言い過ぎた。
というか、私が悪い。
メフィストは月曜日の朝日が昇るのをぼんやりと窓から眺めつつ、甚く後悔していた。
本当に後悔した。欲望のままに享楽のままに生きてきたこの姑息で頭の切れる大悪魔が、昨夜の己のしたことは失態中の失態だった、
と後悔していた。
はっきりいって怒りで冷静じゃなかった、という自覚も一晩越えてようやく芽生えてきた。
この自分が冷静ではいられなくなるほどの怒り。こんなものは、まだ物質界を知らなくて常に暇すぎて苛立ちながら虚無界にいた頃、
もうずっとずっと昔のあの頃以来より感じたことはないものだ。
目元を指でもんで、深くため息を吐き出す。朝の光をうけてちかちか光る瞼の裏では、昨夜…日本時間でいうと昨日の昼間ではあるのだが、
ウィーン時間の夜に見たものがはっきりと浮かび上がってくる。
エンジェルに手を取られて身を寄せて、楽しそうに踊る燐の姿が。
二人の姿を見つけたのは「美しく青きドナウ」が流れて2、3分過ぎたころで、ようやくあの女から解放されてみれば燐はいなくなっていて。
見つけた時にはすでにあの男とワルツを踊っていた。何故、エンジェルがここにその前に何故二人が、と思いながら途中で何度も二人を止めようとしたが、
若い二人の姿があまりにもそう…似合っていたので呆然と見ていることしかできなかった。
艶かしい飴色の影を落としながら、初々しい笑みを浮かべる蝶のように美しい燐に、健康的で華やかな容姿のエンジェル。
周りにもかなり注目されていたのである。あらあのアーサー様と踊っている可愛らしい子はどこのお嬢さんかしら、と囁きあっている声がいくつもあった。
もしかして噂のフィアンセかしら、とも。メフィストは動けなかった。情けないぐらいにただじっと突っ立ったまま、楽しそうに踊る燐とまんざらでもない様子だったエンジェルを見ているしかできなかったのだ。
そうして長い10分が過ぎ、あろうことか、燐はエンジェルの胸に頭を預けていた。よろめいてそうなってしまっただけなのは見ていたのでわかっていたが、
その瞬間、ようやく呪縛が解かれたようで慌てて燐を引き戻しに駆け寄ろうとするも。
…何故、あの男には平気で髪に触らせたんだ。
一番納得いかない点がここであった。頭を預けた拍子に髪が引っかかりそれをほどくエンジェルがそのまま解けてしまった髪の一部にコームを通し、触れて、
編み込みまでしていくのまで見ていたのだ。つい数週間前、燐の髪に触れようとして冷たく拒絶されたのを思い出した。それなのに、自分はダメなのに、
あろうことかエンジェルには許しているのである。任務でいつも燐を置いていって大怪我をさせても悪びれもしない、あの聖人面して鬼畜の優男に。
何にも警戒せず、身を寄せて、踊って、自分でさえ許さなかった髪に触れさせて。
その瞬間、かっと頭に血が昇ったことは否定できない。
何故、自分とではなくいつも燐を傷つける男などと踊っている。何故、自分には許さないのに髪に触れさせている。
冷静になった今から思うと、燐と踊れるのも髪に触れさせてもらえるのも自分だけの特権のように思っていたのだ。それなのに、燐は軽くそれを飛び越えてしまっていた。
後はもう、酷いことを言ってしまったと、ようやく自覚できたのが日曜日から月曜日へと日付が変る頃だった。何とか怒りを抑えるため、あれからずっとメフィストは自室にこもっている。
もちろん、燐とは顔も合わせていない。
…燐を放っておいた自分が悪い。
エンジェルに言われたときは言い返すこともできないほどだった。本当ならあの馴れ馴れしい女とはそんなに長く話しこむつもりではなかったのだ。
あの女は気難しいことでも有名で、燐を初めて見た瞬間に、燐の若々しい美しさと人形のような可愛らしさに嫉妬したのはすぐにわかった。
