『すき、めふぃすと…』
『だいすき』
『だから…わたしを、すきになって』
そうして食いつくようにキスされて死ぬほどうれしかった。けれど、あんなことしたって意味なんてない。なんのきっかけにもならないし、
何かが芽生えるようなそんなものじゃなかったんだ、と燐は思う。
もう好きになってもらえなくてもいいから、
ほらみたことか、と笑われてもいいし一生「娘」のままでもいい。もう何にも望まないから。何にも望まない。
悪魔のような欲望はもう二度と持たないから。だからもう一度会いたい。
あんな夢見るなんて未練がましい。
いつの間にか少し眠っていたらしい。燐自身、眠ったつもりはなかったしわずかな時間だったかもしれないが、ふと目を覚ました途端ぞっとした。
身を起こせばぱりぱりと床に張り付いた髪が剥がれる。寒さで髪が凍っていたのだろう。寒い。見れば暖炉の火は消えている。
それどころか、小屋の中に唯一あった窓が割れてそこから雪が雪崩れ込んでいた。幸い入り込んできていた雪の量は多くなかったが、それが余計に室温を下げていたみたいで、
燐は腕をさする。コートも少しぱりぱりと氷の剥がれるような感触があった。吐く息は白いし、吸い込む度に肺が凍りつくようだった。
この小屋に放り込まれてから何日経過したのかわからない。
携帯はとっくにバッテリーが切れて動かなくなってしまっているし、腕時計も持っていないから時間も日付もわからない。
日本時間とは違うだろうが、腕時計があって時間を確認できる何かさえあれば随分心持は違っただろうに。ここを抜け出せて帰ったら腕時計買おう雪男とお揃いのやつ、と燐はぼんやり考えながら、
未だ痛む右肩をさすった。
出血は止まっているが、傷口が塞がらないのだ。
余程、純度の高い聖銀だったのか、それとも特殊な仕組みでもあったのか。
いくらその辺りのハーフより治癒力のある燐でも、祓魔の効果のあるものがいつまでも体に留まっているようでは治るものも治らない。しかし、医工騎士の称号のない燐にはこれ以上どうしようもなかった。
起き上がって割れた窓からわずかに見える外を覗う。吹雪はようやく止んだようで、雪の重みにみしみしと小屋が音を立てていた。今にも崩れてきそうなそれに、ここを出なくては、と燐は思い立つ。
ドアも埋めるぐらい雪が降り積もったようで開かないし、無理にあければ大量の雪が雪崩れ込んでくるだろうから、窓から覗くわずかな隙間に手を突っ込んで、雪を掻き出した。
青い炎で温まることはできないが対象には効果があるので、炎を出して雪を溶かしてみようとしたが、上手く炎を出せなかった。あれ、おかしいな?と思いつつも仕方なく手で雪を掘る。
手が真っ赤になった。けれど通り抜けられるほどの穴ができたので、身をくぐらせて小屋を抜け出した。
何日経過したがわからないが、吹雪で相当降り積もったのだろう。
小屋は半分以上埋まっていて、まだ太陽も見えず空は重たい暗雲で覆われていた。吹雪とまではいかないが、ちらちら、雪は降り続けている。けれど、吹雪ほどではないし、
行動するなら今しかないだろう。そう考えた燐は小屋から離れるため一歩踏み出す。体重がさほどないせいか雪の中に埋まることはなかったが、歩きにくいことこの上ない。
冷たい氷のような雪に足のほとんどを埋めながら、燐は歩き出す。数メートル進んだところで、ずしん、と何かが崩れる音がしたので振り向いてみれば、
小屋が雪の重みに耐えられず潰れていた。燐は数秒その光景を見ていたが、もう振り返ることなく前へ進み始める。
お腹空いた、喉渇いた。
すでに空腹を通り越して少し胃が痛み、何も飲んでいない喉は渇いている。せめて雪を溶かして飲んでしまおうかと燐は思ったが、どうやっても上手く炎が出せず、
雪をそのまま食べるのは体温を下げるので危険だと知っていたので結局飲まず食わずで歩き続けるしかなかった。
