「姉さんさ、本当にあの屋敷を出て行くつもりなの?」
雪男の言葉に、お弁当に詰めた出し巻き卵をとろうとしていた箸を止めた。出汁巻きの他にもちろん手作りのミニハンバーグ、ベーコンとアスパラの炒め物、
彩りをよくしてブロッコリーとミニトマト。
隣に座る雪男のお弁当も、もちろん同じメニューである。今頃修道院で嬉々として燐の作った昼用のおかずをつついているであろう養父の分も。
養父のぎっくり腰の看病と嘘をついてあの屋敷を出て、今日で2日目。もう水曜日だった。火曜日には帰ってきた養父は当然、連絡もなしに戻って着ていた燐と付き添うように修道院にしばらく泊まることにした雪男に驚きはしたものの、
理由は聞かなかった。燐が今は聞いて欲しくないというのを察してくれたからだ。だからメフィストに何があったのか養父から聞いてくることもないだろう。
また燐のうまい飯が食える!好きなだけここにいろ!と燐がメフィストについた嘘の言葉とほとんど同じ台詞を言いながら。
それからメフィストとは連絡を取っていない。メールも送っていないし送られてもいない。たぶん、看病が終われば屋敷に戻ってくるそのときに話し合えばいい、と思っているのだろう。
しかし、燐はもう決めているのだ。
「うん、出てくよ」
ぽいっと出汁巻きを口に頬張る。
昼休み。中庭でさえ無駄に豪華で広いこの学園では座り心地のいいベンチも多い。その中で日当たりのいい場所を選んで、雪男と一緒に食べていた。
まだ2月なので肌寒いけれど、今日は天気がいいのでそれほどでもない。
「…でも出て行ってどこに行く気なの?姉さんは寮暮らしは無理だろ。だから今までだってフェレス卿の屋敷から通っていたんだから」
正十字学園は全寮制だ。けれど悪魔の尻尾を持つ燐に寮生活は難しい。というかほぼ不可能なので、高校に無理矢理入学させられてから、結局、寮には入らず
メフィストの屋敷から通うことになったのである。
「…高校生活はあと二年あるんだよ」
「ジジィの修道院から鍵使って通うつもり」
雪男は弁当をつつく箸を止めて姉の横顔を見る。すっかり短くなった髪は2月の寒い風に当てられて、ふわふわ、綿毛のように揺れている。
「ジジィならわかってくれると思う…。もうさ、炎のコントロールとか悪魔の力の使い方に抑え方、学ぶべきことはほとんどメフィストから学んだんだ。
よく考えたら本当は、祓魔師になれたときから出て行くべきだったんだと思う」
それでも、何故か今までずっと屋敷を出て行くという話は燐とメフィストの間ではなかった。
少なくとも燐は、考え付きもしなかったのだ。いや、心のどこかではこのままではいけないんじゃないかってわかっていたのかもしれないが、
見ないふりをしていたのだ。側にいたい。もうちょっとだけ、でもできればずっと、と。
「自分の立場のこともっとよく考えられるようになりたいし。
社会のことも学にびたいし、ヴァチカンから今後なに言われても見返せるほどの力…だけじゃなくて、他に必要なもん全部学びたい。でもそれにはいつまでもメフィストのところに、いちゃいけないんだ。
だって甘えるし…それに、」
言っていて虚しくなってきたので、一度、空気を吸い込んだ。
「…わりぃ…たぶんこんなの言い訳だ。そうじゃなくて…なさけねーけど…ただ、もう辛いんだと思う」
ふう、と息を吐き出して見事なまでに晴れ渡った2月の空を見上げた。雪男はまだずっと燐の横顔を見ている。
「もう辛いんだあそこにいるの。だってピエロみてーな格好してるのメフィストなのに、俺ばっかりがピエロみてーなんだもん」
横顔に浮かぶ燐の微笑は今にも泣き出しそうで、雪男は弁当箱を片付けると、そっと燐の熱い腕に手を添えた。
「それにヴァチカンからしてみれば同族同士の悪魔が監視してるより、
元聖騎士が監視してるほうが信頼できるんじゃないかな?」
「へぇー…姉さんがそこまで考えているとはねえ…」
「だから、俺なりに考えたの!もう一生分かってほど考えたんだから!」
「何いってるの?まだまだこれからたくさん考えなきゃいけないんだよ」
「わーってるってんなこと!!」
姉ちゃんをバカにすんな!とそっぽを向く姉に噴出しそうなのを堪える弟。
