ぐちゃぐちゃまざって

 

幸せな夢を見ているんだと、思っていた。
あつくてくるしくて、体がむずむずして、せつなかった。 頭が視界が洗濯機のようにぐちゃぐちゃまざって、なんとか修道院に戻ったところから記憶は曖昧で、でも、 幸せな夢を見ているんだと、思っていた。

メフィストがキスしてくれた。

認識できたのはそれぐらいで、一体自分がどんな状態でメフィストにすがり付いていたのか、 燐は朧にしか覚えていないが、それでもメフィストが自分にキスをしてくれてとても柔らかい、今まで見たことがないほどの慈しみと愛に溢れた顔で微笑んで、 ついばむように丸い額、鼻の上、頬、唇にキスを贈ってくれた。そして、ぎゅう、っと抱きしめてくれた。うれしかった。死ぬほどうれしかった。 そしてどんどんどんどん、私をスキになって欲しい、と全身で訴えるつもりでその腕の中にいたような、気がする。
「スキ」という言葉も言えた。 言ってしまえば、とてもすっきりした。どれだけ自分がこの言葉を本当は言いたかったのか、燐は初めて知った気がした。
だから幸せな夢を見ているんだ、と意識のはっきりしない内はそのように思っていた燐だったが。

目覚めた途端、クリアになっていく記憶に、あれは夢ではなくてならば自分の身に何が起きたか、メフィストに何をしてしまったのか、本能で自覚した。

ベッドに寝かされていたようで、がばり!と身を勢いよく起こせば、自分を覗きこんでいた養父とおでこをぶつけて、養父は悶えていたが、その養父に全身で縋りついた。 恐ろしかった。熱に浮かされていた時の自分の状態も。メフィストにしてしまったことも。この時の燐には自分の身に何が起きたのか正確には理解していなかったが、 それでも自分が何をしてしまったのか、本能でわかっていた。

「とんでもないことをしたメフィストに、スキになって欲しくてスキだから、だからずっとスキになって欲しいなんて思っていたけど、でもこんなつもりじゃなかった。 こんなことになるなんて思わなかった。俺はやっぱり悪魔だ。メフィストに「命令」したんだ。スキになって欲しいって。だから全部俺が悪いんだ。 あんなことになったのも。メフィストをスキになった俺が全部悪いんだ。だからもう、メフィストの側にはいられない。いちゃいけなんだ」

混乱してワケがわからなくて、他にも言葉にならない何かを叫んでいた気がする。養父はその間、ずっと燐を抱きしめていてくれた。 背中を撫でて、短くなった髪を撫でて、大丈夫大丈夫だ、ともう少し寝ていろ、と興奮してわめく燐をなんとか宥めて、もう一度ベッドに寝かせた。

この時、藤本獅郎は娘がずっと抱えていた切なくけれど深い恋心を初めて知ったのである。











「…燐は発情してたんです」

『てめえ!俺の娘を盛りのついた雌猫みたいに言ってんじゃねえ!!!!』

がちゃーん!ツーツーツー。と耳から響く音が鼓膜に痛い。その前に藤本の声もでかすぎてキーンと耳鳴りがしたぐらいである。 ツーツーツー。応答のない携帯電話に耳を当てながら、メフィストは片手で額を覆った。
燐がキッチンに立ってくれなくなって、がらん、と寂しくなった白いテーブルのイスに腰掛けて、メフィストは深く項垂れた。 燐にキスをしてしまい、藤本に殺されそうになった時からまだ半日しか経過していない。時刻はすでに夜0時を回っていて、メフィストしかいない何故か電気をつける気にもなれなかったキッチンは、 ひたすら真っ暗で寂しかった。
一度携帯を切る。絶対もう一度かかってくるだろうという確信を持って。数分経過してから、やはり、ぶるぶる携帯が震えた。迷うことなく通話を押す。

