『燐の髪はきれいなんですから、伸ばせばもっときれいになると思うんですけどね』
メフィストにとっては何気ない一言だっただろう。小さい頃は短かった燐の髪を櫛で毎朝梳いてくれるのが習慣で、
何気ないその一言を投げかけられた日から髪を伸ばしていた。メフィストの言った通り、伸ばせば燐の青い黒髪は艶がよく輝いて、
メフィストは褒めてくれたのだ。ともてキレイですねきらきらしていて、お姫様みたいですよ、と。そんなことを言われたのがまだ中学に上がる前で。
じゃあ俺メフィストのお姫様だな!と震える幼い心を隠して明るく笑えば、そうですね私のお姫様ですね、と言ってもらえたのが嬉しかった。
いつの間にか、髪に触れられるととても恥ずかしくなるようになって、幼い頃にはなかった意識を覚えるようになって。でもメフィストは燐がいくつになっても、
昔のように髪に触れてこようとする。あの日の翌日だってそうだった。本当はちょっとだけ意識してもらえたらいいのにって思っていたけど、平気で
「私がやりますよ、そんなやり方では髪が痛むでしょう?」と髪に触れてこようとした。ほらやっぱり、とどこかで思っていた。やっぱり「女」として意識なんてされてない。
いつまで経っても自分はメフィストの「小さなお姫様」だ。
でも今夜でそれが少しだけ変ればいい、と願っていたのも事実だった。
「…すっごい」
文字通り、開いた口が塞がらない。
鍵を使ってどこへ出たかというと、いきなり歌劇場内に入っていたところを考えると、歌劇場の扉へ繋いだに違いない。
無限の鍵恐るべし。と妙な戦慄を感じていた燐だがそれも目の前に広がる光景に小さな牙のある口をあけてしまった。
歌劇場の中はそれはもう別世界だった。
白い大理石の重厚な柱がアーチのようにいくつも続き、天井を仰げば燐にはよく価値はわからないがそれでもキレイだと思えるほど、ふくよかな女性を取り囲んで天使の舞う絵がいくつも描かれている。
小さい頃メフィストが読んでくれた絵のきれいな絵本に出てくるような、ふっくらした体で白い翼を持った天使達。
本当に天井を飛んでるみたい、と燐は思った。その繊細な装飾と絵画の埋め込まれた天井からは数メートル間隔でシャンデリアが吊り下げられていた。
硝子の台に多くの丸い電球が埋め込まれていて、それは飴色の光を放ち白い大理石の空間をまるで暗闇が落ちる少し前の夕日の空のように染めていて、見知らぬ空間なのにどこかノスタルジックだった。
壁は繊細な装飾が施され、豪華にかつほっそりと優美な金色のラインで飾られていた。壁の模様ひとつひとつ、柱のひとつひとつに細やかすぎる金の装飾。
くるくる丸い蔦のように壁や柱に絡み付いている。
壁にもやっぱり天使達の絵や彫像が飾られていた。
人の彫像もいくつか並んで立っていて、メフィストは燐をエスコートしながら、あの彫像はどこどこのいつの時代の音楽家で、と説明してくれていたが燐はひとつも覚えられなかった。
メフィストの屋敷も大概豪華だが、当然あの屋敷には持ち得ない、長い歴史と芸術家達の苦悩が生み出す美しい艶やかさに価値もつけられないほどの重み。それらがこの空間には詰まっている。
「コラ、お口を閉じなさい」
「あ、うん!」
言われてずっと口をあけっぱなしだったと気付いて慌てて、引き締める。
そうして深い緑色の絨毯の敷かれた正面階段を昇っていく。
ドレスの裾を踏まないようヒールでかっくんとこけないように努めていた。
ダンスの練習の時ヒールを履いていたから、多少は大丈夫だけどそれでも初めてすぎる豪華絢爛な空間に怯えているのか、どこか不安定だ。
しかしそんな燐をメフィストの腕がしっかり支えてくれている。添えるだけでいいと言われた手にも少し力が入ってしまうが、メフィストは咎めなかった。
深い緑の絨毯の上を歩き、途中、スタッフらしいやっぱり燕尾服を着たいかにもドイツ系の外国人の男とすれ違ったが、深くお辞儀をされただけだった。
受付とかいいの?と聞けば、必要ないです、と答えられた。顔パスというやつか。初めて見た。
そうしてすでに出入り口付近でも足元がふわふわしている心地だった燐だが、メフィストに導かれるままボックス席に入った。ボックス席の入口にはミラーとコート掛けがあったが、
二人とも派織物はない。
鍵を使っての移動なので肩がむき出しでも寒い思いは一切しなかった。ボックス席の中はワインレッドのソファがひとつ置いてあって、大きさからして二人用のようだ。
「本当は6人席なんですけどね、せっかく燐と二人で来ているのでボックス席一つ貸しきっちゃいました☆」
ということは6人席を全部買取ったということか。その無駄すぎる金の使い方に呆れるのも今更なのだが、自分はなんとか一般的な金銭感覚を身につけられててよかったと安堵もする(三歳まで貧乏修道院で育っていたし、
子どもの頃は何故かお小遣い2000円だったおかげだろうか)。
でも本音、メフィストと二人だけのボックス席は嬉しかった。恥ずかしいとも思ったが。
促されるままにワインレッドのソファに座る。ふかふかで隣にメフィストも座れば、ぐん、と沈んだ。うわわ、距離近い、と燐は内心慌てていた。
誤魔化すようにボックス席からようやっと舞台空間を見てみれば、
「うわー…」
思わず声を上げてしまいやっぱりお口がぽかんと開いた。
多くのボックス席は3階分まで壮麗に続いている。すごい迫力なのに優美な光景だ。すでに客も一杯だった。