何があったか知らないが、思ったよりちゃんと考えてそして元気そうでよかった。
と思ったが、寒風に吹かれているにしては燐の頬が赤いような気がして、思わず頬に手を当てる。
なに?とどこかぼんやりとした調子で首をかしげる燐に構わず、前髪をどけて
その額に手を当てた。
「…姉さん、もしかして熱ある?」
「あれ…そう?おかしいなあ、今朝解熱剤飲んだんだけど…」
実は月曜日の夜からちょっと熱っぽくて、と言う燐になんで言わなかったんだよと叱りつつも雪男は、見てる間にどんどん赤くなる頬に本気で心配になってきた。
燐は風邪を引いたことがないが、何があったのかまだ詳しくは知らないけど、色々あったみたいだし疲れが溜まっているのだろう。
「考えすぎて知恵熱かも…」
「普段、あんまり考えない分考えちゃうからだよ」
雪男のからかい交じりの言葉にも、むー、と呻るだけで言い返してこない。これは本格的にまずいなと思い、まだ半分も減っていなかった燐の分の弁当箱を片付けさせると、
背中を支えて立たせた。燐の足元はふらふらしていた。なんかくるしい、と吐く言葉さえ弱々しくなってくる。
「姉さん、もう今日は休んで、臨時講師の仕事もないはずだろう?」
「…でも、ガッコー…」
「体調が良くなったときに休んだ分は僕がびしばし教えてあげるから」
帰ろう、と燐を支えつつ人目のつかない場所にある扉に、修道院直結の鍵を回す。そんな雪男に支えられながら燐はぼんやりしていた。
なんだろうこれ。
あつくてくるしくて、そして気のせいか、体がむずむずして、せつない。
姉さん、早く。
と修道院へ促す雪男の声が遠い。扉の向こうは修道院の廊下でちょうど養父が通りかかっていて、どうしたんだ燐?と駆け寄ってきていた。
その姿が、ぼやける。
燐、どうした?
若干焦ったような養父の声も遠い。と思った次には視界がぐるんと渦を巻いた。
---------------あれ?
「兄上」
「なんだ」
「燐はいつ帰ってくるんですか?」
「さあな」
理事長室にて。
黒光りする重厚なデスクの上で機械的に羽ペンを動かすメフィストに、来客用のソファとテーブルで生クリームたっぷりのシフォンケーキをむさぼるアマイモンはさっきからずっと同じことを聞いていた。
一体何度この問答を繰り返したのか。月曜日の夜から50回ほど数えたところでバカらしくなって数えるのを止めた。
つい10分ほど前にシフォンケーキを持って理事長室に現れたアマイモンに、燐が帰ってきてくれたのか?と期待を抱いたメフィストだったが、確かにこのケーキは燐の作ったものですが昨夜修道院で作ったものをウコバクとかいう奴に届けさせるように手渡しただけみたいです、
という返事にあからさまにがっかりした。卵白で作ったらしいそのシフォンケーキは真っ白ふわふわで、数週間前燐が作ってくれたホットケーキも思い出させた。あれを食べたのがもう遠い昔のことのようだ。
じと、っと思い出に耽りながらケーキを見ているメフィストにケーキを取られると勘違いしたのか、急いで口につめる姿に呆れる。誰が弟のケーキを取り上げるなどというセコイまねをするというのだ。
「…兄上」
「…なんだ」
「…燐は本当に帰ってくるんですか?」
口の端に生クリームをつけながら少し意図の変った質問内容に、思わず羽ペンを止める。
口についたクリームまで指ですくって舐めて、意地汚いことに皿がぴかぴかになるまでケーキを食べつくし、しかし、アマイモンは不服そうにどこともわからない方向を見つめている。
「…帰ってくるに決まっているだろう」
そう言いながらデスクの上に置いてあるピンクの携帯電話を睨む。この2日間、メールも電話もなかった。こちらから送ろうかとも思ったが、拒絶されるような気がしてできなかったのだ。
髪に触れようとしたときと同じように、冷たく拒絶されたらどうしたらいいか、と思った時点で自分は相当あの拒絶が応えていたのだと今更ながら実感する。
「なんで帰ってくるなんて言い切ることができるんですか?」
「帰ってくるに決まっているだろう。あの子の帰る場所は、」
屋敷?燐に与えた自室?それとも、自分の元?
