『燐、こんなところで寝ていたら風邪を引きますよ』
ソファで眠ってしまっていた燐を起こそうと肩に触れたら、寝ぼけていた燐が心底溶けた艶やかな笑みを浮かべて、
『メフィスト』
と、白い腕を首に絡めてくる。その時、燐から放たれる香がイチゴのような甘い、金木犀のような咽かえるほど艶やかな芳香、または水仙のようなきりっとした涼やかな香。
そんな何かわからないごちゃ混ぜになったような不思議な香。
ああ、また入浴剤を勝手に混ぜたのか、とぼんやり考えつつ気がついたら燐の額に自分の額を合わせるように顔を近づけていて、
燐の美しいサファイヤのような瞳が零れそうなほど潤んで真っ直ぐ自分を見つめていた。
『……燐…』
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「のわああああああ!!!!」
ちゅんちゅん。
スズメのさえずる実に爽やかな朝。メフィストは己の絶叫で目を覚ました。幸い部屋は完全防音なので隣の部屋にも響くことはないが、
思わず今の悲鳴を誰かに聞かれたのではないかときょろきょろと挙動不審になってしまう。しかし誰も駆けつけてはこないのでメフィストはほっと胸を撫で下ろした。
そしてピンクのふっかふかの布団に突っ伏してしまう。
なんだ今の夢は。
いやなんだじゃない。これは以前あった寝ぼけた燐が自分の首に腕を回してきてちょっと焦っただけのこと。あっれでもあれの直後って自分はどうしてたんだ、と
メフィストは夢で蘇えってきたことを思い返してみたがどうにもあやふやであった。それは夢があやふやなのかそれとも実際のあの時の記憶があやふやなのか。
どっちにしろ何かとてつもなく恐ろしいことであるような気がして、とりあえず布団から抜け出し、部屋に備え付けの洗面所の冷たい水でざばざばと顔を洗いピンクの水玉のタオルで
顔を拭きながら、メフィストは、はあああ、とため息を吐き出し、
「…どんな顔して燐に会えばいいんだ…」
独りごちた。
そんな都合よく昨夜の記憶が消えてくれるものか。もちろんばっちりしっかり覚えているに決まっているだろう。
いくら飯食ったって頭をシャットダウンしたって覚えているものは覚えているのだ。燐の素っ裸を。あああ思い出すな自分!とメフィストは名誉騎士になったとき便宜上覚えただけの聖書の中身を心の中でそらんじた。
声に出していないとはいえ聖書読む悪魔など前代未聞だろうが、とにかくメフィストは己の中の記憶を思い出すまいと必死だったのである。悪魔なのに、煩悩よ消えろ!
とひたすら聖書を胸中でそらんじながらメフィストはとりあえず昨夜浴び損ねたシャワーを浴びにいったのである。無論、昨夜の事件があったバスルームとは違うゲスト用のバスルームをわざわざ使用したのは言うまでもない。
そろそろ、と朝食が用意されているだろうキッチンへと向かう。やっぱり朝食のいい匂いがした。今日は日曜日だがメフィストは当然のように仕事があるので、
朝も早い。ちなみに燐は学校も塾の講師の仕事も休みだ。朝は苦手なはずの燐だがメフィストの都合に合わせてこうして朝食を用意してくれている。ほんとになんてできた娘だ。
でも今朝ぐらいはさぼっていてくれても、よかったかもしれない。とメフィストはほんのちょっぴり思うのだった。
テーブルの上にはできたてのフレンチトーストとルッコラ、ラディッシュ、レタスのサラダとキャベツとベーコンのコンソメスープがきちんと並べられていた。
もちろん出来立てで湯気を上げている。うわあ今朝もおいしそう、と思いつつもおそるおそる席につけばやっぱり自分の分のおかずを持って燐がキッチンの奥から現れた。
「…おー…おはよう、メフィスト…」
「…おはようございます…」
すでに着替えは済ませてあるが、長い髪がぴんぴんと跳ねている。そして眠そうに瞼をこすっていた。