ざわざわと話し声が響きやすい開け放たれた中央部分。天井には大きな丸いシャンデリアが。……なんかドーナッツの形みたい、と燐は小学生のような例えを思い浮かべていた。
そのシャンデリアからも壁に設置されている照明からも、廊下のものよりも明るい柔らかな飴色で、舞台空間を照らし出していた。
「あそこの席が舞台の中央に面する最も高額で音が美しく聞こえる席です」
メフィストが指差した方は、二人のいるボックス席よりひとつ上。二階部分にある大きな赤いボックス席だった。
「あそこにはしなかったの?」
「しようと思ったのですが、あのボックス席は約40席ほどありますし…今日の舞踏会は特別ですから国の偉い方々もあそこに座るのでね。さすがに貸しきりは」
こいつにも遠慮というものがあったのか、と少々失礼なことを思いつつ、確かにどれだけいい音が聞けてもメフィストと二人だけのこっちの席の方がいいなとも思ってしまう。
二人がいるボックス席は1階部分の割と正面に当たる場所で、舞台が見やすかった。演劇も充分に堪能できるだろうが、今日はそれを見にきたわけではない。
メフィストがいうには、普段は舞台を見るために1階には立見席もあるのだが、今日だけは舞踏会のためにダンス会場として改装されているのだそうだ。
「ほら、来ましたよ」
しばらく待っていると、重厚で白い正面の扉から、白いイブニングドレスに身を包んだ若い女性とやっぱり燕尾服を着た若い男性達がペアになって何人も入ってきた。
彼女らはデビュタントといってこの舞踏会で社交界デビューするためにワルツを披露する女性達です、とメフィストが説明していた。
「社交界デビューってそんなに大事なの?」
「キリスト教国の上流階級や貴族の娘達にとっては大事な儀式みたいなものですよ。18歳で大人のレディと認められ、
恋愛結婚対象になったとして社交界にデビューさせます。もちろんこのような格式の高い舞踏会以外でもデビューはできるんですが、この場は彼女らの憧れでもあります。
デビュタントは日本ではあまり馴染んでいないことなので…うーん、日本でいう成人式…みたいなものですかね?」
「ふーん…」
自分には関係ない世界の話とばかりに会場を見つめる燐に、メフィストは苦笑した。
「あなたも今夜デビューみたいなものですね☆」
「ええなんで!?俺まだ16歳だぞ?」
「日本ではまだ未成年ですけど法律的には16歳で結婚できますし、今夜が初めての社交界でのダンスでしょう」
結婚。社交界デビュー。なんだか自分には縁のない遠い話しだと思っていただけに、メフィストの口から聞かされて燐は驚いた。
でもそういえばメフィストはもともと社交界を学ばせる目的で燐をここへ連れてきているのである。なるほど。キリスト教国での習慣なら学んでおいて損はないかもしれない、
というかいくら祓魔師として活躍しつつある燐でも未だヴァチカンでの立場は危うい。自由に動けるうちに色々学ばせて、いきなりヴァチカンに呼び出されたり
何かしら試されたりするようなことがあっても、恥じないように、自分の立場を悪くしないように振舞えるに越したことはないだろう。そのためには実際にその国のイベントや人々、社交の場を知っていて損はないのだ。
むしろ燐の身を守る何かに役立つかもしれない。
俺のためっていうのは…わかるんだけど。
それでも燐は複雑だ。そういう目的とかなしで、誘ってもらえたのなら、もっと幸せだったかもしれない。うわ俺って贅沢、とソファに腰掛ながら会場で優雅に初々しく踊る白い女の子達を眺めていた。
オーケストラの奏でる滑らかで上品な曲に合わせて。時々つまづきかけている人もいた。なんだかハラハラした。デビュタントたちのお披露目が終われば次はふわふわの白いチュチュを着たバレリーナ達のバレエが披露された。
まるで蝶々のように鳥のように猫のように軽く柔らかく上品にしなやかに、宙を舞って踊る彼女達も、自分とはまるで別の世界の人達に見えた。年はそう変らないだろうに。
演技力抜群の瑞々しい微笑みを浮かべる女の子達は、それはそれで苦労して努力してこの場で踊っているのだろう。でも燐には彼女達が少し羨ましく見えた。
同じ白いドレスに身を包んでいるのに、自分と違って普通の女の子として生きているからだ。
バレエまで見終わってしまえば、その間ずっとメフィストの腕に手を添えたままだったと気付き、急に恥ずかしくなり手を離そうとしたが、メフィストはそのままにさせて、さあ行きましょうか、とボックス席を出た。
「これからが一般客のダンスの時間です。朝の6時まで踊り明かせますし、色んな曲が流れますから好きな時に踊ればいいんですよ」
いよいよか、と思わず唾を飲み込んだ燐を安心させるように軽く添えられた手を撫でる。
飴色の照明が落ちた燐は、まるで一枚の絵画に描かれた少女のようだった。
メフィストの腕に添えられている指先の爪にはホワイトパールのネイルが施されていて、その爪が不安そうに袖を掴んでいる。でもシワにならないよう気を使っているようで、
メフィストはそっともう一度その手を撫でた。
1階の会場に出れば皆が皆、それはもう派手で煌びやかなドレスに身を包み、高価そうなアクセサリーで着飾って美しくメイクを施して。
燕尾服を着た男性にエスコートされすでに踊りだしていた。流れている曲は、燐は知らないものだった。もともとクラシックとかは聞かない燐なのでその方面の音楽はさっぱりだ。