燐が一番帰ってきたいと思える場所はどこなのだろう。
いや、自分は燐にどこに帰ってきて欲しいのか。
「…兄上」
「なんだ…ってデスクの上に乗るんじゃない!!」
いつの間にやらアマイモンはメフィストが使っているデスクの上に、なんと正座をしてこちらをじとっと見ている。今更だが目元が自分と似ているなあと少し呑気なことを思ったが、何をしているが知らないが早く退いて欲しい。
おまえの座っているそこには書類があるじゃないか。
「折り入って兄上にお願いがあるのです」
しかも改めて何を言い出すのかと思いきや。
「燐が本当に出て行ってあの忌々しい元聖騎士のいる修道院に居ついてしまう前に…あそこは兄上と違って決して僕は入れてはくれませんから…だから、どうしても、一度だけ、お願いしたいことが」
燐が本当に出て行って藤本のところに居つくなどない!と言い返しそうになるが、正座をしているアマイモンの下の書類はすでにぐしゃぐしゃで、こうなるとテコでも動かない奴だと知っているため、メフィストは羽ペンを完全に置いてしまうと、
なんだ、とめんどくさそうに一応弟の「お願い」を聞くことにした。
「…あのですね、」
常にないアマイモンの真剣な顔に知らずメフィストも顔が強張る。なんだもしかして燐の大事に関わることなのだろうか。たった今思ったとおり、自分と似たアマイモンのタレ目が心なしか、きり、っと釣り上がったような気がした。
「…燐と交尾させてください」
--------ずしんっ!!
この発言の0.1秒後。
学園に微妙に地震のような振動が起きたわけだが、それは地の王アマイモンの能力によるものではなく、その地の王自身が壁に見事にめりこんだことによって起きた振動であった。
「…私も年かなあ…今下劣な発言を耳にした気がするのだが、今ここで、虚無界に帰り二度と燐には近づかないと契約するのならその発言は空耳として聞かなかったことにしてもいいのだぞ、地の王よ」
ものすごいドスの効いた声で、いつの間にか手袋を外してその悪魔の手直々に壁にめりこんだままのアマイモンの首をぎりぎり締め上げるメフィストは、後にアマイモンが語るに、それはもう恐ろしい顔をしていたという。
具体的にどう恐ろしかったと聞かれれば、それはもうただでさえ隈のある暗い目元がさらに暗くドス黒く染まりあがり緑の目はごうごうと…緑色なのにマグマのように燃え盛り全身から放つ殺気はまだ兄上が虚無界にいた頃、
本気で兄弟達と大喧嘩(という名の殺し合い)をしていた時に一度だけ見たそれと同じであって僕もこの時ばかりはマジで死ぬことを覚悟しましたでもそれ以上に僕を突き動かす欲望はまさに「命令」に近かったわけでして…と語るほどのものだったという。
「いえ、空耳などではなくて、ですから、燐と交尾…あ、人間風に言わせればセック」
「はああああ!!???アマイモンよ悪魔なのに慈悲深い私はもう一度だけチャンスをやろう!!燐に、なにを、したいだ、と!?」
「ですから、せっ」
ばこんっ!!