方向が合っているのかわからない。助けを待つならなるべく小屋のあった場所から動かない方がいいのかもしれないことはわかっていたが、
こないかもしれない助けをひたすら雪の中で待つなんてそれこそバカなことのように思えた。それに昔だったろうとはいえ騎士団の中継地点が確かにあったなら、
近くにはちゃんとした施設か町があるはずだ。一度、重い雪に枝をしならせる杉の木に登って一番上まで行って周りを見渡してみたが、針葉樹の森はどうやら広大なようだった。
少なくとも町らしきものは見えないし、道らしい道もない。
でも雪の中で突っ立って待ってるよりずっといいだろう、と燐は歩き続けることにした。山になっているのならとりあえず降らなければ、と傾斜になっている箇所をなるべく降って降っていくことにする。
ざくざく、と雪を掻き分けるように進んでいくのは案外体力を使うもので、さらに何も食べていないせいか疲れがいつもより溜まっていく気がする。
深々と雪は降り続ける。
燐の雪を掻き分ける音以外の全てを吸収していくようで、燐は小屋にいた時よりも何故か孤独感を強く覚えた。
あんな夢見るなんて未練がましい。
眠ってしまった時に見ていた夢のことを思いだす。歩くしかない状況ではどんどん余計なことを考えてしまう。思い出すな止めろ、と自分に言い聞かせているつもりだったが寒さと空腹と渇きで思考がまとまらなくなってきた頭では、
どうしても上手いこと制御できなかった。
寒い、冷たい。今あの腕で抱きしめてもらえたらどれだけ温かいんだろう。
そんなことまで考えてしまい、少し顔に熱の集まる感覚がしたが頬に手を当ててみても冷たいままだった。
考えるな思い出すなと拒絶すると同時に、会いたい抱きしめてもらいたい、と欲求する自分もいる。朦朧とする頭の中で相反する「自分達」がケンカをしているみたいだった。
ぜぇぜぇ、と普段どれだけ走っても簡単には息は切れないのに、もう息苦しい。一度歩みを止めて息を整える。肺が凍るように冷たい。短い髪を触ってみればわずかに雪が積もってきていて、
頭を振って雪を払う。大分歩いたような気がするのだが、周りの景色は一向に変らなかった。いつまでも針葉樹が続き、動物一匹にも遭遇しない。
「…ゆきおー」
ぽつん、と独り佇んでいる不安から、燐は自分を慰めるために雪男の名前を呼んでみる。降り積もる雪はその儚い呼びかけさえも吸収してしまうようで。そう雪男はあの後、
どうなったのだろうか、雪男のことだから大丈夫だろうけど誰も怪我しなかっただろうか、とふと燐は考えた。
「…とうさーん…」
迷惑ばっかりかけてた。きっと今頃心配していることだろう。今は元気だけど去年ぎっくり腰をやったばかりだし、もう年なんだから自分の捜索は雪男に任せて温かい部屋にいてくれればいい、と思う。
「………」
メフィストの名前は呼べなかった。
今呼んでしまえばそれこそ色んなものが溢れてきそうで、呼べなかった。
けれど、今この時の寂しさからか不安からかキスされた時の感触とか抱きしめられた時のぬくもりとか、頭を撫でてもらった時や髪を撫でてもらった時のあらゆる感触が蘇えってくるようで、
唇を噛んでそれに耐える。
全然、忘れられない。
「…バカみてぇ…」
しんしん、と。きらきら、と。雪が降って落ちてきて燐の身に痛いぐらい染み込んでくる。
しばらくそうやってぼうっと立っていた燐だったが、異変に気付いたのはすぐであった。
針葉樹林で覆われて光の届かない暗い向かい側から、ぐるぐるぐる、と獣の呻る声が聞こえてきたのだ。それに我に返ると燐はじっと前方を睨む。
野生動物か?と最初は思ったが漂ってくる気配から悪魔であるとわかった。しかも雑魚ではない。
ざくりざくり。
やわらかく積もった雪を踏みしめる音。かなり重い。ぐるりぐるり、と猫のものでは決してない大きな喉を鳴らす音。