ちょっと恐い、でもメフィストがいるし。
ようやく力を込めていた指先を柔らかくした時だった。
「あら、ヨハン、お久しぶりね」
艶かしい女の声がメフィストの表向きの名前を呼んで、呼ばれた本人よりも燐の方が肩を跳ねさせるほどびっくりしてしまう。
「……おやおや、お久しぶりですね」
二人同時に努めてゆっくり振り返ればそこには、赤いロングドレスに身を包んだ釣り目黒髪の黒い肌の…なんともセクシーでアジアンビューティーな女性がいた。
隣にはアジアンビューティー女とは正反対なぐらい青白い顔をした髪の薄い茶髪の気弱そうな男性。女が30代半ばぐらいなのに対して男は初老ぐらいにみえた。
腕を組んでいるが、夫婦なのだろうか。
メフィストはそのアジアンビューティーの白い手袋をした手をとって、軽く手の甲に口付けた。燐の目の前で。これがただの挨拶だということぐらいすぐにわかったが、
何も俺の目の前でそんなことしなくていーじゃん!というわけのわからない怒りを覚える。だから女の名前など覚えてやらなかった。たとえメフィストがいかにも、
お久しぶり、というように…甘く女の名前を呼んでいたとしても。
「…ヨハン、このお嬢様は?」
一言二言、ありきたりな挨拶を交したあと、アジアン女は燐の存在に今気付きましたとばかりに、つり目の中の茶色い瞳を燐に向ける。
なんだか剣呑な鋭さがあるような気がするのは…気のせいじゃないと思う。
「ああ、私が後継人をしている子でして…ご挨拶なさい、燐」
「…燐、です」
ぶすっと答えてしまった。コラ、と小さくメフィストの咎める声が聞こえたが無視する。アジアン女はくっと不愉快そうにラメのつけすぎだろうというほどの派手な目元をゆがめて、
「躾けのなってないお嬢さんね」
と尊大に仰る。
「…申し訳ございません。この子、社交の場はこれが初めてでして。まだ16歳なので学ばせるのはこれからなんですよ」
「あら、ヨハン、何もあなたが責任を感じることじゃないわ。いくら躾けを施してもその子の人格というものがあるもの。でも、もう16歳ならこれからは少し厳しくしてあげたほうがいいわよ。
教育係がいるならそう指導しておきなさいね」
なんで初対面の女にここまで言われなければならない。燐は少し悔しくなってきちんと挨拶しておけばよかったかな、と思いはしたが、どんな挨拶をしてもこれはケチをつけてくるタイプの女だろう、と
同じ女としてのカンが働いた。世の中には燐が何をしたって燐のことを嫌う人間は山ほどいる。嫌う人の方が多いのだ。だから今更メフィストに馴れ馴れしくする女になんて好かれなくていい。
と妙な反抗心を持ってさりげなくアジアン女を睨みつけるが女はもう燐に視線を向けてはいなかった。色気のない燐にもわかる。こいつメフィストに色目使ってる。
でっかい胸をわざと寄せるようにメフィストに体を近づけて、こちらもドレスと同じく真っ赤な口紅を施した口が三日月のような形を描いて、微笑んでいる。
おいおい腕を組んでいる旦那よ何をしている嫁を止めないか、と思ったが旦那と思わしき初老の男は腕を組んでいるというのに所在無さ気に俯いていた。
最近会えなくて寂しかったわヨハン、などとふざけたことも抜かしている。ヨハンなんて馴れ馴れしく呼ぶんじゃない。
しかし対してメフィストもにこやかに答えているではないか。しかも燐の非礼を親のように代わりに謝り、
女の容姿や服やアクセサリーを褒めていた。主に容姿に関してはことさらに。
…なんだよ。
いよいよメフィストと踊れるって時に。しかもメフィストまでそんなに、微笑んで、明らかに性格ブスの女を褒めるなんて。
ここは「躾けのなっていない女の子」という特権みたいなものを生かして、もう行こうよ!と駄々をこねてメフィストの腕を引っ張っていくのもありか!?
名案とばかりにメフィストの腕を引こうとしたが、一歩早かったのはアジアン女だった。なんと旦那らしき男と腕を組んでいるというのに、あいている左腕をメフィストの右腕に絡ませてくるではないか。
うっかり青い炎を出してしまいそうになった。堪えたけど。
「ねえ、ヨハン、よければ少しお話したいわ。ビジネスに関しての大事なお話もあるし…」
ヘビのようにメフィストの腕を這う黒い肌の腕を、ばっちん!と叩いてやりたい衝動をなんとか抑える。
けれど、燐を衝撃に突き落としたのはメフィストの口から出た次のような言葉だった。
「…燐…すぐに終わりますから…少し向こうへ行っていなさい」
なんだよ。
むすっと頬袋を詰めたリスのように頬を膨らまして、人ごみの先を睨む。目の届くところにいなさい、と言われてしまったので未だ話し続けるメフィストとアジアン女がよく見えてしまって不快ったらありゃしなかった。
未だメフィストの腕に腕を絡ませたままで、あろうことか旦那はもう放置である。組む腕さえ解かれておろおろしている旦那が少し可哀想だった。
しかしそれ以上に燐のハラワタは煮えくり返っている。ぐつぐつと自分の内部で青い炎が燃えて、いつでもいいぜ!と待機しているみたいだった。いやいやいかん。いつでもいいわけないだろうが。
自分を落ち着かせるために深呼吸をして一回目を閉じてあけてみるも…やっぱりその光景は変らない。
メフィストもメフィストだ。なんでそんなに優しく微笑んで女に腕からませてるんだよ!