『----------一体どういうことだ?』

「さっき言った通りですよ…燐は発情してたんです。たぶん…少し前ぐらいから」

『先に聞いておく。燐はてめえが好きだそうだ。さっき混乱しながら話していた。…てめえはそれに気付いていたのか?』

怒声を上げたいのを堪えているような震えのある声であった。今、対面していなくて電話でよかったかもしれない、とメフィストは思う。 まず間違いなく屋敷も半壊されるだろう。ふう、と一度息を吐き出してから、

「…はい、そうです…」

と重い一言も吐き出した。

メフィストが正確にあの「匂い」を嗅いだのは、記憶を探れば燐がソファで寝ていた時に起こそうとして、首に腕を絡ませられ、甘く「メフィスト」と呼ばれた時だったような気がする。 あれは今からそんなに前のことでもない。おそらく一年ぐらいは前だ。ちょうど「この子は私に恋をしているんだろう」と気付いたぐらいで、 思えばその頃から燐のメフィストに対する態度が、明確化してきた気がするのだ。
メフィストを追う視線やふとした時に指先が触れたりメフィストがふざけて髪の毛に触れたときに見せる反応。 顔を真っ赤にして金魚みたいに口をぱくぱくさせて、終いにはメフィストを蹴り倒して照れ隠しをしたり。 新作の料理をメフィストが口に運ぶとき、固唾を飲んでそれを見守り、おいしいですよ、と言えば蕩けた顔で、よかったあ、と笑ったり。 風呂上りのメフィストを見たとき、いかにも熱に浮かされたような目で濡れたままのメフィストの髪を眺めていたり。
恋というものが気持ちや心にだけ影響して相手を「想っている」段階にしか進まない、そんな幼い恋ではなくなって、相手が欲しい抱きしめて欲しいキスして欲しい、といった風に明確な性的欲求につながり始めていた時期だったのかもしれない。
あの後、下から這い上がってきたアマイモンをとっ捕まえて一体いつぐらいから燐の「匂い」に気付いたのか、と拷問…問い詰めたのだが、やはり「ここに来たぐらいからですが、 その「匂い」がはっきりしてきて、おそらく兄上に向けられるようになったのは、一年は前だと思います」と答えられた。アマイモンを呼び寄せたのは二年前。 おそらくだがその頃丁度燐はメフィストに対する恋心を自覚し始めていたのだろう。そして無意識に「匂い」を放ち、その恋がはっきりと欲求になるようになってからようやくメフィストも「匂い」に気付き始めた、というところかもしれない。

しかし、その「匂い」の意味を理解していなかった気付いていなかった。

何故。

簡単だ。メフィストほどの悪魔になればそう簡単に雌の誘惑には乗らないということもあったのかもしれないが、それ以上に、 燐のことをいつまでも絵に描いたような恋しか知らない、 身近にいる年上の男に対する憧れに近いものなんだと思い込んでいたから。 それならば、これから先、燐が本当の恋をしてしまえば脆く崩れ去っていくものだと決め付けていたから。

そのようなことを要約して、電話の向こうに伝えた。その間、藤本は一言も何も言わなかった。

『…燐は半分人間だぞ。淫魔ならわかるが、半分人間の燐が雌猫みてえに発情なんてするのか?』

「…一説には実は人間にも発情期というものがあって、しかしそれは微量すぎて気付かないだけだというものもありますから…… 人間の部分も、もちろん関係あると思いますけど、今回は圧倒的に悪魔の部分が原因です」

『やっぱりか…』

「ええ、あなたも知っての通り悪魔には様々な種類がいますから、物質界の生き物と同じく発情状態にも様々な形があります。虫のように鳴き声とか、性フェロモンを発生させるとか。 …しかし知能や位の高い悪魔なら発情状態を正確に抑えたりコントロールすることができます…。自分が興味を持った悪魔、自分に振り向いて欲しい悪魔を誘惑するために、 自ら発情して誘惑するんです…これだけだと淫魔の類とほぼ同じですが、位が高くなればなるほどその力は強くなりますし、 淫魔程度のような下品な「匂い」とは比べ物にならない。燐はサタンの娘ですから…その「発情」も力があるんでしょう。それこそ種別関係なく下級悪魔やヘタを打てば上級悪魔さえ寄ってくるような。 厳格な「命令」にさえ近い形で。 そして燐は、無意識にこれをやった…」

