと聞かなきゃって思ったんだろうか。
雪男は、なんだかちぐはぐなことを言う俺に、少しだけ悲しそうに目を細めて、俺の髪をなでてきた。昨夜みたいにやさしくやさしく。
…そうえいば、なんだかすっかり忘れていたけど、なんで雪男は昨夜、あんな風に俺に触ってきたんだろうか。
「…今日は、ごはん、大丈夫だよ。それより兄さんはもう休んでて」
「じゃあ、じゃあ…おまえの好きな食いもんなんだっけ?わりい、忘れたから、教えてくれ」
俺はなぜか、むしょーにそれを知りたかった。雪男は、少し微笑んで、
「魚介類とか特に刺身が好き」
と答えてくれた。俺はそれを聞いて、ひどく、安心した。
そうか、今度とびきりうまい魚の煮付けと刺身をアレンジしたものを作ってやろう兄ちゃんが、と言いたかったけど、俺はふと眠ってしまっていた。
眠る直前に、なにかおでこに当たられた気がしたんだけど、なんだったんだろう。
…今は、日記書いてる間にもう日付変わろうとしている。俺は、どうやらあのまま寝てしまって、起きたら11時ぐらいだったんだ。雪男は、机の上に「何かあったらすぐにケータイで
連絡して」と書き置きを残して、まだ塾での仕事でも残っているのか帰ってきてない。あいつ、忙しいやつだと思う。でも独りにされている、とは感じない。
少なくとも、昨夜より俺は独りじゃない。雪男とも兄弟だってわかりあったばかりだし、結局、少ししか顔出せなかったけど、
塾のやつらは俺を心配してくれて、みんないいやつそうだったし。そうだ、勝呂の言葉……勝呂はなんて言ったんだろうか。って。
書いてるうちに思い出すかと思ったけど…やっぱり思い出せそうにない。…7時に寝てたというのに、まだやたら眠いので、
もう日記をやめて寝ようと思う。もし、また青い炎の夢を見てしまったとしても、これだけ細かく書き残しておいたんだ。明日、何かを忘れてたとしても、
思い出せるだろう、きっと。
塾には明日も行ってみるつもりだ。みんなのこともっと知りてえし、しえみが泣いてないか気になるし、「奥村燐」がどんなやつだったのか、知りたいんだ。
じゃ、今日わかったことをメモっておこう。
塾のみんなのこと。みんな俺を心配してくれているいいやつら(また仲良くなれるといいな)。そして、雪男は15歳なのに塾の先生してて、
魚介類、特に刺身が大好き。
あ、思い出したような気がしたから、追記だ!
勝呂は、いつの勝呂の言葉かはわからないけど、そうだ、そうだ…こう言ったんだ。
『奥村、おまえなあ…いい加減にしておけ!いつまで奥村先生にそないな態度とっとるつもりや…!!』
……勝呂はそう言ったことがあった。そうだ…。俺、は…雪男に何かしたのかもしれない…。
でもそれがなんでか思い出せないから、明日、塾に行ったら、勝呂に聞いてみよう。たぶん、雪男に直接聞いても、雪男は答えてくれないかもしれない。なんとなく、そう思う。
2011.6.16