やはり昨夜のことを気にしている様子ではない。
まあ気にするなと言ったのは燐だったし今現在気にしている様子もないんだからやっぱり気にしすぎているのは自分だけであろうか。メフィストは燐に気取られない程度に、じ、っと
燐を見つめつつ淹れたての紅茶を喉に流した。そもそも何故自分は未だ昨夜のことがこんなに気になるのか。本人はもういいと言っているというのに。
今朝メフィストを起こしてくれた夢といい…なんか燐に過剰反応しすぎではないだろうか、とメフィストは、いただきます、と燐と共に手を合わせてぽりぽりとサラダをかじりながら考えていた。
が、やはり燐はメフィストを意識するわけでもなくもくもくと朝食を口に運んでいる。いつも朝から騒がしい燐なのだが、今朝はほんとに眠いのか寝起きが最悪だったのか、
一言も何かいうことなく無言で食べ進めていた。
…何か話すべきなのか。
そう思うのだが、さっぱり何を話せばいいのか思いつかない。メフィスト好みに味付けられているはずの甘いフレンチトーストの味さえなんだか曖昧である。
「ふわぁ〜…燐、兄上、オハヨウゴザイマス」
そんな妙な沈黙が漂う朝の食卓に、呑気にあくびをしながら現れたのはアマイモンであった。ぼりぼり後頭部をかきながら眠そうに目をこすり「昨夜はよく眠れました」と言う。
落ちたのをよく眠れたと勘違いするとは。わかってはいたがある意味燐以上に図太い弟である。おうおはようアマイモン、と燐はむすっとしていた顔を一転。笑顔で返事をしてアマイモンの分のフレンチトーストを
差し出した。あれ、アマイモンには怒らないのか?と若干不審に思う。当のアマイモンはさっそくフレンチトーストを一口で食うと「もう一個欲しいです」と燐にオネダリをしていた。
「…ところで、燐。昨日のことなんですが、」
「ぐっは!」
弟の発言に思わず飲みかけていたコンソメスープが変なところに入って咽こんだ。
「おい、メフィスト大丈夫かよ!?」
「ええ、すみません、ごふん、げふん」
燐の出してくれたタオルでとりあえず口元を拭いていれば、兄上キタナイですよ、といいやがる。誰のせいだと思っている。昨夜のこと含め全部。とうとう拳がぶるぶる震えるのを止められずにいるけれど、アマイモンは平然と続けた。
「あ、それで、昨日----------」
「うわああああああ!!」
「…兄上、ウルサイ。燐昨日の----------」
「ぎゃああああああ!!」
「メフィストうっさい!!」
ばしん!と濡れたタオルを投げられて一瞬黙った。
「で、なんだよ昨日?」
「ええ、昨日の、今日はおやつにホットケーキ作ってくれるっていう約束ですけど」
「…は?」
べちゃべちゃのタオルを顔からのけながらメフィストは間抜けな声を上げた。なんだ昨日といっても昨日の事件の話ではないらしい。
ほっと胸を撫で下ろす。どうやら落ちてしまったせいか興味がなくなったせいかアマイモンはすっかり忘れているようだ。そうだ忘れてくれ。
自分も忘れよう、と朝食を片付けながら思っていると、燐は、あそうかーそんな約束したよなー、と思い出しように最後のサラダをぽりぽりかじっている。
「えー忘れてたんですか!?」
あっという間に朝食とフレンチトーストおかわり含め合計10枚分も食い終えたアマイモンは片付けを始める燐に纏わり憑いて、ぶーぶー、と唇を尖らせていた。
「あーいや忘れてたわけじゃないんだけど…わりぃ、今日は雪男と出かけるから。3時までに帰ってこれるかなあーって思って」
「兄の僕より人間の弟との約束を優先するんですね」
無表情だが明らかに不機嫌オーラを醸し出してさりげなく燐の腰に手を回し、食器を片付ける燐の背中にそのまま張り付く姿を見て、メフィストはぴきっと血管が切れそうになったような気分であった。
