ひとりぼっち

 

「あだっ!!」

固い床のようなところに投げ出されて直前に撃たれた右肩が痛んで息を詰めたが、同時に扉の閉められる音。すぐに身を起こして閉じられてしまった扉に手をかけ開け放つが、 そこに広がっていた光景は先ほどまで燐がいた廃墟ビルの部屋ではなかった。
「…どこだ、ここ…」
周りも空も覆いつくすように生い茂った杉の木。その木々には雪が重く覆いかぶさっていて、地面も全て白で塗りつくされている。 その分厚い白の上にさらに積み重なる雪。深々、とそれは木々の間を縫って空から降ってきていた。
おそらく日本ではない。先ほどまで燐がいたはずの日本とは微妙に時差があるらしい。 夜中ほどの暗さではないが、それでも覆いつくす木々と重たく暗い雲のせいで、薄暗く真っ白な雪を灰色に染めていた。 そして何より日本の冬とは比べ物にならないほどの肌に針を刺すような冷気が、開け放たれた扉から容赦なく入り込んでくる。
「…どこだよ、ここ」
燐の問いに答えるものは当然いなかった。







あの男が持っていた鍵は、どうやらこの雪深い山奥にある山小屋の扉に繋がっていたらしい。外の光景にしばし呆然としながらも燐は努めて冷静でいようと判断し、 まず扉を閉めて山小屋の中を見渡した。使用されなくなって大分経過しているらしい。煤で汚れきった暖炉と黒く汚れて今にも腐って壊れてしまいそうな床。 広さは12畳分あるかないかであった。狭くはないが、何も物がない。隅っこに木屑と汚れた毛布が一、二枚あるだけで、最近人が使用した形跡がない。 暖炉など唯一小屋にあるものの周りを探ってみれば、ヴァチカン市国のものと思わしき紋章が壁に彫られていた。汚れ切っていて判断が明確にはつかないが、 おそらくそうだろう。それを考えると、昔は騎士団の中継地点として使用されたことのある場所だったのかもしれない。なるほど。このように今ではもう使用されず存在を忘れられているほどの場所に繋がる鍵を 主にしてあの裏切り者は売りさばいていたのだろう。
「……っ…」
撃たれた右肩が痛む。
ひとまず、というか本当に物などなにもない山小屋であったので、これ以上詮索することもできるはずもなく、燐は汚い床に腰を下ろしてとりあえず傷口の様子を見た。 寒いが致し方ない。コートを脱いでその下に着ていた制服の上だけ脱ぐ。肌を刺すような冷気がやはりここは日本ではないかもしれない、と改めて思わせた。寒さと傷からの出血のせいだろうか。 燐の細い右肩は白さを通り越して青白くなっており、弾の残っている傷口は赤黒くはれ上がっていて未だ血が止まっていなかった。
聖銀の弾かもしれない、と燐はおそるおそる傷口に触れた。
いつもならこれぐらいの傷、すぐに治る燐なのだが、一向に治る気配がないのを見るとおそらく聖銀なのだろう。男自ら話していたように過去何度か祓魔師と関わっていたのなら、 今後の悪魔への対策の一つとして銃に聖銀の弾を常備していたとしても不思議ではない。
どうしよう、と燐はずきずき痛む傷口を見てわずかな焦りを覚えた。今までだって大怪我をしたことはたくさんあったけれど、そのどれもが任務中に悪魔から負わされたものであり、 そんなものは放っておいてもすぐに治った。 こんな風に祓魔の道具を使用された傷は一度も負ったことがないのだ。任務の編成では例えばエンジェルのように燐を悪魔の娘として扱ってそっけない奴はいたけれど、 サタンのことで燐に恨みを持つほどのものはいなかったし、現役だったころは養父や雪男と組まされることも多かった。だから実は人間に危害を加えられたことはないし、 聖銀どころか聖水を受けたこともない。
今から思えば、燐に危害を加えそうな者はメフィストが組ませなかったのだろう。
メフィスト。
ふと、思い出してしまいそうになったが肩の傷に集中することで思い出すまいとした。
