例えば、しえみのようにふわふわした可愛い髪飾りとか、綺麗な着物とか、いい香りのする香水とか。例えば、出雲のようにさりげなくも装飾の細かい女の子らしいブレスレットとか、
最近あけたらしいピンクの宝石でできた小さなピアスとか。
そういう女らしいものにずっと興味なんて持たなかったといえば嘘になる。塾に入ったばかりの頃は何もかもが目まぐるしかったし、何より自分の処刑のかかった祓魔師の試験があったから、
そういう暇もなかった。けれど、なんとか祓魔師としての資格も取り、当分処刑も免れ、監視の目は相変わらずあったが任務にも赴くようになって、自分でもようやく前に進みだした実感を持てた頃だ。
要は調子に乗っていただけだったのだろう。余裕が生まれればそれまで見向きもしなかったものにも興味を持ち始めていて、だんだんと大人っぽくなっていく女友達を見て、焦りを感じ始めたのもあったと思う。
それまで口紅の一つも知らずに髪も短いままで。そのことを唯一の女友達であるしえみと出雲につい愚痴ってしまえば半ば強引にデパートに直行し、そこで色々なものを購入した。
修道院時代から小遣い2000円時代まで。貧乏性の身についていた燐にしてはかなり思い切った散財で、色々なものを買った。ファンデーションにマスカラに香水に口紅。基本的なものしか揃えていなかったけれど、
燐は自分でもこんなに買うとは思わず、どこか気恥ずかしくてけれど確かに嬉しかったのだ。
ファンデーション、マスカラの使い方はよくわからず、ひとまず、今度またしえみや出雲に教えてもらうまでは袋に入れたまま、ただ口紅ぐらいなら自分でも大丈夫かな、と思った。
肌色に近い薄いピンクのものだったので、つけすぎて目立つこともないし、化粧のしてない顔でも唇だけ浮くこともないと思ったのだ。小さな手鏡で、そっ、とやや口をあけながら、わくわく、した気持ちで紅を引く。
ぬるりとした感触からするすると。滑らかに燐のやや血色の悪い唇を仄かにピンクに染めていくそれに、気分が高揚したのも本当で、心臓がどきどきしたのも本当だった。口紅を塗った。それだけのことだったけれど、
鏡の中から見返す自分はそれまで見たこともないような「少女」の顔をしていた。
「悪魔のくせに色気づきやがって」
すれ違いざまであった。
少し伸びた髪から仄かに漂う香と普段は血色のよくない唇なだけわかりやすい、ピンクの口紅を差したそれに気付いたのだろう。それを自分の耳が拾ってしまった時、
何か冷たいものが全身を肌の裏から這い回るような感覚を覚えた。そんな悪寒は初めてだった。次には、隣に一緒に歩いていた雪男の怒鳴る声ですぐに我に返った。
「姉さんに謝れ!」
弟はそう叫んでいた。昨夜、初めて口紅を差した姉を見て、きれいだね、と言ってくれた弟は、姉が人並みに友達と買い物をして人並みにそういうものに興味を持ち始めたのが嬉しかったのだろう。どこまでもお母さんみたいな奴だ、と
燐は照れながらも嬉しかった。それだけに雪男の逆鱗に触れたのか。その言葉を吐いて捨てた祓魔師の男は以前から燐のことを口汚く罵っていて雪男はよくその男と衝突していた、と燐が知ったのはもう少し後のことになるが。
つまり堪忍袋の緒が切れたというものだったのだ。雪男にしては冷静さをこと欠いた行動で、男の胸倉を掴んでいて、燐は反射的に弟の腕を掴んだ。「雪男やめろ」。弟が手を汚すことなんてないと思ったのだ。
雪男やめろお願いやめてやめてくれ。おまえが手を汚すことはない。自分が、俺が。
「…ごめんな」
雪男が我に返ったのは燐のその一言だ。雪男に一発殴られた男に向けられたものではなく、かといって、雪男に向けられたものでもなかったのかもしれない。姉さん。と雪男が戸惑うような声で呼ぶ。
「…ごめん…」
「…姉さん」
「ごめん」
ごめんなさい
ぼう。
青い炎を手の平で踊るように遊ばせて。じゅわ、と手の中の香水瓶はそれで蒸発して溶けてしまった。ぐすぐす。油と香料の燃える匂いが嫌に鼻について。なんだ化粧品ってそういう塊でできてんのか、とわかれば未練はなくなったかのように思えた。
跡形もなく悪魔の炎で燃えていく。夜。旧男子寮の裏庭でひっそりと。燐は初めて買ったそれらを火葬することにした。始めは一度も使ってないものぐらいしえみ達にあげようかと思ったが、やはり人の肌につけるものをあげるのもよくないだろう。と思い直し、
結局、全部燃やした。ファンデーションもマスカラも。口紅も。青い炎の中で薄いピンクの口紅が燃えていく。ぐすぐずどろり。跡形もなくなれば、夜空を仰いだ。
途方もない遠い遠い向こうで自分のとは違う原理で燃え続けている輝く星が。今はどうしてか「普通の女の子」が持っているようなかわいいアクセサリーとか小物とか宝石とか。そんなものと同じに見えてしまう。
途方もなく遠くにあるただの光なのにな。
遠いなあ。
燐の声は真っ暗な空に吸い込まれていく。遠いと思う。この先の先が。自分の歩いて行く道が。
先も見えないその曲がりくねっているだろう道の中、自分は一体どこまで歩いていけばいいのだろうか。
2011.12.11