全ての男が自分にかしずかないと気がすまない、そういう面倒くさい女なのである。そして目の敵にした女には陰湿な嫌がらせをしてくる、という穏やかではない噂も聞いていた。
あまり表沙汰にはなっていないが、あの女は過去数度、祓魔師に任務を依頼していたのだ。主に男の恨みを買ったのが原因で。
その関わりでメフィストとも多少の交流があったし、ビジネスの話もしていたのだが、
馴れ馴れしい上に何か勘違いをしてメフィストに迫ってくる、そういう至極扱いに困る女性だったのである。
もちろん、公私混同はしないという理由をつけて関係を持ったことはなかった。
こういう女とは一夜を共にしただけで面倒くさいことになる、と経験上重々承知だったからだ。
その頃にはまだ燐が10歳ぐらいだったというのもあったし、思えば燐を引き取ってから女性関係はほとんど全て清算させているぐらいだ。
教育上よくないだろう、という理由で。一応。
だから燐をずっとあの女と対面させるのはよくない。そう思って、放っておいてしまった。
話の途中にも視界の端で、むくれた次には寂しそうに俯いていた燐にも気付いていた、女に対して嫉妬していたことも。
だが、その時、メフィストの暗い悪魔の部分が感じ取ったのは、密やかな悦楽だった。
燐が切ない恋心で自分を見つめてくるときに感じる優越感と、似ているものだった。
麻薬のようなその悦楽はじわじわとあの時、メフィストの中に広がっていたことは否定しない。
しかし、今から思えば、放っておかずにさっさと話を切って燐の手を取ってやればよかったのだ。
そう、あの時手を取ってやれば。
今こうして出汁もとっていない湯に味噌を溶いただけのミソスープと、ただの白飯だけの食事にはならずにすんでいたのだが。
ようやく自室を出たメフィストはとりあえずシャワーを浴びてから、いつもの白いスーツに着替え、なんといって燐に謝ろうかと散々考えながら食卓に向かっていた。
昨日は言い過ぎました。
放っておいた私が悪いんです。
出て行けなんて本気じゃありません。
それに「面白い」なんて理由だけで、三歳の小さな女の子を引き取って育てるほど私は物好きじゃないんですよ。
と燐に述べたい言葉を考えつつ。
しかし、思ったとおり燐の姿はなくて。テーブルにいたのはもそもそとミソスープと白飯を頬張るアマイモンだけだった。
「…燐は?」
「…オハヨウゴザイマス、兄上。燐ならもう学校に行ったみたいです」
やはり避けられたか。メフィストの言ったことを考えれば、当然だった。
そして鍋の中にあった作りたてのミソスープを腕に入れて…他におかずはなかったので白飯だけよそって食卓につき、ミソスープを一口。
うん、お湯に味噌を溶いただけの味であった。
これが昨日の腹いせなのかどうかのか。今までだって何度かケンカはあったのに(主にお小遣いに関して)、一度も燐は料理に手を抜いたことはない。
よほど今朝は作る気がなかったのか、ぼんやりしてて失敗したのをそのままにしたのか。しかし、昨日のケンカは今までに類を見ないものであったので、
燐の心情は計り知れない。
残すわけにもいかない。味噌の味もよくわかないほど薄いミソスープでなんとか白飯を流し込む。意外にもアマイモンは文句一つ言わずにもそもそ食っていた。
メフィストのそのいぶかしむ視線に気付いたのか、ずずず、とミソスープを啜りながら「だって燐が作ってくれたんですから」となんとも男前な返事が返ってくるではないか。
「…兄上、昨日、燐とケンカしましたね」
疑問系ではなく確信した弟の言葉に、不覚にも、ぎくり、と肩が揺れた。
「…気付いていたか」
「だって昨日兄上達が帰ってきた気配がしてすぐに兄上の怒気を感じましたし。その後、燐の部屋に行こうとしたけど、
ただならぬ雰囲気を部屋から感じたので入れませんでした。なんというか「入ってくるな」と訴えているような匂いがしたというか」
言い訳のしようもない。メフィストは何も言わなかったが、アマイモンはとっくに確信していた。