しかも自分を放っておいて。
ぶしゅ、と頬に溜めていた空気を吐き出せば、優しく微笑むメフィストの顔に、今度は悲しくなってきた。
自分に対してあんな風に女性を扱うように、紳士な笑みを浮かべてくれたことはあっただろうか。
さっきの紹介の時もそうだが、いつまで経っても子ども扱い。いやまだ16歳だから子どもなんだけど、そうじゃなくて。
今日ぐらい…大人のレディとして扱ったりこんな風に放置しないで気を使ったりしてくれてもいいのに。
仕事が大事なのもわかるけど。
そこまで考えて燐は自分が酷く醜い…それこそアジアン女と変らないほどの腹黒嫉妬女になってしまったみたいで、急に嫌悪感が込み上げてきた。
燐は自分に流れる悪魔の血がただの悪魔の血でないことは重々承知のつもりなので、負の感情に呑みこまれることに関しては人一倍敏感だった。
あっという間に支配される気がして恐いからだ。
会場に流れる曲はすでに何曲か演奏が終わっている。それでもメフィストはこちらを見てもくれなかった。
「……そうえいば…別にダンス一緒に踊ってくれるって約束してたわけじゃなかった…」
ぽつん、と漏れた言葉はぴかぴかに磨かれた大理石の床に落ちていく。
舞踏会に連れて行ってもらえるのだからてっきり一緒に踊ってくれるものと思い込んでいたし、メフィストも「ダンスの練習はしておいたほうがいいですよ」と言っていたから、
一緒に踊れるんだとずっと浮かれていたけど。
もともと社交の場を学ばせるためだったんだから、ダンスとか二の次なんだろうか。そればっかりが一番だった自分と違ってメフィストにとっては別に省略してもいいことの一つなんだろうか。
仕事の話と燐とのダンス。天秤にかけたらそっちに傾くのかよメフィスト。と声にだ出せずに胸中で問うも当然答えはない。
帰ろっかな…。
とも思うが鍵はメフィストが持っているので帰れない。
そんな、むなしくかなしい気分になりながら床を睨んでいる少女を見つけたのは、一人の青年だけだった。
「…見事なほど壁の花だな、サタンの娘」
「…げっ!!」
この尊大な話し方に人を見下す感じがにじみ出ている声は。
「…あんた、なんでここに!?」
燕尾服に身を包んでいつもの長い金髪は後ろでひとつに束ねているアーサー・O・エンジェルが、そこにいるではないか。
「なんだ俺がここにいてはおかしいか?俺から言わせれば貴様のような奴がこの場にいることこそ信じられないな。サタンの娘め。
会場を青い海にでもしにきたか、ん?」
「んなわけねーだろ。社会見学だよ社会見学!」
相変わらずの燐への嫌味にも腹は立ちこそすれもう慣れてしまっている。最初の頃、祓魔師になりたての頃こそこのエンジェルとは監視という名目で時々任務でペアを組まされていたが、
その度に「サタンの落胤め、足手まといならば置いていくぞ」と憎々しげに燐を睨み、本当に燐が遅れれば置いていってしまうような紳士な顔して鬼畜な野郎である。
そのせいで大怪我してとぼとぼ帰ってきたことも数知れず。怪我なんてすぐに治るので別段燐は気にしてなかったが、気に入らなかったのはメフィストのようで、それまでメフィストを悪魔として目の敵にしていたのはエンジェルだったのだが、
今ではメフィストまでエンジェルを目の敵にしている始末だ。
でも最近では、どんな状況にもめげない燐を多少は認めてきているのか、嫌味や態度は直ることはないが今でもたまに任務が同じになれば前よりは手助けしてくれるようになった。
あくまで以前と比べてということだが。
「あんたこそ、なんでこんなところにいるんだよ?」
「プライベートだ。久々に仕事のことは忘れてくるつもりだったが、貴様のせいでまるで仕事の延長線上のようになってしまったではないか。
祓魔すべき悪魔が目の前にいるとはな。カリバーンがいればいますぐ抜いていてもいいぐらいだ」
祓魔すべき悪魔とはもちろん燐のことである。腕を組んで口を端を上げる金髪男に、ふん、と鼻を鳴らしてやる。おまえなんかジジィがぎっくり腰にならなければ未だ四大騎士止まりのくせに、と思ったがなんとか口にするのは止めておいた。
何気に本人も気にしているそうなのだ。この天然で残念なイケメン(シュラ談)が気にしているというのなら、つっこまずにおいてやろうではないか、と燐はぐっと今一度言葉を飲み込む。
「へぇ〜プライベート…まさか彼女とかと一緒にか?」
ならば別のところでからかってやろう、とにやにやしながらエンジェルの反応を見るも、
「…いや彼女というか…フィアンセのような、ものだ」
ともっとワンランク上の単語を言われて、驚く。
「え!フィアンセ!?」
この男にそんな人がいるのか、と思ったが噂ではエンジェルはかなりの名家のおぼっちゃんのようなので、こういう話しがあってもおかしくはないのかもしれない。
上流階級恐るべし。