…なんだろう。アマイモンはあんなふうにスキンシップをするやつだったろうか、と同時に疑問に思う。自分に対しては決してなかったはず。あったら気色悪いだけだし。
しかし二年前からここに入り浸っているとはいえ、燐に対してあんな風にひっつく姿は…最近になって増えてきたような。
そういえば、昨夜。
メフィストは自ら忘れようと今まさに誓ったことを思い出す。昨夜、アマイモンは燐のことに興味を持っていたが、燐に対してああいう興味を持つ奴だったか?…おっぱいとかお尻とか…パンツとか。
「燐、あなた今日奥村先生と出かけるんですか?」
アマイモンの昨夜からの言動に疑問を抱きつつも、メフィストはそういえば燐に今日の予定を聞いていなかった。
今うっかり思い出してしまったことを振り払うためにカラになった食器を持って燐の手元に置いた。燐はスポンジを泡で一杯にしながら食器を洗う。まだアマイモンは燐の背中にひっついてホットケーキをおねだりをしていたので、
とりあえず、すぱん!と後頭部を叩いておいた。しぶしぶ離れるアマイモンを見て、やっぱり最近こいつおかしいかもしれない、けれど何がおかしいんだ、と思い至る。
「あれ、言ってなかったっけ、っていうかおまえがドレス選びするのにお互い日にちあわねーから雪男と行ってこいって言ったんだろ?」
「あー…!」
言われて思い出す。
最近仕事が忙しくて忘れかけていたのだが、そういえば数週間前、2月半ばに開催されるとある舞踏会に燐も一緒に行くことにしたからそれ用のドレスを購入しなくては、と話していたばかりだった。
しかし不幸なことにお互い都合が合いそうもなく。燐の双子の弟奥村雪男と選んできなさい、と言っていたのだった。
「…本当なら私が選んだあげたかったんですけどねえ…」
洗われた食器を拭きながらメフィストはあからさまにがっかり肩を落とした。触覚までへにゃんとくたびれたのは気のせいではあるまい。
「仕方ねーだろ、予定あわねーんだし」
「ええ、ですが…あなたに似合うのをぜひとも私が選びたかったんですけどねえ…」
「大丈夫だって。それにドレス一緒に選ぶのもなんか恥ずかしいし、雪男で丁度いいよ」
恥ずかしい。何故恥ずかしいのか。と問おうとしたがその前に燐はさっさと食器を片付け終わると、まだテーブルに突っ伏して拗ねているアマイモンの頭を撫でる。
「3時までには帰ってくるからホットケーキは絶対作ってやる」と囁けば無表情ながらあっという間に機嫌の直る現金なアマイモンである。
「素敵なドレスを選びなさい。奥村先生にも事前に頼みますとメール送っておきますから。ああそれとこのカード持っていきなさい」
とメフィストは燐に真っ黒なカードを渡す。燐はなにこの黒いカードと首をかしげるが、どんな値段のドレスでも買える魔法のカードですその他必要だと思ったものもこれで買いなさい、とだけ説明しておく。
「わかったよー。なんだよただのドレス選びで大げさだなー」
「いえ、ですからそんなただの舞踏会でもないですし」
そういいかけるが燐は気にかけることもなく、ぴんぴん跳ねている髪を玄関の鏡で簡単にブラシを通し始めた。滑らかな黒髪はそれだけでも撫で付けられるが、相変わらずの大雑把なのでがしがしと乱暴に髪をとかしている姿はいただけない。
「私がやりますよ、そんなやり方では髪が痛むでしょう?」
思わずブラシを取り上げようとしたが、燐は反射的にそれを避けた。
「いい」
そして少し冷たく言い放つ。
「燐?」
「…3時までには帰る」
そうしてお気に入りの黒いショートブーツとこちらも黒いショート丈のトレンチコートを着ててそのままメフィストを振り返ることなく出て行ってしまった。
2月に入った外から流れ込んでくる風は冷たい。寒い。
なんだかすごく寒かった。
そして数時間後。
奥村雪男は困り果てていた。時々自分をちらっと見て、くすくす、笑う女の子や店員さんの視線が痛い。超痛い。いっそ寒い。まだ2月だからではあるまい。