「燐…シフォンケーキ作ってくれませんでした」
心なしかトンガリ頭がしゅんとへたれているように見えた。
「燐が約束破ったの…初めてです…」
そして珍しく自分で食器をシンクに持っていき、洗いはしなかったが、明らかに元気のない背中を見せてリビングを出て行った。後に残ったのはメフィストだけだった。
燐のいない食卓がこんなに寂しいものだったなんて、初めて知った気がした。
その日、一日メフィストは学園の理事長室で仕事をこなしつつも上の空もいいところだった。何度も携帯を取り出して燐に謝罪のメールでも送るか、いっそ休み時間を狙って電話をかけるかしようと思ったが、できなかった。
はあ、とため息を何度も吐き出してそわそわ携帯を見ている理事長の姿は用があって理事長室に来た祓魔師何人かに見られたが、皆が皆、あれ俺ちょっと疲れてるんだろうかあの理事長が落ち込んでいるようにみえる、と…
思わず眉毛に唾をつけてみようかという衝動に駆られたという。
結局、まったく進まなかった仕事はもう放置してメフィストが屋敷に戻ったのは夜の8時頃。
ずるずると体を引きずるように屋敷に入り…キッチンの扉の前で一度ごくりと唾を飲み込んでから、開けてみる。
がらん、とした何もないテーブル。しかし電気はついていた。ほっとしたようなもどかしいような。ああ何故、大悪魔である自分がこんなにもだもだしなければならないって、いうか自分のせいか。
本日何度目かのため息を吐き出したとき、
「なあにため息なんてついてるんだよ」
ひょい、と背後から現れた燐に、ぎょっと肩が跳ねてしまう。
「り、燐!」
昨日は私が悪かったです。
と言おうと思ったのだが、すぐにメフィストは言葉を失ってしまう。
昨日まで確かに腰まであった燐の長い髪が、うなじをかろうじて隠すぐらいに短くなっていたからだ。
「…え、燐、あなた髪」
メフィストの横をすり抜けて、キッチンから食材をエコバックにつめていく燐を見つつ、確かに短くなってしまった髪を見る。
うなじにかかるぐらいのその髪は、無造作にだがキレイなショートにされていて、さらさら、と揺れていた。
「ん?あー髪?今日、学校が終わってから切りにいったんだ!今日は塾の講師の仕事も任務もなかったしな。ちょうどいいかも思って。
伸ばしすぎて邪魔だったし」
なんでもないように、にかっと笑う燐に、これは昨日髪に触れさせたことに対するあてつけかとメフィストが疑ったのも無理はなかったが、
「別にあてつけじゃねーよ。たださあ、なんというのか、俺なりに反省したし、そのけじめっていうの?」
まるでメフィストの疑いを察したように告げられた内容に、思わず眉間にシワを寄せてしまう。反省とは。反省すべきなのはもちろん自分であるのに。
燐は佇むメフィストに向き合うことはしないまま、エコバックに野菜に米に味噌を付け込み、ついでに、今朝のミソスープごめんな失敗したけど朝早くから用事があってそのままにした、と言っていた。
嘘だろうということはよくわかった。燐は嘘のヘタな子だった。そしてメフィストが言葉を紡ぐ前に今度はアマイモンがキッチンに入ってきて、燐に「オカエリナサイ」と言いながらまじまじと短くなった燐の髪を見ていた。
「あーアマイモン、ケーキ昨日作ってやれなくてほんとごめんなー。また時間できたら作ってやるから」
「いえ…いつでもいいですけど…燐、髪」
「今日切ったんだ、どうだ?」
短くなった髪の先を指でつまんで首をかしげている燐に、アマイモンは、ええ別になんとも、とそっけない返事だった。
「別に髪が短くても長くても燐は燐ですから。僕から言わせれば何故人間が髪の短い長いにこだわるのかわからないです。本質が何も変るわけじゃないのに」
といいつつも物珍しそうに燐の短くなった髪に触れていた。燐は、そうかー、と照れている。髪に触れさせている。その様子にメフィストはまたあの舞踏会の時に感じた、怒りを覚えたが、