でも「ようなもの」って、と燐が首を傾げれば、エンジェルはなんとなく面倒くさそうに、赤いボックス席に座っている顔色の悪い女性に視線を向けていた。
メフィストが最も高額と言っていた席だ。そこには青白い顔をした体つきが細すぎるいかにも病弱そうな栗色の髪の女性がいて、細かな花柄のピンクのドレスを着ていたが、
あんまり楽しくなさそうだった。むしろ気分が悪そうだ。
「…さっきから気分が悪いといってダンスもせずにあのままだ」
「側にいてやらなくていいのかよ?」
「一人にしておいてくれと、言われたんだ」
なんだふられたのか、と思ったが、エンジェルは落ち込んでいるというより、どこか気難しそうに眉間にシワを寄せている。
そしてよほど憂鬱だったのか、普段のエンジェルならば絶対燐には話さないだろう「お家の事情」とかいうものをぽつぽつ話し始めた。
エンジェル曰く、
「もともとこの話にはお互い乗り気じゃなくてな。家同士が勝手に決めた。今夜の舞踏会の参加もそうだ。公にするつもりというか見せびらかすためというかなんというか…。
当然、乗り気じゃなかった相手もいい気分じゃないさ。体も弱いらしいし本当は別に想う男性がいるそうだ。俺だって紳士として女性を放っておくのもどうかと思ったが、
本人にいてほしくないと言われればどうしようもないだろう」
ということらしい。珍しくため息を吐き出していた。なんだかエンジェルらしくなかった。
そんな話をしている間に、ふと、ボックス席を見ればの青白い顔の女性は、もういなくなっていた。帰ったのだろう。エンジェルも、諦めたように組んでいた腕を組みなおして、遠い目でボックス席を見つめている。
「…なんつーか…あんたも大変なんだな…元気出せよ」
「…サタンの娘に慰められる日がくるとはな…」
ふっと口元にいつもの嫌味っぽいような天然っぽいような笑みは浮かべておらず、どこか寂しげなもので、燐はこいつにもこういう面がるのか、と不思議に思った。
メフィストも言っていたが人間って本当に多面性のあるものなのだ。自分も半分人間だけど。
「そういうおまえは、どうせあの気まぐれな悪魔に放置されてるんだろう?」
数秒前に「元気出せ」と言った自分の言葉を撤回したい…。
にやにやと顔だけはイケメン故、いやらしくないように見えてしまう嫌味な笑みを浮かべる視線の先には、未だにアジアン女と話し込むメフィストの姿があった。
そのメフィストとひとりぽつんと佇む燐。これだけで大体状況は把握したらしい。うっせほっとけ、と呻れば、ははは、と何が面白いのかまた笑う。
「まあ、あの女性はあれでも日本の事業に大きく関わるほどの実業家だしな。媚を売っておいて損はない。ただあまりいい噂は聞かないな。
婚姻しているのに常に別の男との噂が耐えない女だ。夫は名のある貴族の出自だが、今は落ちぶれているという話だ。所謂政略結婚だな。
おまけに婿養子だから頭が上がらないのさ。俺ならああいう女は遠慮したい」
どうせそんな噂のありそうな女だと思った。燐はまた頬を膨らませて談笑続行中のメフィストを睨みつける。
「っていうか、なんでそんな話、知ってるんだよ」
「こういう話や噂を覚えておいて損はない。というかむしろ知るべきだな。…例えば、あの白髪の男性だが」
さり気無く視線で促されて、そちらに目を向けてみれば白髪のシルクハットを被った清潔感のある男性が、顔の小さいいかにもモデルというほどスタイルのいい女性を連れていた。
エンジェルの話しによるとあの男性は有名な映画監督でいくつか映画のタイトルを教えてもらったが燐でも知っている映画ばかりだった。
そして、いつも連れてくる女性が変っているのだそうだ。エンジェル自身も他の舞踏会で見かけたことがあるらしい。
「今年の一月頭の会食で見かけたときは…確か自分が監督した映画で新人賞を取った若い女優。その前は噂では、」
とにかく次から次へと変えてきているらしく聞いているだけでうんざりしてくる。
燐のその様子を察したのかエンジェルはさも当たり前のことと言わんばかりに、その映画監督からメフィストに視線を移した。
「女をアクセサリーのようにしか考えていない男など、この世界には腐るほどいる。あの悪魔もその内の一人としてみておいた方がいいんじゃないのか?」
「……え?」
言われたことを理解するまで少し時間がかかった。エンジェルは同情するかのように、着飾った燐を見下ろしている。性別が違うので仕方ないが、身長差が憎いぐらいだ。
「そ、…メフィストはそんな奴じゃ!」
「そう思っておいた方が楽だという話だ。おまえは悪魔のくせに悪魔を信用しすぎだぞ。…同族だから馴れ合うのはわかるが…。祓魔師で上を目指すなら、肝に銘じておけ。
下一級祓魔師、
悪魔の甘言に乗るなよ。今日も、おまえが今後使える「武器」にするために教育を兼ねて連れてきたんじゃないのか?