絶対あるまい。何故自分は今ここにいるのか。何故なら姉である燐の買い物に付き合っているからだ。久しぶりの姉とのデート(?)。昨日からわくわくどきどきしていたなんて、
口が裂けてもいえないが気分は朝から浮かれていて、予定が詰まって結局一緒に行けなかった養父から恨みがましい視線を受けながらも意気揚々と寮を出てきて姉と会ったまではいい。いいのだが。
いきなりランジェリーショップに放置とはどういうプレイなんだろうか、姉さん。
くすくす、笑う女の子や店員さんの視線が痛い。超痛い。これが奥村雪男といういかにも真面目そうなイケメンだから「あら彼女の買い物に付き合わされているのかしら」と温かいような視線を浴びせられるだけで済むのだ。
普通の男子。例えばいかにもちゃらい塾生の志摩廉造であったのなら、あっという間に店員さんに追い出されるだろう。雪男だから追い出されないのだ。
たとえ今まさに下着を試着中の姉を所在無さ気に待っていたとしても。
「なあー雪男ー…この下着ってどうかな?ちっと地味?」
「ぎゃー!姉さんだから試着は見せてくれなくていいって言っただろう閉めろよカーテン閉めろよ!そういうことは店員さんに聞けよ!」
なんということか。姉の燐は何一つ恥じることなく試着室のカーテンを開け放つではないか。雪男は当然目を手で覆ったが、一瞬遅かった。
燐の豊満な胸を包む白いふわふわレースの下着を見てしまい、店員さん助けて!と思わず叫びそうになったのも無理はあるまい。
「大体なんで姉さんの下着選びに僕まで付き合わなきゃいけなんだよ!僕は外で待っているって言ったのに!」
「だーかーらーこう男がぐっとくる下着っていうのをぜひともモテモテの雪男くんに聞きたくてだな」
「そんなの知らないよ!好きな下着選べよ!大体なんでそんなに恥じらいないんだよ!弟とはいえ僕だって男だろう!?男の前で下着姿なんてさらしているんじゃない!」
「だーかーらー男だからこそ男の意見を聞きたくてだな。大体おまえいつもシュラにおっぱい押し付けられてるじゃん」
「あの女と姉さんのを一緒にしないで!姉さんはシュラさんみたいに恥じらいもクソもない女になっちゃいけないんだあああ!」
目をふさいだまま真っ赤になる男と恥らうことなく下着姿のまま言い合っている女。店員が見かねてやってくるのも無理はあるまい。お客様サイズはどうですか?と化粧の濃いいかにもベテラン臭漂うおばさんが下着のサイズを尋ねてくる。
雪男は助かったと胸を撫で下ろしていたが次に繰り広げられる会話に全力で逃げ出したかった。
「あらお客様、サイズ合ってないですわよ、もう少し大きいほうがほらバストがはみ出しているでしょう?D65ぐらいでよろしいかしら?」
「D?そんなにあったの?もうちっと小さいかと思ってたんだけど…」
「この柄のでしたらサイズがありますのでお持ちしますね。ほら、これですわ。こうしてここの…」
めくるめく男は知らない世界。そうか姉さんのサイズは…と頭が最早反射的に認識するまえに雪男はショップから逃げ出した。
ぐったり。
本番のドレス選びはこれからだというのに、雪男はすでに疲れ果てていた。
ようやくショップから出てきた燐はぐったりしている雪男を見てさすがに悪かったなあと思ったのか近くのスタバで二人分の飲み物を買ってきた。
雪男にはホットコーヒー。燐はあったかい抹茶ラテ。ありがとう姉さん、と虚ろな目をしてコーヒーを受け取る雪男は燐と意図せずだがお揃いの黒いショート丈のトレンチコートだった。
お揃いのコートを着てスタバのコーヒーを飲んで、正十字学園都市屈指の高級ショップが建ち並ぶテラスのベンチに腰掛けて。傍からみたら本当に恋人同士にしか見えない燐と雪男である。
しかもイケメンと美少女の。だが、
本人達そんなことを意識したことはない。