本日二度目の地震のような振動。
この時壁を突き抜けてアマイモンは学園最上階にある理事長室から真っ逆さまになる直前であった。まだメフィストに足首を掴まれているので、宙ぶらりんという中途半端な体制だったが。
「…死ぬ前に聞いておいてやろう…貴様いつから燐のことをそのような目で見ていた?」
「んー…ここに来た頃からですねえたぶん。自覚というか我慢できなくなったきたのは極最近ですが」
宙ぶらりんでまさに風前の灯というのに、腕を組んで首をかしげるアマイモンに足首を掴むメフィストはもうすでに頭の血管が何本かブチギレタような気がしていた。
いや現在進行形でぶちぶち切れている。
「…だって燐から最近すっごくいい匂いがするようになって」
その発言にマジで落す1秒前だったメフィストの手が止まる。
匂い?
「その匂いを嗅ぐとなんか頭がぼうっとするというか…燐に触らずにはいられなくなるというか…」
「………」
「なんかすっごく命令されているような気分になるんです。あと気持ちよくなる。燐に触りたくなって我慢できなくて。これでも相当我慢したんですよ僕。この僕が。
だって兄上に殺されるだろうと思ったので。まあ今まさに殺されそうなんですけど、燐がいなくなっちゃう前にお願いするだけしてみようかな、と」
最近になってやらた燐に引っ付くようになったアマイモンを思い出す。やたら後をついて回り、燐燐燐、と子犬のように纏わりついて、燐の体に興味を持ち、
燐の鎖骨を食いちぎろうとして、
『だって燐からいい匂いが…』
『なんというか「入ってくるな」と訴えているような匂いがしたというか』
まさか。
--------------まさか。
その瞬間、理事長室の扉に鍵が差し込まれ空間が繋がれる気配がした。
はっと我に帰り、とりあえず、アマイモンを見られるとまずいのでそのまま手を放し落として(そのうち這い上がってくるだろう)、
突き抜けて学園都市を一望できる壁の穴をとりあえずいつもの壁があるように目くらましをした、その直後。
「メフィストオオオオオオオオオオ!!!!」
ばぁん!と扉が壊れそうな勢いで飛び込んできたのは元聖騎士、藤本獅郎であった。
ついでにでっかいライフルを装備して決死の形相である。あんなに必死な藤本を見たのは初めてだ、と
後にメフィストは思うのだが。
その藤本の形相に驚いた次にはぶわわわ!と滝のように流れ込んできたコールタールにゴブリンを見てさすがのメフィストも、何事か!?とびびった。
「ちょ、ちょ、ちょっと何事ですかこれは!?なんですかこの夥しい下級悪魔は!?」
理事長室の扉から繋がっているのはどうやら修道院のようだ、とかろうじて向こう側から聞こえてくる雪男や長友などの修道士の叫び声で認識できたが、修道院の廊下の外見もわからなくなるほど、まさにコールタールの群れでまっくろくろすけであった。
「何事かっていうのはこっちが聞きてえよ!何事なんだよこれはよ!?」
「うわああああ神父さん!!コールタールがひとつに集まってまるで竜巻のようにいいいい!!」
「おーし!もうちっと持ち堪えるんだ!がんばれ雪男!…メフィスト、これはどういうことだ!?」
ライフルを構えつつそこでようやくメフィストは気付いた。藤本は片腕の中に大事そうに一人の少女を抱えていたのである。
「--燐っ!?」
それは顔を真っ赤にして苦しそうに息をしている燐であった。
呼吸の速度も、ふ、ふ、ふ、と早く短く普通ではなくて目は虚ろでしきりに胸をかきむしろうとしているのを、藤本の手で止められている。
すでにむき出しているキャミソールの見える胸元は引っかき傷ができていた。苦しくて自分で引っかいてしまったのだ。
「燐、燐!!どうしたんですか、何があったんですか!?」
「わからねえ!さっき熱があるっぽいつって修道院に戻ってきてからどんどん下級悪魔が集まりだすわ燐はこの通り苦しみだすわで、こっちが何がなんだかわかんねえよ!」