ぐっと堪えた。ここでまた怒っては元も子もないからだ。
「なあ、メフィストはどう?似合う?」
無邪気に笑う短い髪の燐。それは燐を引き取ったばかりで、髪を伸ばす前のことを思い出させてメフィストは懐かしくなった。本音、長くてキレイだった髪も惜しかったけれど、
昨日の今日だ。ここは褒めておくに越したことはないだろう、と思った。似合っていると思ったのも本当だったので。
「ええ、とてもよく似合ってますよ」
「そっか、よかった」
笑った口から覗く小さな牙がキッチンの電気をつけたことによって、てらてら、と真珠のように輝いている。
「でも、燐、けじめというのは?」
「あーうん…昨日さ、俺おまえの言った通り、碌に挨拶もしなかったし…勝手にいなくなったし、おまえに怒られて自分の立場っていうの?まるで考えてなかったなあ、って。
だからこれからはちゃんとした大人になろうと、思って」
燐の口から出てくる言葉にメフィストは、ぽかん、と口をあけてしまいそうになった。
同時に、昨日メフィストに言われたことを深く反省し、これからはもっと大人になる、という。それに違和感を覚えつつも、燐も成長したのか、と少し感動してしまったのだ。
「…昨日はごめん。本当にここまで育ててもらったのに、あんなこと言って」
『----------サタンの娘だからって、面白がって側に置いてるだけのクセに!!』
確かにあの言葉に一瞬、メフィストは目の前が暗くなるのを感じていた。そんなつもりが少しもなかったといえば嘘にはなるが、けれど、やっぱり三歳の時メフィストの前で見せたあの大粒の涙を可哀想に思って、
ベッドに入ることも膝に乗せることも許し、自ら食事を与えたり、教育したり、絵本を読んだり、そんなことまでただ「面白い」だけでやれるメフィストではない。
そんなことわかってるんだ、と燐は呟いた。燐にそういわれてメフィストの胸の中に広がったのは、安堵と、歓喜だった。
「本当に反省したから…挨拶もできるようになるし、自分の立場のこともっとよく考える。社会のことも学ぶし、ヴァチカンから今後なに言われても見返せるほどの力…だけじゃなくて、
他に必要なもん全部学ぶから」
「燐…」
『私も、昨日は言い過ぎました。
放っておいた私が悪いんです。
出て行けなんて本気じゃありません。
それに「面白い」なんて理由だけで、三歳の小さな女の子を引き取って育てるほど私は物好きじゃないんですよ
あなたは私の大事な---------』
一日考えた言葉は、今瞬間思い返してみれば最後の言葉だけどこかに行方不明であった。あれ?と疑問に思いつつもとにかく燐がここまで言ってくれているのだから、自分も言わなければ、と思い口を開いたが。
「だから、俺、ここ出て行くことにしたから」
燐の言葉に、メフィストの口から出てこようとしていた言葉は、すとん、と肺に落ちてしまった。
「-----はい?…燐、いまなんと?」
「いや、だから出て行くことにしたんだって。まあ、ちょっと準備にあと数日いるからさ、その間だけでもここにいさせてくれよー」
「え、燐、ここ出ていっちゃうんですか?」
アマイモンがいち早く反応して燐に甘えるように肩に抱きついていた。いかないで、と訴える子犬のようなそれに燐は、ごめんなー、と苦笑している。
そしてよく見れば、先ほどからエコバックに食材を詰めるばかりで夕食を作り出す気配がないのだ。それに気付いた側から、今夜は飯作れないから学園のウコバクに頼んだら後で来てくれるってさ、と
メフィストの使い魔なのにいつの間にかそんなことを頼んでいたようで、ではバッグに食材を詰めるのは何故なのか。
「ちょっと、燐、」
「あと今夜だけどさ、ジジィが今朝またぎっくり腰やっちまったみたいでしばらく修道院で面倒みることにしたから。あ、学校はちゃんと修道院から通うよ。