「ところで選んだ下着なんだけどさーこれいいと思う?」
「いや、だからいいよ見せなくて…」
懲りない姉に若干うんざりしつつ雪男は手で制したが、ちらっと袋から見えた下着は先ほど見てしまったものと同じ、ふわふわレースの白いものであった。
記憶から滅却!と香のいい苦いコーヒーを一気に飲み干す。燐はとりあえず下着は袋に戻したがまだ、うーん、と首をかしげていた。
「大体なんでそんなに下着にこだわるのさ…」
思えば待ち合わせで会ったときから燐の行動は変だった。ドレス選び最優先のはずなのに何故か気合を入れて「下着探すぞ!」と言われた時は度肝を抜かれたものだ。
現在進行形で抜かれているが。
「いや…なんてーか…ほら俺も大人の女にならなくっちゃなー…って思ったっていうか」
「…またフェレス卿のことでなんか思うところができたの?」
言い当てる雪男に燐はぶっと抹茶を噴出しそうになった。
「姉さんの様子がおかしいときって大体フェレス卿がらみだからね」
「………」
「もう今更なんだけどさ…本当にどうしてあんな人っていうか悪魔がいいんだよ。僕には永遠にわからないよ」
カップの淵に口をつけている燐の唇から頬まで赤くなったのは抹茶ラテが熱いせいではないだろう。
雪男が燐の好きな人(っていうか悪魔)が三歳で燐を引き取ったメフィスト・フェレスだと知ったのはもう二年も前である。
その頃、燐はメフィストを好きなんだという想いがとうとう無視できないほど大きくなってしまいかといって自覚するのも恐くてどうしたらいいか、と泣きながら雪男に相談してしまって、
当時の雪男は随分とショックを受けたものだ。何故よりによってあんな男を好きになるんだ姉さんはあいつは正真正銘の悪魔だ諦めなさい!と説得した雪男だったが、でもやっぱり好きなんだよおお、と泣き叫ぶ姉を見て、
無慈悲に言い続けることもできるわけがなく。それからちょこちょこ相談を受けつつ現在に至るわけだ。しかし現在持って何故姉があんな男を好きなのか雪男にはさっぱりわからない。
わからないのだが。
「…俺だって…よくわかんねーよ…」
でも好きなんだ。
このように健気に想い続ける姉を見捨てることもできるわけがなく。
カラになっただろうカップを手で弄ぶ燐からカップを受け取って、自分の分も一緒に近くのゴミ箱に捨てる。
あったかい飲み物がなくなって寒いのか燐はコートのポケットに手を突っ込んでいた。雪男もそのポケットにごく自然な動作で自分の左手も入れてくる。傍から見たら正に恋人同士のそれだが本人達にとってはただの姉弟の範囲でのスキンシップだった。
「…俺だって…何度も諦めようとしたけどさ…でもダメなんだ。告白するつもりもねーけど…」
「うん、わかってる何度も聞いてるよ」
何度も聞いてる姉の想いだが聞く度に弟の方が切なくなってしまう。
結局のところ燐が雪男に対して平気で下着姿を見せてくるのだって男としてはまったく意識してないからだ。
これがフェレス卿だったら決して見せないし恥じらいを持つだろうに。だからドレス選びという試着姿を見せなくてはならないことも、恥ずかしくてメフィストとは行けないから雪男一緒に
行ってくれ!とメフィストより先に雪男に頼んできたのは燐の方だった。まったく健気なものだ。
そして成就させるつもりもない恋をしている姉がもったいないなあと雪男は思う。
姉はかわいい。身内の贔屓目なしでもかなりかわいい女の子だ。寒風に吹かれて舞う髪は長くて艶がいいし、女の子としては身長170センチというのはかなり大きく目立つが、長い手足とのバランスもよくてモデルのようだし。
…全体的にスレンダーという印象なのにおっぱいも大きいわけで。でも外見だけじゃない。頭は弱くて粗暴なところは残念だが、飾り気のない性格は実は男にも好まれる。
料理上手なことを知っているやつも多い。