祓魔師の任務には財界や政治に大きく関わる依頼人を持つこともざらにある。というか、俺ほどになればそういうものの方がほとんどだ。
だからこういう世界のことを知ってパイプを持つことに損はないし、いずれは自分の身を守ることにも繋がる。特におまえはこういうの大事だと思うが。
だからあの悪魔も連れてきただけだろう。そのあたりを肝に銘じておけというだけだ」
「武器」、「教育」。
容赦なく浴びせられる言葉に、ぎゅ、っと拳を握った。
そんなのわかってる三歳の時から。
燐が頭を打たれたような目眩を感じたのはそういうことではない。
ただそれだけしかないはずだったのに、そういう目的なしで誘われたら幸せなのに、とか社交の場でどうこうよりもメフィストと踊れるということだけで、頭が一杯だった自分を改めて自覚したからである。
なんか、俺…。
何曲過ぎたかもわからない何曲目かの音楽が流れ始め、多くの男女が楽しそうに手を取り合っていく。
見るからに落ち込んだ燐を見かねたのか、気がついたら燐は、エンジェルに手を取られていた。
「お、おい!?いきなり、な!」
「どうせお互い放っておかれた者同士だ。悪魔と馴れ合うなどしたくはないが、今夜はそういうのはなしと行こうじゃないか」
いや、きらっと白い歯を見せられても困る。普段、悪魔だのなんだのけなしてくるクセに、この態度の具合が天然とシュラに呼ばれてしまう理由なのだろうか。
ちょっと離せよ、と燐も少し抵抗してみるが存外しっかり手を繋がれていたし、大勢の前でまさか男一人投げ飛ばすわけにはいかない。しようと思えばできるけど。
「このような舞踏会ではカップルで来るのがマナーだからな。壁の花になることはマナー違反だぞ。俺も壁のシミにはなりたくない」
「そういえば壁の花とか壁のシミとかってどういう意味なの?」
見事な壁の花だな、と最初に言われたがなんとなく褒めた意味ではないのだろうことぐらいわかった。花という単語があるけれど。
「舞踏会などで男性に踊りに誘われなくて壁際に立っているしかない淑女のことだ。対して男のそれは、壁のシミという」
なるほど。自分とエンジェルは今その花でありシミであるということか。
じゃあ同じ立場なんだ。
と納得している間に曲は始まってしまう。しかし今度は燐も聞いたことがある曲だった。タイトルは思い出せないが。
「美しく青きドナウだな」
燐が知らないことを察してか、エンジェルがタイトルを告げる。その間にも、養父や雪男と練習したように身を寄せて手を取られた。
さすがに焦って思わずメフィストの姿を探してしまうが、いつの間にか距離が離れてしまったみたいで人ごみに紛れて見えなくなってしまっていた。
…でもどうせあの人と楽しく話しているんだろうか。もしかしたら燐のことなど忘れて一緒に踊っているかもしれない。
「武器」とか「教育」とか。
そんなこと最初からわかっている。
…じゃあいいや。
社交の場を学ばせるという意味合いでしかないのだ。メフィストにとっては。だったら、踊る相手だってエンジェルであっても構わないはずだ。
「そういえば、踊れるのか?」
「ああ、練習はしてきた」
「そうか、まあ慣れないだろうからな、俺がリードしてやろう」
得意げに笑う顔はよく見たら子どものようで。そういえば、いつもはこっそり影で「蝉」とか「蝿」とか「白い羽虫」とか散々な言われ方をしている服ではない。
燐はそんな服を着ているエンジェルしか知らないため、改めて見ると別人のようだった。後ろに撫で付けられた長い金髪は一つに束ねられていて、
ポケットチーフはシルバーに輝いていた。
メフィストもそうだったが燕尾服がよく似合う。でもメフィストとはまた違った調和だった。エンジェルは健康的な華やかさがある。
好青年ってこういうやつのことをいうんだろうな、と燐は思った。
「…おまえもそういう格好をしていると…悪魔など関係ない普通の淑女のようだな」
「へ?」
おそらく褒め言葉だったのだろうエンジェルの言葉を理解する前に、腰を手を添えられ一歩踏み出す。少し焦ったがなんとかヒールでこけないよう、練習を思い出してステップを踏んだ。
この曲はウィンナワルツを代表する曲のひとつで作曲家は、と到底燐の頭では覚えられないうんちくを披露されていたが正直踊るので精一杯である。
あれ、でも。
「なんだ、なかなか踊れるじゃないか」
意外だとばかりに手を添えられ、くるり、と燐の白いスカートが舞う。
いやこれは…確かに練習の成果もあるかもしれないが、足りないところを補うような、ようするにエンジェルのリードが上手いのである。しかも割りと無意識にやっているみたいだから驚きだ。
養父と雪男を練習に付き合わせて一緒に踊っていた時とは明らかに違う。これが日本男児と英国男児の違いというものなのか、いっそ恐ろしい。さすが上流階級。
養父との練習も意外にもワルツの踊れた養父だったが、さっきエンジェルが言ったみたいにあの人も社交の場を学んだりしてたんだろうか。なんか似合わない。
養父ならそういうもの全部すっ飛ばして溢れる実力で聖騎士にまで上り詰めたんじゃないだろうか。うん絶対そんな気がする。でもジジィがキレイなお姉さんとこうして踊ってみたことがあったとしたら…なんか笑ってしまうかもしれない。
そんなことを考えながらよどみなく動けるワルツも楽しくて、知らず知らずのうちに口元には柔らかい笑みが浮かんでいた。
飴色の照明に照らされて、燐の白い顔と蝶のように舞うドレスには艶かしい影が落ちていて、それなのに浮かべる笑みは初めて大きなバラの花束を貰った少女のように初々しい。
また相手のエンジェルも輝かしい容姿だがどこか力強さも感じる体の線と腕。