とりあえず藤本の腕の中で苦しみ燐を受け取ろうと、手を伸ばしたが、その瞬間、メフィストの鼻腔に侵入してくる「匂い」があった。
イチゴのような甘い、金木犀のような咽かえるほど艶やかな芳香、または水仙のようなきりっとした涼やかな香。
そんな何かわからないごちゃ混ぜになったような不思議で妖艶で濃厚すぎる、香。
今までも何度か嗅いだことがある。なのに、何故、この違和感に気付かなかった、これは。
「とりあえず燐を頼む!俺は修道院の下級悪魔尾追っ払って結界を張りなおす!俺の娘を頼んだぞ!」
一瞬、伸ばした手を戸惑わせたが、藤本はそのまま燐の震える体をメフィストの腕の中に押し付けた。そして果敢に颯爽と真っ黒に染まる修道院の方へ駆け込んで…あれ?ぎっくり腰じゃなかったのか!?と思わず声に出ていたが、
はあぎっくり腰って去年やったやつかって今それどころじゃねえだろうがよ!!という台詞を最後にばたんと扉は閉められ、ぎっくり腰に関してそれ以上聞くことはできなかったが、確かに今はそれどころではない。
「燐、苦しいんですか!?しっかりしなさい!」
上手く呼吸ができないのかすでに真っ赤な蚯蚓腫れのある胸元をさらに引っかこうとする手を止めて、とりあえず、ソファに寝かせる。
その瞬間、ぶわ、っと「匂い」が増した。思わず鼻と口元を手で覆ったが、まるで効果はなく、嗅覚だけでなく触覚まで通して匂いが侵入してくるのだ。
こんなに強力な「匂い」はもう何百年生きてきたかも定かではないほどの大悪魔でも、初めてだった。
「と、とりあえず、こちらも結界を強化して…ああそのまえに水を!」
燐は苦しそうに、あつい、と呻いた。あつい、あつい。はあ、と漏れる吐息さえ「匂い」の塊だった。とりあえず少しでも体温を下げておかなければ、と思い水を持ってこようとしたが、
ぐい、っと腕を掴まれる。
「り、燐!?」
「……めふぃすと…」
はあ。吐息が落ちる。
虚ろだったはずの目はメフィストを認めた途端、艶かしい光を孕んだのをメフィストは確かに見たのだった。
「めふぃすと、いかないで…」
潤みを持った細い声が、ずん、と石のようにメフィストの聴覚を支配する。
「燐、落ち着きなさい!落ち着いて!!精神を落ち着かせ、」
「めふぃすと…ねえ…」
「すき」
生々しいほどの妖艶な燐の声から放たれる、どこまでも初々しい、言葉に、メフィストは目を見開いた。
掴まれた腕を振り払わなければ不味いとわかっていながらも、それさえ忘れて。
「り、燐…」
「ねえ、すき…すき…」
「ダメです、燐!」
ぐいっとさらに腕を引かれ、急なことに、いや、見えない「匂い」に纏わりつかれて拘束される。
燐の細いけれど豊満な胸を持つ体の上に覆いかぶさってしまった。どさり。ぎしり。ソファのスプリングの音が、嫌に現実的であった。
そしてすかさず、するり、と首に巻きついてくる細い腕の感触も。
「匂い」がする。
イチゴのような甘い、金木犀のような咽かえるほど艶やかな芳香、または水仙のようなきりっとした涼やかな香。
そんな何かわからないごちゃ混ぜになったような不思議で妖艶で濃厚すぎる、香。
「すき、めふぃすと…」
「だいすき」
「だから…わたしを、すきになって」
それはまるで「命令」のようにメフィストの憑依体だけでなくメフィストの本体自身も支配した。頭が割れそうなほどの濃厚な香が鼻から耳から肌からとにかく体全部から入り込んできて、
訴える。
私をスキになって。私をスキになって。私を、
その瞬間、とろけるような目をしてメフィストを見上げる燐が、初めて、メフィストの中で形をその正体を変えた。憑依体が意図せず熱くなるのを感じる。気がつけばメフィストの息も、水を求める犬のように早くなっていて、
とっくに床に落ちたシルクハットにいつの間にかマントを脱ぎ捨てていた。しかし、もうメフィストにはそれらさえ認識できない。
頭がぼうっとする。
唐突にあの風呂での事を思い出す。あの時見た、体に、
豊満な白い胸に、