現に燐はけっこうモテているのだ。今現在臨時という形で祓魔塾の実習講師も務めているが、志摩廉造や自覚なしだが勝呂竜士に熱い視線を送られていたりする。
燐は鈍いのでまったくもって気付きもしていないが。
そして実は--------------
「きゃあああああ!!」
「ってうわあああ姉さんどうしたの急に!?」
珍しく女の子らしい悲鳴を上げて雪男に抱きついてくる燐。慌てて引き離そうとしたが、その悲鳴の原因をベンチの上に見つけてほっと息を吐く。
「なんだ毛虫じゃないか2月なのに毛虫って珍しいね……姉さんまだ毛虫恐いの?」
「ここここ恐いに決まってるだろおおおそんな毛むくじゃらの虫!どっか、どっかやってよ雪男おおおおお!!」
実は、男っぽい燐だが毛虫が恐いのである。
原因は覚醒するきっかけともなった三歳の頃。木の上から落ちてきたでっかい毛虫が未だにトラウマらしい。
「実習ではチューチの幼虫の群れにも平気で足突っ込んでいたくせに」
「あれは毛がないから違うの!!それは毛があるからダメなんだよおおおおいやああ気持ちわるいいいいい早くどっかやってよおおおお!!」
「はいはい…」
ポケットテッシュで掴んで近くの植木に置いておいた。燐はまだぷるぷる震えながら雪男に抱きついていて、そんなギャップが実はかわいいと弟にも周りの男にも思われいるなんて気付いてもいないだろう。
そんな実はかわいいところのたくさんある姉が望みのない恋をしている。弟として切なく思わずにはいられない。
「…えーっとそれで…メフィストのことは…告白するつもりもないし…でもせめてさ…ダンスぐらいはその…二人で踊れるの楽しみにしちゃってるんだよ、俺は」
ようやく落ち着いてとりあえず体は離し、ため息を吐いて再びポケットの中で手を握り合う。切なく吐き出された白い息は風にまかれて消えていった。
メフィストが燐を連れて参加するという舞踏会は2月の半ばに開催される。それに数週間前に誘われてからの燐の浮かれっぷりを見てきた雪男だ。
どうしようダンスなんて踊れないし雪男と父さん練習付き合って!とここ数週間の猛特訓にもつき合わされている実は。メフィストは自分が練習相手になりましょうか、と燐に言っていたらしいが燐曰く「本番で踊れるって思うだけもで死にそうなのに練習であれだろ、
体密着させてのダンスなんてできない!」ってことらしい。もちろんメフィストにはそんな本音は伝えずに「あんた仕事忙しいだろ。使い魔が練習相手になってくれるって言ったからいい」と嘘を言ったらしいけれど。
おかげでここ数週間、雪男と獅郎は練習相手になって散々足を踏まれるという苦行を味わったわけだけど、姉のために、かわいい娘のために、と足に絆創膏をはりながら耐える姿は修道士達の涙を誘ったとかどうとか。
けれどその苦難もあってか大分上達したように思う。もともと運動神経もよくて器用な燐だ。とりあえず恥じることのないぐらい基本は叩き込んだつもりだが。
「そうえいば聞き損ねてたけど、その参加するっていう舞踏会はどういうのなの?」
「なんか、ウィーンってとこのオペラ座舞踏会だってさ」
「……えええええええええ!!」
思わずでかい声が出てしまう。
ウィーンオペラ座、所謂、ウィーン国立歌劇場で開催されるオペラ座舞踏会といえば社交界の最高峰とされウィーンで最も有名で格式の高い舞踏会ではないか。
え、なにそんなすごいのにこの姉が参加するのかフェレス卿と踊るのか!?フェレス卿は一体いくつ事業を手がけているのか見当がつかないぐらいの実業家の顔もあるためそこまで格式の高い舞踏会に呼ばれるのは不思議なことではないかもしれないが、
つい数週間前までダンスもできなかった姉がそれに参加するというのか。いきなりハードルが高すぎないか!?
しかもこの姉どんだけすごい舞踏会に出ることになってるのかさっぱりわかってないに違いない!