そして、暗がりの中から姿を現したのは灰色の大きな狼であった。
しかし、一見でやはり悪魔か、とすぐにわかった。何故なら四脚のうち前の右足と後ろの左足の肉が削げ骨が覗き、アバラも突き出していて、なにより鼻の長いシワのよった獣の顔は、左目が腐って飛び出している。
右目はない。目玉のない眼窩が暗い穴を開けていた。
「…グール」
そして強烈に鼻につく腐臭。狼の死骸に憑いたグールであることは間違いなさそうだった。そして、ふんふん、と鼻を鳴らす音。
飛び出して焦点の合っていなかった左の目玉が一度ぐるりと回ったかと思えば、
一点、燐に留まる。
その瞬間で腐った巨大な体が燐に向かって跳躍した。持ち前の反射神経で逃げることは充分可能だったが雪で足が取られ体力も落ちていたことから無様に転んでしまい、上に伸し掛かられてしまう。
まったくの一瞬で、反応できたが体がついていかなかったことで燐は自分はもう相当疲労していたのだとようやく自覚して、かっと頭に血が上るまま伸し掛かる狼に殴りかかったが、
もう一方の脚で押さえつけられてしまう。胸に両腕を押さえられてまともに息ができなくて苦しかった。
ふんふん、と鼻を鳴らす音。
飛び出した黄色い瞳孔の眼球が、ぎらり、と野蛮な光を灯す。その眼光に一瞬身を竦ませると同時に、そうか匂い、と燐は気付いた。
「匂い」が。
忘れようとしていたのに、思い出してしまったから、また「匂い」が出ていたのだ、と燐は気付くが遅かった。
ぼたぼたと臭い涎を流しながら、ずらりと黄色い牙の並ぶ口が開けられる。まだ自由になっている足で横腹を蹴れば、きゃいん、と犬のような声を上げて横に吹っ飛んだ。
押さえつけられた胸が解放されて、大きく息を吸い込むも、急に入り込んできた冷気に肺がさらに驚いて咽こむ。苦しい。冷たすぎて痛い。けれど、グールから逃れようともがきならが必死に足を動かすも、
そんな燐を嘲笑うかのように今度は背中から押さえつけられた。雪の中に顔面が埋まる。ぞっとするほど冷たかった。
「は、なせっ…!」
必死に雪から顔を上げてもがくも、背後からの犬のような荒い息遣いに、背筋さえ凍るような思いだった。
食べたい食べたい、と歪んだ声でぶつぶつと呟いているようだった。
喰ってしまいたい全部。
それは「匂い」に惑わされた悪魔の本性むき出しの雄の悪魔の囁きであった。
その囁きに血の流れさえ止まるような恐怖を感じたと同時に肩に走る激痛。
黄色い牙が燐の傷を負った右肩を噛んでいた。
ぐり、と牙が食い込み、骨にまで達して、
燐は悲鳴を上げた。
小さな女の子のような細く甲高い声。
何故かその瞬間牙が離れたので、ダメージのない左腕の肘を使い背後のグールの横面を衝いて押さえつけていた脚から逃げ出す。
肘で突いたとき、ごきり、といい音がしたので肩の激痛に顔をゆがめながらも、ざまあみろ、と
燐は笑う。笑わなければ気絶しそうなほどだった。グールは肘で顔を衝かれて目を回したようだが、それ以上にぺっと噛み切った肩の肉片を忌々しそうに吐き出した。
赤黒い血が雪に染み込んでいく。傷口に残っていた聖銀が不快だったようだ。そうでなければ肩を食いちぎられていたかもしれない。
燐は、滑って震える足を叱咤して立ち上がり、走る。炎も充分に出せない武器もない肩の傷と寒さと空腹と渇きで碌に戦えない状態の体では、中級のグールは素で倒せない。
逃げるしかなかった。情けないが、逃亡っていうのも時には必要だよ、といつも悪魔に向かって突進していく燐を咎める雪男の言葉をぼうっと思い出しつつ走る。
しかし、弱った体で狼の脚から逃げられるわけもなく、再び仰向けに押さえつけられた。胸にくさった爪が食い込む。離せ!と叫んで脚を殴るも今度はびくともしなかった。