若い二人はこの時、割と周りに注目されていたのだが、変なところで鈍い二人はまったく気付かなかった。
曲は最後の盛り上がりを響かせてから、10分ほどで終わった。
おお、こけることなく足を踏むこともなく踊りきった。
これぐらいで息が上がることはもちろんないが、それでも妙な高揚感と達成感があって、あれこの感じテストで奇跡的に50点以上取ったときに似てる、なんて燐は情緒もないことを考えていたのだが。
ようするに楽しかった。
「すげえ、俺ちゃんと、」
踊れた、という前に最後の最後で油断したのか、ヒールでバランスを崩してエンジェルの胸に顔を…預ける直前に「こんな白いシャツにファンデをつけてはならない!」と咄嗟に思って、
首をひねった。結果、ぽすんと、燐のまとめられた髪がエンジェルの胸に預けられる。
「あ、わり…って!」
あれ、髪がちょっと痛いし、何かに引っかかって動けない。
「おい何をやってる。待て待て、髪がスタッドボタンに引っかかっているんだ。……ダメだな、一度ヘアピンをひとつ外すぞ」
言われた側から、キレイに編み込みをされた髪の一部分をほどかれる感触がした。同時に頭がようやく離れたが、髪の一部が元のようにするりと流れ落ちてしまう。
あ、せっかくキレイにしてもらったのに、と残念に思っている間にエンジェルがさりげなく内ポケットからコームを取り出した。
「おい、なにして」
「少しじっとしていろ」
白い手袋をした大きい手がなんと器用に燐の髪を編み込み始めた。驚きだ。こんなことができるとは。そしてそのさり気無さ、本当に紳士である。英国男児恐るべしと改めて思った。
小さい頃メフィストに整えてもらったのとは違う感触で。するすると髪を梳かれ、編みこまれていく。崩れたのは一部分だけだったのですぐに出来上がった。
「うわーすげー…ありがとうな!」
素直に笑顔を向ける燐に、エンジェルの方がきょとんと目を丸くしてしまう。
「いや、…おまえは時々本当に悪魔らしくないな…」
苦笑しながら整えられた髪の左側につけてあるバレッタに、エンジェルはそっと指先で触れてみる。
「…いい代物だな…大事にしろよ」
それが先ほどまで忠告していた悪魔から貰ったものだとは知らず。一目見て高価なものだとわかったので、ただそう告げただけだったのだが、燐は、おう、と何故か照れながらそっとバレッタに触れている。
その顔に浮かぶ微笑みは奥ゆかしささえ感じられる。
「---------燐っ!!」
そんな妙な満足感を覚えていた燐を一気に現実に引き戻したのは自分を呼ぶメフィストの声だった。振り向く間もなく強く腕を引かれて、その胸に引き寄せられる。
「め、メフィスト!?」
「燐、あなたいないと思ったら…何を…!」
隈の濃い目が鋭く目の前のエンジェルを睨みつけていた。途中から二人が一緒に踊っているのを見ていたのだろう。見られてたんだ、と思うと同時に何故かすごく恥ずかしくなった燐は力なく項垂れてしまった。
対してエンジェルは挑発的な笑みを浮かべて大悪魔の視線にも怖気づく様子がない。こういうところがさすが聖騎士とでもいうべきか。
そしてエンジェルのその得意げな笑みを見て、燐は、自分と踊ったのはメフィストを挑発するためでもあったのかもしれない、と考えた。もちろん、壁の花とシミにならないように気遣ってくれたのかもしれないが、
それも含め目の敵にしているメフィストに何か仕掛けてやりたかったのだろう。そのことを酷いとは、何故か思わなかった。だって先に燐を放っておいたのはメフィストだ。
「放っておいたのは貴様の方だろう。教育とはいえ連れてきた淑女を壁の花にするとは、普段紳士紳士と言っているのはやはり人に成りすますための虚言か、この悪魔め」
「…………」
口達者のはずのメフィストは何も言い返すこともせず、力強く燐のむき出しの肩を掴んだ。
「い、痛い、メフィスト」
「…帰りますよ」
「え、だってまだ…」
一緒に踊れてないのに。
抗議することもできないまま、人のざわめく会場を出る。出て行く直前に、
「そうやって呆けている間に、大事な武器がヴァチカンに奪われることを忘れるなよ」
という忠告なのか挑発なのか。どちらとも判断がつかない言葉が、雑音にもまれながらも悪魔の聴力を持つ二人には、はっきりと届いていた。
ばん、と乱暴にドアが開けられ、そのまま腕を引っ張られて扉をくぐった先は、明るい昼間だった。歌劇場の適当なドアに無限の鍵を差し込んで屋敷の廊下にある扉に繋いだらしい。
日本は昼間だった。
ばたん。背後で荒々しく扉が閉められる。後ろから感じる怒気に恐くて振り返れなかった。メフィストがこんな風に怒りを露にするのは、初めてかもしれない。
少なくとも自分を引き取ってからは。
「…こちらを向きなさい、燐」
「………」
「燐」
逆らえない悪魔の「命令」にゆっくりと顔を伏せたままメフィストの方に体を向ける。顔を上げなさい、と言われて唇を噛みながら上げた。
昼の光に照らされてメフィストの不健康な青白い顔はますます白かった。しかし目の周りの隈はくっきりと、その中にある黄色い緑の目は心なしか瞳孔が細くなり、
まるで猛獣のようだった。
「…あなた自分がどれだけ愚かなことをしていたか、わかっていますか?よりにもよってあのエンジェルと。奴があなたを殺すつもりだったらどうしてたんですか?」
どうしてそんな考えに及ぶのかわからなくて、呆然としていると、はあ、と重いため息を吐かれた。それが本当に燐に呆れている、と訴えているようで、ずきん、と胸が痛む。
「あなたは、もっと自分が悪魔だと…ヴァチカンにとってどれだけ危険視された存在なのかをもっと自覚なさい。一体あなたに対して三賢者がどれだけ小言を漏らしているのか、わかっていないでしょうね。