若く瑞々しい白い肌に見事な腰のくびれに長く鍛えられた足などの、これまで見たことがないほどの健康的で魅力的なバランスを備えた美しいあの体に、触れたい。
気持ちがいい。燐に触れたい触れたい。めちゃくちゃにしたい。
気がつけば、貪るように燐の桜色の唇に食いついていた。
ああ、これは燐のファーストキスではないだろうか、とどこか霞がかかったような頭で思いながらも、ずっと娘のように思ってきた子に噛み付くようなキスをしている自分がどこか他人事のようで、
それでも違和感はなかった。今、燐にキスしていることが当たり前のことのように感じていた。悪魔として当たり前。こんなに極上な「女」がいるのに。
どうして今まで気づかなかった、とさえ思った。
誘う香を放ちながらも何もかも初めてな燐は、拙いが懸命にメフィストの唇を追う。二人の間に響く唾液が絡まり落ちていく音が、生々しい。
自分の衝動をこの時のメフィストはすでにコントロールできず、また自分がどんな状態であるのかさえ自覚できているのかも怪しかった。ただ、目の前の美しい燐を貪りたい。ただそれだけであった。
それだけが、メフィストを突き動かしていた。
「匂い」がする。
イチゴのような甘い、金木犀のような咽かえるほど艶やかな芳香、または水仙のようなきりっとした涼やかな香。
そんな何かわからないごちゃ混ぜになったような不思議で妖艶で濃厚すぎる、香。
誘われるままに、その制服の下に手を這わす。手袋をしていなかったので、燐の薄く脂肪と筋肉のついた女の子独特の柔らかさがある腹を直接撫でた。
絹のように滑らかで、少し汗ばんでいたので手に吸い付いてくる。産毛の感触がある。円を描くように撫でまわす。びくん、と細い体が揺れる。
しかし、メフィストは止まれず、また止まろうとさえ考え付かない。ようやく唇を離せば、はあ、と燐は大きく息を吸った。そして、
ふわり、と花のような笑顔を見せる。
それは、今まさに大人の悪魔の顔をしてメフィストを誘っておきながら、まだ引き取ったばかりの頃の燐の笑顔を思い出させる、そんな幼くまた切ないものだった。
「うれしい」
じわり、とその青い目から込み上げてくる雫を見た。
その瞬間、メフィストの胸に込み上げてくるのは、
溢れんばかりの、幸福感であった。
ほんの少しだが先ほどまでメフィストを支配していた、肉欲的でしかない衝動がなりを潜めた。しかし、メフィストはまだぼうっとする頭で、たぶん、燐に柔らかく微笑みかけたのかもしれない。
あまりにも幸福で。あまりにも燐が可愛らしくて、抱きしめながら、ついばむように丸い額、鼻の上、頬、唇にキスを贈る。そして、ぎゅう、っと顔も見えなくなるぐらい抱きしめる。
ああ、とメフィストは息を吐き出した。
ああ、ああ---------
私はこの子が-------------
「そこまでだ」
じゃき。
冷たい金属の音と同じく冷たい感触がある後頭部にそれ以上の冷気を持つ、元聖騎士の憎悪と呼ぶの生易しい、激しい、殺意。
ざああああ!と一気にその冷気が体を駆け巡り、メフィストは正気に帰ったと、同時に、猫のように身を翻した。何故なら、そのまま藤本が一切の逡巡を見せることなくライフルをぶっ放したからである。
もちろん燐に当たらぬように、確実にメフィストのなんというか、アソコを撃ち抜くために。
「ってぎゃあああああ藤本何を!!!??」
「…何を、じゃねえよ…それはこっちの台詞だ…このクソ悪魔があああああああああ!!!!」
悪魔がいる!とメフィストは己を差し置いてこの時の藤本のことをそう思った。メガネの下の赤い目が、ぐつぐつ、と殺気に煮えたぎっている。その腕の中にはすでに燐が抱きかかえられていて、そのぐったりしている燐を見て、
メフィストはようやく、ようやく、今自分のしたことを思い出した。自覚した。
それと同時にメフィストを襲ったのはとんでもないほどの虚脱感であった。
信じられない。自分が、自分が。燐に。
がぅん!