殴るたびにグールの骨も折れているはずなのに、そんな傷どうでもいいそんなことよりおまえを喰いたい、という欲望に狂う黄色い目がひたすらこれから行う残虐な行為を思い描き、
悦に染まっていた。
「いや…やめて…」
がたがた、と体が寒さではない確かな恐怖で震えた。恐くて震えるなんて初めてだったかもしれない。やめて、と懇願する自分の声が知らない女のもののようだった。
黄色く濁った目玉の中に映る燐の姿もただただ恐怖に震えるうさぎのように、哀れであった。
「やめて、お願い、やめて」
ぼたり、と涎が頬に落ちる。
その哀れな悲鳴と顔は不快だ、下さえあればいいのだから。頭は食いちぎってやろうではないか。
無慈悲な悪魔の声が落ちる。
あん、と開けられた巨大な口の牙には死肉の破片が挟まっていて、気絶しそうなほどの腐臭であった。
その口が燐の頭に覆いかぶさる。
ぐ、っと顎に力が入りみしりと頭蓋骨が悲鳴を上げた。
ぼたり。
しかし、白の雪の上に落ちたのは狼の首だけであった。
ぬいぐるみの首がとれたかのように、胴体から離れたそれは、ころん、と転がってもともと死骸の体なのだから、血が吹き出ることもなく。ただ飛び出した目玉を一瞬の悦楽に染めたまま、
首だけが転がっていた。
開けた視界で確認したそれを見て、わけがわからず、目線を上げると、首をなくしておろおろと彷徨う体の胸に、穴が開いた。ぶしゅり、と正確に悪魔の心臓を打ち抜いたそれは鋭い悪魔の爪を持った、白い手で。
どさり、とそのまま横に投げ捨てられたことによって現れたのは、酷く顔を歪め目元に暗い影を落としたメフィストだった。
「…め、」
メフィスト、と呼ぶはずが震える口では上手く形を成すこともできず、見上げるしかできなかった。
暗い影の中にある緑の目がぎょろりと転がり悶え打つ肢体を睨む。そこには殺意などと表現するには生易しいほどの無慈悲な暗い闇があった。無言で悶える肢体に近づき、
目の前でまだ手に掴んでいた悪魔の心臓を握ると、肢体は一瞬びくりを震えたが絶命するにはまだ足りないらしい。じわり、と今度は爪を立て、今度こそリンゴのように握り砕く。
肢体は動かなくなった。
「………」
そうなるとすぐにメフィストはその存在を忘れたかのように視線を外すと、痛みとショックで立ち上がれず未だ雪の中で倒れている燐の横で膝をついてその冷え切った体を起こす。
先ほどまで目の中にあった無慈悲な悪魔の闇は消えていて、ぎゅ、っと歪んだ目元が今にも泣き出しそうで燐は何故か少しおかしかった。
なんだよ来るの遅いじゃん。
と明るく言おうと思ったのだが、口がわずかに開いただけで言葉にはならなかった。
「いいんですよ、無理に話さなくて、笑わなくて、燐…」
冷たい手がさらに冷たくなった燐の頬を撫でる。その感触にほうっと息を吐いた。ぎゅうっといつか一度だけされたように、抱きしめられる。
「こんなに冷えて…痩せてしまって…もう大丈夫ですからね、もう大丈夫…ああもう本当にあなたは…」
ごめんな、というつもりだったがそれも声には出なかった。代わりにメフィストの肩に腕を回して抱きしめ返す。
あったかい。
涙が出るほど温かくて優しい腕の中にまたいることができるのが、嬉しくて、どこかまだ信じられなかった。
傷を早くなんとかしないと、とか、他に痛むところは、とか色々聞いてきた気がするがあまり頭には入ってこなかった。答えられていたのかもわからない。
そのまま横抱きにされて運ばれるところはなんとかわかって、
もう一度、息を吐く。胸に顔を埋めれば恋しかった香水の香がした。
「…あいたかった」
なんとか搾り出せた言葉に、メフィストが一瞬息を詰める気配がしたが、
「ええ、私もですよ」
と返されてなんだかこっちが夢みたいだ、と燐は思った。
あったかい。
涙が出るほど温かくて優しい腕の中にまたいることができるのが、嬉しくて、どこかまだ信じられない。
2012.7.16