そういうのは私が全部引き受けてきたんですから」
かつかつ、と靴の音を響かせて燐に近づく。思わず一歩後ずさった。それを見てメフィストは歩みを止める。微妙な距離だけが二人の間を隔てていた。
「…だからああいう場に連れて行って色々学ばせるつもりだったのに…あなたときたら、挨拶も碌にできない、勝手にどこかへ行って私に恥をかかせて、
ヴァチカンの犬も同然の男に無防備に身を寄せて…あろうことか、
髪に触れさせるなんて」
「…だ、だって…メフィストが……!」
俺を放っておくから、という言葉は何かが込み上げる喉のせいで上手く出てこなかった。
思わず口に手を当ててしまう。
「私が、なんです?」
「……だって……」
「だって、だってと、言い訳はしない。あんな風に男に身を寄せて髪に触れさせるなど…そんなふしだらな女に育てた覚えはありませんよ」
ふしだら。語彙の少ない燐の頭だが、なんとなく意味がわかった。わかった途端、かあ、っと頭の中まで熱くて真っ赤になったようで、きゅっと唇を噛む。
泣いてしまいそうだった。でも泣くのが嫌で、次に出てきたのはもう売り言葉に買い言葉といったものだったのかもしれないが、それでも。「育てた」という言葉が何故か燐には一番ショックだった。
自分は結局、メフィストにとって。
「…んな…こと…俺だって…おまえに育てられた覚えなんてない!!俺を育ててくれたのはジジィだ、父さんだ!おまえ、なんか----------サタンの娘だからって、面白がって側に置いてるだけのクセに!!」
自分は結局、メフィストにとって「教育」すべき「武器」で「娘」で「妹」で。
そんなこと三歳の頃からわかっていたのに。
「女」としてみて欲しいもう「武器」も「娘」も「妹」も嫌だ、と確かに自分の中で叫んでいる醜い獣がいるんだと、改めて自覚して燐は言葉を止められなかった。
ぎろ、っと緑の目玉が暗い何かを湛えて燐を睨みつける。
沈黙が落ちた。
窓から零れる昼の光が明るすぎていっそ憎々しい。夜だったらまだ何かマシだったろかなんだか時差ぼけしそうだ、と何故かそんなことを考えていた。
「…よろしい…そんなにここが気に入らないなら……出て行きなさい」
すとん。とその一言は簡単に燐を暗闇に突き落とした。
「出て行きなさい。今までのことに対してそんな恩知らずなことを言えるとは。ええ、出て行けばよろしいですよ。気に入らないなら、どこへでも行けばいい。
監視なんて何も私でなくてもいいんです、あなたはもう一人前の祓魔師ですから。いい機会ですね。好きな時に、出て行けばよろしい。
…明日でも構いませんよ。ええ…そうすればいい」
好きにしなさい。
最後にそれだけいうとメフィストは背を向けて廊下の向こうへ消えていった。
俺、何やってるんだろう。
自室に駆け込んでから、破けそうな勢いでドレスを脱いで下着だけになって、キレイに整えてもらった髪もぐしゃぐしゃと全部崩した。
白い胴に巻きつけていた尻尾は力なく床に毛先が落ちている。その尻尾は確かに悪魔の子である証だ、部屋の隅に置いてある倶梨伽羅だって。
部屋に置いてある姿見鏡をふと見れば、下着だけで髪がぐしゃぐしゃで、無表情の、なんとも醜い悪魔の女だけがいた。
「女」としてみて欲しいもう「武器」も「娘」も「妹」も嫌だ、と確かに自分の中で叫んでいるわがままで恩知らずの醜い悪魔。
俺はやっぱり悪魔なんだ。
養父がいて弟がいて仲間がいてメフィストがいて、メフィストが好きだという気持ちを持てているだけでも幸せだと恵まれているんだとわかっているのに、
もっともっと、と求めてしまう。際限なんてないのかもしれない、自分の欲望に恐くなった。
「私を好きになって欲しい」なんて。
なんか、俺-----------
「バカみてぇ」
へ、っと力なく笑った。浮かれて周りを見てなくて嫉妬して碌に挨拶もしなくて自分の立場さえ見失いかけてて。
全部独りで舞い上がってただけなのに。
「バカみたい」
『燐の髪はきれいなんですから、伸ばせばもっときれいになると思うんですけどね』
だから髪を伸ばした。思えばそうしたときから自分はずっとメフィストに「女」として見てもらいたかったのだ。
「バカみたい」
衝動的に机の上のハサミを取り出して、ぼさぼさの髪に当てた。戸惑わなかった。不思議なぐらい頭は冷静だった。
「バカ、みたい」
しゃきん。
きらきらのラメがつけられた、長い髪が落ちていく。
「バカみたい、バカみたい…」
ぱらぱら、とたくさんの髪がベージュの絨毯の上に落ちて、昼間の光を受けてまるで星みたいに輝いていた。でもこんなものにもう価値なんてない。
小さい頃とは違う。触れられると恥ずかしい。そうやって意識しているのに、メフィストは平気で触れてくる。エンジェルじゃなくても、
メフィスト以外の男に触れられたって何も感じないし、意味なんてないのに。
だから、「これ」はもういらないものなんだ。
「バカじゃねえか、俺は…!!」
こんなもの何の役にも立たないのに!と握り締めた無残に切れた髪を床に叩き付けた。
大事にしろ、と言われたばかりのバレッタも一緒に。
それらはベージュの絨毯の上に落ちて、昼間の光を受けてまるで星みたいに輝いていた。
きらきら、と。落ちていく。
泣かなかった。
不思議と泣くことを涙腺が忘れたみたいだった。
そうして燐は、しばらくずっと床に落ちたきらきら輝くものを、睨みつけていた。
2012.6.23
歌劇場の中身については資料等参考にしておりますが、細かいところわからなかったところなどは妄想と捏造で補っておりますので、あしからず。