ジジィにも言ってあるしさ、ぜひ来いまた燐の飯が食える!って喜んでるし、」
「はあ!?なんですかそれ、私なにも聞いてないんですけど…いや、藤本もそうですけど、そうじゃなくて!…出て行くってどういうことですか!?」
バッグに食材、そしてあらかじめ用意してあったのだろう着替えなどが入っているらしい大きなバッグまで取り出して、修道院への鍵を取り出す燐の腕を思わず掴む。
思ったより力が入ってしまったが、燐は何も言わなかった。ふりほどくこともせずに。開いている手でキッチンの電気を消す。ぱちん。やはり夕飯を作るつもりがないからだ。
今夜は、キッチンは使わないから。だから電気はもう消す、と。
暗くなって、けれど夜目の効く燐とメフィストだ。お互いの顔はよく見えるけれど、切る前から大して長さが変らない前髪に目元が隠れて表情がよくわからなかった。
「燐、こちらを見なさい」
「なんだよ、何また怒ってんの?おまえが出て行けっていったんじゃん」
それはメフィストの言葉を責めているようなものではなくて、ただ、淡々と告げる口調にまったく燐らしさを感じなかった。
「言いましたけど、でも本気なわけないじゃないですか!…燐、出て行かなくていいんですよ、私への意地ならそんなことを言うのは止めなさい。
私も、昨日は言い過ぎました。
放っておいた私が悪いんです。
出て行けなんて本気じゃありません。
「面白い」なんて理由だけで、三歳の小さな女の子を引き取って育てるほど私は物好きじゃないんですし、
あなたは私の---------」
私の。
「私の、何?」
顔を上げた燐の前髪の隙間から、暗い影を落とした青い目が覗いていた。必死に無表情を装うとして失敗している、そんな歪んだ顔だった。
「…私の、」
なんだ、私の、なんだ?メフィストは今まで悪魔として生きてきて初めて自分の言いたいことがわからなくなる、というものを味わった。
「…私の「武器」?「娘」?「妹」?そんなこと言われなくてもわかってるし、あんたの期待に応えられるようにがんばるって、言ってんじゃん。
意地なんかじゃねーよ。本当に俺、強くなりたいから、だから、出て行く。もう決めたんだ」
「…私は何も許してませんよ」
「…とにかく、もう行く。今夜は修道院に泊まるだけだから、いいだろう…去年の秋は許可してくれたじゃねーか。…ジジィがなんとかなるまでだから」
しばらく二人はそのまま動かなかった。暗闇の中にあったアマイモンの気配も、いつの間にかなくなっていた。気遣ったのどうなのか。あれはそんな風に気遣える弟じゃない。
ならば燐の様子を見て、引っ込んだほうがいいと思ったのか。メフィストにはわからない。そして、自分が本当は何が言いたいのかも、わからない。
「…帰ったら、このことについては、じっくり話し合いますよ」
ゆっくり、と手を離す。この時メフィストはどうせまだ昨日のことを怒っていて意地を張っているだけなんだろう、何日か経てばそんな意地もなくなる。出て行くなんて言葉撤回する。
そう考えた。何故か燐が自分のところを離れていくなんて、ない、と思っていたのだ。
「………おやすみ」
かちゃり。鍵を回して扉の隙間から見えたのは、修道院の廊下だった。燐は振り返ることもなく、扉の向こうをくぐっていった。
おやすみなさい、というメフィストの言葉を聞く前に、扉を閉めた。
「…姉さん、」
大丈夫?とは聞けなかった。大丈夫なわけがない。雪男の言う通りに大きな荷物をもって修道院に帰ってきた燐はまず始めに、雪男が連休の時修道院に帰ってくるときにだけ使っている部屋に向かった。
そこに雪男はいた。雪男だって寮で生活しなければいけないけど、事前に外泊許可は出してあったのだ。養父の体調を理由に。今日一日ぼんやり過ごしたためその書類を見逃していたメフィストが、それに気付くのは翌日の話しになるが。