おそるおそる不気味な穴の開いた傷口に指をつっこむ。こんなやり方が正しいなどと思っていなかったが、倶梨伽羅も刃物も何もないこんな状況では他にやりようがなかった。 聖銀をいつまでも体に留めておくほうが危険だ。ぐり、と指先をさらに深く傷口に押し込む。脂汗が出てきた。怪我などすぐに治るといっても痛いものは痛い。 案の定、中に残っていた弾を力ずくで取り出して、小屋の隅に放る。からん、とそれは転がって床の割れ目に入って見えなくなった。
「いた…ぁ…」
ずきずき。今まで感じたことのない類の痛みだった。骨から焼かれるような感覚だ。こんなに寒いというのに傷口は熱を持っている。制服の一部を裂いて止血した。 痛むが弾は取り出したのだから、その内治ってくるだろう。
じわり、と目尻に浮かぶ熱は傷の痛みのせいだと思うことにした。
脱いだコートと制服を着込み、よろよろ、と立ち上がり閉じられたままの扉を睨む。
鍵はあの男が踏み潰して砕いてしまっていた。一度壊れた鍵は修復しても復元しても元の機能を取り戻すことはないので、 この小屋の扉を通じてこちらに来る手段はもうないということだ。
でも、あの男は鍵の繋げていた場所を知っていただろうし、裏切り者の祓魔師だって当然知っていたはずだ。 場所などすぐに特定できるだろう。周りの様子から日本ではないことはおそらく間違いないので、鍵なしでは時間がかかるかもしれないが、 助けが来るのはそんなに遅くはならないだろう。
燐はそんな風にやや楽観的に考えた。というかそう考えていなければ、ひとりぼっちになっている、という不安ですでに押しつぶされそうだったからだ。
「…待つしかねえかな…」
大人しく助けを待つことは性に合わないが、今一度扉を開けて外を確認してみれば雪の勢いは増していて、すでに吹雪のような状態であった。 こんな状態で外へ出ていくほうが愚かだということぐらい、燐にもわかる。
待つしかない。
ある程度待っても助けが来なければ吹雪が止んだと同時に山を下ればいい。町なりなんなり近くにあるだろう。取り出した携帯は圏外になっているため使えそうにないが、 町まで行ければ電話でも借りて雪男か養父に連絡すればいい。そこまで考えてまたあの悪魔の顔が浮かんできたのだが、圏外の携帯を握り締めてその顔を頭から追い払う。
「……独り立ちしようと思った途端これって」
きっとみんなの下に帰ったときには、ほらみたことか、と苦笑されるに違いない。やはりあなたはまだまだ未熟なんですから意地を張らずにいつまでも娘でいなさい、と 子どもの頃のように自分の頭を撫でるメフィストの幻想を見た気がした。燐は、想像の中とはいえ思わず自分の頭を手で払う。
意地でもないんでもない、もう決めたんだ。
頭を振って、座り込み膝を抱える。
忘れるって決めた。さすがに大泣きした日は辛かったけど、全部吐き出してしまえばそれなりにすっきりしたし、忙しくしていれば考える暇もなくて、そのうち自然と忘れられるものだろうと思っている。 ぐちゃぐちゃに混ざって絡まったものだって、ひとつひとつシワを伸ばしてきれいに畳んで、タンスの奥、もう二度と取り出さないよう奥へ仕舞え込めばいいだけだ。 燐はこの一週間ひたすらそれだけを考えてわざと忙しくしていた。それを心配そうに見守る養父のことも雪男のことにも気付いていたし、気を遣わせて申し訳ないとも思っていたが、 時間さえ経てば全部忘れられる。そう信じているしかなくて、そうしようとしていた。
「…大丈夫、大丈夫」
それが何に対して言い聞かせていることなのか、燐自身にもよくわからなかった。この状況に対してか、 メフィストのことへ対してか。あるいはその両方か。けれど、大丈夫だ、と燐は信じている。時間さえ経てば助けは来る。助けが来なくても吹雪はそのうち止むし、 自分でなんとかすればいい。
時間さえ経てば。
今にも崩れそうな山小屋を吹雪はひたすら容赦なく揺さぶっていて、燐は膝を抱えてひたすら小さくなっていた。