もう一発のライフルの重すぎる弾がメフィストの顔を掠めた。危ないマジで今のは危なかった。避けなければ確実に眉間を貫いていた。
「てめぇは、今、燐に、俺の娘に、何をしたあああああ!!?」
言葉を切るたびに放たれるライフルにさすがにメフィストもピンクのパラソルで対抗する。自分が今したことは信じられないしまだショックから全然立ち直ってないけれど、
この身を持って確かに理解したことをこの男に伝えなければならない。眉間とアソコを撃ち抜かれる前に!!
「藤本落ち着け!話せばわかる!これはその不可抗力で…!!」
「言い訳は聞かん!一瞬でもてめえを信頼して燐を預けた俺がバカだったぜ!!
あああああ何もかも間違いだった俺は間違ってた!バカだったぜ!三歳の時にてめえに燐を預けたあの瞬間から、全部だ!!てめえに俺の気持ちがわかるか!!?
扉を開けてみれば可愛い娘がこの世で一番ある意味サタンよりたちのわりぃ悪魔に組み敷かれて、唇を奪われているその場面をみちまった父親の気持ちがてめえにわかるかっ!死ね!
今すぐ死を持って燐の唇を奪ったその罪を償え!悪魔だけど償え!そして虚無界に落ちて二度と這い上がってくるなああああ!!」
「だ、だから、藤本!これは、この原因は…燐は-------------」
ダメだ。すでに話しのできる状態ではない。理事長室はすでに破壊の限りを尽くされている。
もう数分も逃げられないかもしれない!とメフィストが今の今まで抱いたことのなかった生命の危機を感じたとき、ようやく修道院から駆けつけてきた雪男達が荒れ狂いながらメフィストを追っかける元聖騎士の姿に愕然となりながも、
何があったかわからないけど原因を究明するためにも殺しちゃダメだ!燐のためにも!
となんとかその元聖騎士を止めるまで、メフィストは生きた心地もしなかった。
「…フェレス卿…なんでこんなことになっているのかわかりませんけど!とにかく姉はしばらく修道院で保護します!原因と解決方法がわかったらすぐに連絡してください!」
と、燐がメフィストと濃厚すぎるキスを交していた場面を目撃してない故、冷静でいられた雪男は先ほどよりは熱は下がったらしいでもまだ苦しそうな燐を抱きかかえて、
離せええええ俺はあいつを殺すんだあああああ!と荒れる藤本を修道士全員で押さえつけながら、ばたん!と扉を閉めるまで、メフィストは呆然と半壊した理事長室に突っ立っていた。
そして、へなへな、と崩れ落ちる。
まだ「匂い」は残っていた。
イチゴのような甘い、金木犀のような咽かえるほど艶やかな芳香、または水仙のようなきりっとした涼やかな香。
そんな何かわからないごちゃ混ぜになったような不思議で妖艶で濃厚すぎる、香が。
しかしそれはもうメフィストを突き動かさない。欲にまみれさせない。何故ならメフィストは打ちひしがれていたからである。娘として妹として育ててきた、女の子に。
今までずっとその女の子の中にあった自分に向けられる恋心さえ、おもちゃのようにしか楽しんでいなかったのに。
その燐に、キスをした。
ぞろり、と自分の唇を爪でなぞる。信じられなかった。何もかも。燐にあんなことをしたことも、今の今まで気付かなかったことも。
なんてことだ。
燐はずっと、発情していたのだ。
2012.6.27