養父はいない。今夜は教会関係の用事があるので出かけている。明日の夜まで帰ってこないのだ。ぎっくり腰など嘘である。まだ多少腰の調子が悪いのは本当だけど。
明日帰ってくるにしても、燐が修道院にいることについて養父は深くは問い詰めないだろう。燐の気持ちを一番よくわかってくれるのは、いつだって養父だ。
一晩だけいや何日か。せめて三日はあそこを出て考えた方がいい、と雪男は今朝、ぼさぼさの髪のまま登校しようとしていた燐を止めて、学校を午前だけさぼらせて美容院に行かせてから、この案を提示したのである。
燐は二つ返事で了承した。ヤケになっていたわけじゃないけど、ただ本当にあそこにいたくなかったのだ。でも、
「…ちゃんと言った。出て行くって」
「…姉さん」
「…半信半疑っぽかったけど」
そっと雪男の胸に頭を預ける。大きくなった手が短くなってしまった髪を撫で、頭を抱きしめてきた。何故、髪がぼさぼさなるまで切ったのか、昨日何があったのか。
雪男は細かく聞いてくることはしなかった。それが燐にはありがたい。すうっと息を吸い込むと、雪男の匂いがした。正確には洗濯に使っている柔軟剤の匂いかもしれないけど、
昔から変らないこの匂いが燐は好きだった。それなのに何故か、もうメフィストの香水の香が恋しくなる。本当に自分でもどうしようもないと思う。
その日の夜は、雪男のベッドを使った。いいって言ったのに、雪男は床に布団を敷いて寝た。この年になって姉弟でも同じ部屋で寝るのはどうかと思ったが、姉さんが心配なんだ、と雪男は側にいたがった。
少しだけ、三歳の頃を思い出した。何にも疑うものがなくて辛いことも知らなかった。雪男と養父しか知らなかった世界。それはたった三年しか続かなかったけど。
知らなかったら、幸せだったかな。
布団にもぐって考える。けれど色んなことを知ってしまった今になると、知らなかったらという仮定の想像をするのは酷く難しい。バカだという自覚はあるけれど、それでも、
昔よりも昨日よりも覚えていくものと知っていくものが詰まっていく頭では、仮定の未来を想像する前にその頭に詰まったものが邪魔をしてくるのだ。
仰向けになって天井を見る。昔は二段ベッドだったような、気がする。もうあまり細かいことは覚えていなかった。
あの時、自分を連れに来たメフィストを初めて見たときは、ピエロの格好した人攫いかとびびってたけど。
でも燐に興味を持ちこそすれ、「人」の部分としては無関心だったろうメフィストしかいない屋敷はひどく不安だったのを覚えている。
自分に本当の意味で興味なんて持っていないんだろう、と幼いながらわかっていたから、だから目の前でも泣けたんだと思う。でも不思議なことに、
あの悪魔は寂しさのあまりベッドに入り込む自分を許し、膝に乗ることを許し、キレイな絵のたくさん載った絵本を読んでくれて、食事を与えてくれた。
小学校に上がる頃には自室もくれた。そうして今のように無事に生きてきた。
それだけで、満足できれば、よかったのに。なんでダメなんだろう。なんで全然、足りないんだろう。
「…好きになっちゃったからだよなあ…」
雪男の寝息が深くなること、まだ眠れない燐はぽつりと呟いた。むなしかった。何もかも。
でも、好き。
やっぱり好きなんだ。
だから、もう、あそこは出て行かなきゃいけなんだ。
そう思うのに、やっぱりヤダ、と言うわがままな自分がいる。胸を押さえてそれを仕舞いこんだ。
「でも、好き、やっぱり好き。すげー好き…」
どうせ、本人にはいえないんだから、今だけ言っておこう。そう思ってぽつぽつ呟く。胸が苦しくなってきた。気のせいかちょっと熱っぽい。
考えすぎて知恵熱でも出たのだろうか。明日は解熱剤でも買っておこう。
「…私を好きになってよ…メフィスト」
眠る直前。ほとんど意識のないときに燐の口から零れた言葉は、燐自身も聞き取ることはできなかった。
2012.6.25