寒い。
数分経過したところで燐は寒すぎてかじかむ自分の体を自覚する。いくら悪魔の治癒力があろうと体力があろうと、寒いものは寒いし体を冷やし続ければ危険に決まっている。 億劫そうに腰を上げて煤けた暖炉を探るも、薪になるものが何もない。倶梨伽羅がなくてもある程度の炎を出すことはできるが、 この炎の熱を燐自身が感じることができるわけがない。できれば悪魔を燃やす熱で燐も燃えてしまうはずだし、この炎の熱を自分で感じることはできないのか、とメフィストにも聞いたことはあるが、 「そんなことは知りませんし、そんなことは二度と考えてはいけませんよ」といつになく恐い顔で叱られてからは一度もその方法について尋ねたことはない。 燐としては自分の炎のことを全て知っておきたかったから興味本位に聞いてみただけのことだったのだが、それができるようになってしまうということは、 いつか燐自身が悪魔として取り返しのつかない状態になった時、仲間を傷つける前に自ら体を炎で燃やすことができるということに繋がってしまう。だから、メフィストはそんなことは二度と考えるなと怒ったのだろう。 本当はそうすることのできる可能性もあったかもしれないのに。
メフィストはよくわかっていたからだ。燐が仲間を傷つけるぐらいなら自分を燃やしてでもそれを防ごうとする、悪魔なのに自己犠牲精神のある子だということをよく知っていたのだ。
そうやっていつも燐の身を案じてくれていた。
「なっさけねえなあ…青い「炎」は出せるのに温まることもできねーなんてさ」
ぼうぼう、と何もかも燃やす青い炎。しかし自分の体を温めることもできない。こんな状況でも。 情けない通り越して間抜けなことだ、と燐は皮肉っぽく笑うと煤けた暖炉を探り続ける。幸いにも古いが未使用のマッチを数本見つけた。外はまだ猛吹雪なので、 仕方なく、中身がごっそり抜かれたまま転がっている木箱やかつてはタンスか何かだったのだろう腐った木屑を集めて燃やす。なんとか灯った赤い炎は弱々しかったが、 手をかざぜば温かだった。その温かさにほっと息を吐く。 雪男はよく、姉さんの炎は温かいね、と言ってくれるが人間に対する自分の炎もこんな感じなのだろうか。
弱々しい赤い炎はいつ消えるかもわからないが、しばらくは大丈夫だろう。もともと悪魔の体力があるのだ。多少体が冷えても大丈夫だろうし、 時間さえ経てば。
それでも少しは温まろうと、隅に放置されていた毛布を持ち上げたとき、そこから転がってきたものに燐はぎゃあ!と悲鳴を上げた。 ころん、と毛布から転がってきたものはおそらく越冬しようとしてそのまま死んでしまったのだろう毛虫の死骸で、燐は涙目になりながらそれを足で払って割れた床の隙間に落す。
「くそっ!なんで毛虫なんだよ!最悪だ!!」
ひとりぼっちのこの状況で泣きそうになりながら転がった毛虫の死骸を恐がる自分がひどく滑稽だとは思ったが、恐いものは恐い。死んではいるが毛布を持ち上げたときに袖にまでついてしまったものを、また泣きそうになりながら手で払う。 触りたくもなかった。そうして服をばたばた払っていると、小さい頃、メフィストの屋敷の庭で毛虫が服について大泣きしていた燐に苦笑しながら毛虫を取ってくれたメフィストのことまで思い出してしまう。 まだ毛虫恐いんですか?こうして払ってしまえば何もしませんよ悪魔の方がよほどじゃないですか。と笑うメフィストの顔。 なんでそんなに毛虫が恐いんでしょうね?と首をかしげる彼に対して、恐いものは恐い!と叫ぶばかりだった燐だが「あの時」毛虫さえ木から落ちてこなければ、と思う気持ちがずっとあるからだと思う。
あの時、あんな覚醒さえしなければ、メフィストと出会うのはもっと遅くてすんだだろうか。そうして出会ったら、きっとメフィストのことをこんなに好きになることもなかったのだろうか。 そう考えたことは実は何度もあった。だから毛虫が未だに大嫌いなのだと思うけれど。