雪男は寒いというのになんだか変な汗をかいていた。これは責任重大だ。どおりでフェレス卿からもわざわざメールで「燐が恥じることのないようなドレスを選びなさい!」と送ってくるわけだ。
そしてどうして同じ女の子のしえみさんや神木さんや一応女のシュラさんではなかったのかということもわかった、と雪男は納得する。ドレスは見た目の華やかさももちろん必要だが、格式の高いものであればあるほどドレスコードと呼ばれる服装の規定がある。
知識がなければいけないのだ。そうかだから僕か。と雪男は己の責任のでかさをようやく自覚して少し途方に暮れつつも、さすがは天才と謳われるだけのことはある。素早くアイパットを取り出してものの数秒でどんなドレスがふさわしいのか調べあげてしまう。
「よし、姉さん行くよ!」
「へ、お、おう!?」
ぐったりから打って変わり。妙な気合を入れて燐の手を引く雪男に引っ張られながら、最高級のドレスショップで散々試着を繰り返し、
結局屋敷に戻れたのがアマイモンとの約束の時間ぎりぎりであった。
「…ちょっと派手すぎねえ、かな…」
いかにも高級そうな箱に入れられたドレスを見て、燐は、ぽっと頬を赤く染めた。リビングのテーブルでは時間ギリギリだったが約束通りホットケーキを作ってもらってご満悦のアマイモンだけがいる。
メフィストはまだ仕事だ。
燐と雪男が選んだドレスは真っ白で胸元とふわふわの白いスカート部分には燐にはよくわからない金色に輝く小さな宝石と金糸の刺繍が施されている。まるで白い空に浮かぶ天の川みたいだ。
そして当然のように肩と背中の部分はない。うわこれ肩と背中丸見えだぞ…と思ったが基本ロングドレスというのはこういうものらしい。
ヘアアクセサリーはいいのかと雪男に言われたがもともと去年の誕生日にメフィストからもらったものを使うつもりだからいいと言った。
しかしこのドレス、なんか見てるだけでむずむずするな…とぼうっと眺めていると。
「おや白いドレスにしたんですか?」
ひょい、と後ろからメフィストに覗き込まれて、ぎゃあ!と悲鳴を上げてしまう。いつの間に帰ってきていたのか、と文句を言えば、ただいまといったのに聞こえなかったんですかと言われた。まったく聞こえなかった。
「ほう、なかなか美しいのを選びましたね。さすがは奥村先生だ」
当然、ドレスなんてどれを選べばいいのかさっぱりだった燐に代わり、雪男がアイパットで調べまくって恥じないような燐に似合う相応しいドレスを選んだ。
ドレスコード規定にも反していない。だが、メフィストには思うところがある。
「てっきり青いドレスを選んでくるかと思ったのですが」
「あー…確かに最初は雪男もそういうの選ぼうとしたけどさ…ほら、わざわざこういう時まで青くなくてもいーじゃん…気分のよくねー奴も出てくるだろうし」
苦く笑う燐にメフィストはため息を吐く。
「今回のことは祓魔師のこととは一切関係ないですよ」
「でも俺がいやなの」
がさつで一見無神経そうにも見える燐だが、その実、他人のことを思い遣れる子である。そしてもうこの話しはお終いと言わんばかりにドレスを片付ける。
「え、着てみせてくれないんですか?」
「…いいだろ別に…当日着るんだしその時見れば…」
そういって背中を向けて箱を仕舞う燐は耳まで赤かった。その姿を見てメフィストはいつもの優越感を覚えると同時に少し複雑な気持ちにもなる。
「…ところで…ダンスの練習はしたけど俺それ以外のことなんてさっぱりわかんねーからな」
アマイモンがリビングでホットケーキをおかわりをねだる声を聞いて燐はエプロンを身につけ、ぱたぱたとキッチンへ向かった。
「ええ、そこはご心配なく私がエスコートして差し上げますから」
マントを脱いで使い魔に渡してから自分も燐のおやつにありつこうとキッチンまで追う。すでにフライパンにホットケーキを広げて焼き始めている燐は、やっぱり普段は真っ白な耳やら頬を赤くしながら、うん、とそっけなく頷いた。
でも13年も育ててきたのだからそっけなくみえてにじみ出る嬉しさを察せないメフィストではない。
その姿を見て、メフィストはいつもの優越感を覚えると同時に少し複雑な気持ちにもなるのだった。
言葉にしたわけではなかったのに、丸いホットケーキは当然のようにメフィストの分も焼き上げられていた。
卵白だけで作った新作だと自慢げに出されたそれは、ふわふわ真っ白でとてもおいしかった。
2012.6.17