いやだ、今は思い出したくない。

けれど毛虫の死骸に暖炉で燃える赤い炎にこんな時に頼りにならない自分の青い炎に、初めて受けた聖銀の傷に。今までずっと自分の身を案じてくれてなんだかんだで守ってきてくれたメフィストのことを、どうしても思い出してしまう。

思い出したくないのに。

しかもこんなひとりぼっちの状況で。

小屋ががたんと大きく揺れて、みしみしと壁が軋む。燐は思わず身を竦ませてしまうが、ぐっと唇を噛んで堪えると暖炉の前で膝を抱えて顔を埋めた。
弱々しい炎と痛む傷と風の音が余計に燐を孤独に追いやる。
今までこんな風にひとりぼっちになったことはなかった。自分には養父がいて弟がいて仲間がいて、 メフィストがいて、そしてメフィストを好きだという気持ちを抱けているだけでも恵まれている。今まで無事に生きてこられたことさえ幸運なのだ。 ひとりぼっちになったこともなかった。こんな風に、ひとりぼっちになったことなんて。
「…でも今は、全部自分のせいでひとりぼっちなんだ」
膝に顔を埋めたまま投げ出した言葉は、自分の耳からでもひどく篭って聞き取りにくかった。
好きになって欲しいもっと欲しいもっと欲しい、と身の程知らずに欲望を抱いてあろうことかその悪魔の力で誘惑して。 もう側にいられないと焦ってなんとか独り立ちしようとめちゃくちゃに任務を入れていたら、こうなった。

『…妻にね、認めてもらいたかった…。夫として男として』

気の弱そうなあの顔の男の言葉がふいに蘇えってくる。自分はあの男とどう違うだろうか。妻に認めて欲しくて犯罪を犯し、あろうことか妻とこんな寒くて寂しい場所で無理心中を謀った。 自分は 好きになって欲しいもっと欲しいもっと欲しい、と身の程知らずに欲望を抱いてあろうことかその悪魔の力で誘惑した。
自分はあの男とどう違うだろうか。同じじゃないだろうか。
情けなくてそして間抜けすぎて、涙が出てくる。
自分で遠ざかったくせに、ひとりぼっちになって、毛虫を払ってくれる手もないし、寂しくて恐かった時に潜り込んでいたベッドもないし、 膝もないし、頭を撫でてくれる手もない。
あれがあっただけでも、本当に恵まれていて幸せだったはずなのに。自ら手放してしまった。
なんてバカなんだろう。
燐はじわじわ膝を塗らすものが口に入ってしょっぱいと思った。
小屋ががたんと大きく揺れて、みしみしと壁が軋む。傷口は未だずきずき傷んで弾を取り出したはずなのに、治りが遅い。 血が止まっていないのに気付いて慌てて毛布で抑える。寒さのせいか失血のせいか頭が少しぼんやりとしてきた。でもこんな状況で眠るわけにはいかない。
眠ったら二度とみんなに会えなくなるような、そんな悪寒が走ったからだ。



「会いたい…」



無意識に漏れた言葉に燐自身が一番驚いた。
けれど一度堰を切ってしまえば、もう抑えられなかった。どっと溢れてくる。こぼれ落ちてくる。



会いたい。メフィストに会いたい。もう好きになってくれなくてもいい、 ほらみたことか、と笑われてもいいし一生「娘」のままでもいい。もう何にも望まないから。何にも望まない。悪魔のような欲望はもう二度と持たないから。 だからもう一度会いたい。



小屋ががたんと大きく揺れて、みしみしと壁が軋む。傷口は未だずきずき痛む。弱々しい炎と痛む傷と風の音が余計に燐を孤独に追いやる。

孤独の淵は辛かった。

それはどんな痛みよりも恐ろしく、じわじわ、這いずる蛆虫のように燐の肌と心を侵していく。



燐は、ひとりぼっちだった。











2012.7.16