『おまえに振り向いて欲しくてか?』

メフィストは答えられなかった。まず間違いなくそうなのに、あの燐が無意識とはいえそれをやっていたことが、未だ信じられなかった。そしてそれに惑わされた自分のことも。

『おまえは、』

くっと一度息を飲み込むような音のあと、心底、失望したように藤本は言い放った。

『気付いていながら、何をやっていたんだ』

楽しんでいた。とはとても言えるはずもなく。
楽しんでいた。燐が自分に向ける幼いと決め付けていた恋心に。いずれ消え行くものならば、今のうちに楽しんでおこう優越感を味わっておこう、と放置してそのままにしておいたのである。 燐がずっと言わなかったということもあったのかもしれないが、考えてみれば自分の、燐をずっと娘扱いして、もう燐の恋心は「子ども」のようなものではないのだ、ということを 認めなかった自分のことを、燐はわかっていたから。だから言えなくしたのはメフィストのせいであった。



『すき、めふぃすと…』

『だいすき』

『だから…わたしを、すきになって』



甘く切ない燐の告白が、未だ耳の側で言われているかのように響いている。
どれだけあの言葉を溜め込んでいたのか。そしてメフィストと今までにない諍いを起こしたことによって、不安定になって、ゆるやかに爆発したのだ。 胸をかきむしるほど、苦しかったその恋が。

『…この際、なんで燐がてめえみたいな悪魔を好きになったのか、俺には永遠にわからねえ謎のことは置いておく。 燐には俺から伝える。さっきは混乱してたが、あいつも、もう16歳だ。悪魔の力のせいで発情してたってことはしっかり話す、俺からだ。そしてしばらく修道院で預かるっていうか…もうこっちで引き取ってもいい』

「はあ!!??」

藤本の言葉にメフィストは思わず、項垂れていた顔を上げた。

「ちょっと待て藤本!勝手に燐の身寄りを決めるな!」

『て、めえ、はあああああ!!てめえこそ何を言っていやがるんだああああ!!』

キーン!と二度目の強烈な耳鳴り。メフィストはしかし負けじと電話に耳を当て続けた。

『もともと!燐をてめえに泣く泣く、泣く泣く預けたのは燐のことを守るためだ!きちんと炎と悪魔の力をコントロールできるようになってヴァチカンにその存在を明らかにしても大丈夫なようになるまで! 現に燐にはそれができた!まだ危ういところはあるが、ヴァチカンは燐を戦力として認めているし、燐もまだまだ爪が甘いが一人前の祓魔師だ!もうてめえが燐に教えることもねえし、 てめえのところにいる必要もねえんだよ!!』

「確かにもう炎のコントロールは完璧だが…だが!悪魔としての発情が暴走しているなら、まだ私は燐にそのコントロールの仕方を教える必要が…!」

『真っ先に惑わされてた奴が言ってんじゃねえ!!!!一番危険な悪魔がいる場所にいつまでも娘を預ける父親がこの世にいるか!!?いねえんだよ!! それに、燐も、もうおまえの側にはいられねえって言ってるんだ!!』

出て行く、と言った燐の言葉を思い出す。そんな、あれは本気なんかじゃないはずだ。ケンカのことを怒っていて舞踏会で放置したことを怒っていてだから、意地を張っているだけで。

『あの子は優しい!だから不可抗力とはいえてめえにとんでもないことをしたって、混乱したんだ!!おまえは悪くない全部自分が悪いって言うんだよ!! あんなに優しい子はいない!だからてめえの側にいるのが辛いなら、俺は燐を預かる! 』

「ふ、藤本、待て!!」

『燐が落ち着いたら、てめえとはまたきっちり話し合おうじゃねえか!首洗って待っておけ!ついでに遺書でも書いていろ!………あとなあ!自分が燐に対して本当はどうしたいのか、よっく考えておけ!! 話はそれからだ!!』

ぶつ!ツーツーツー。
後半ほぼ一方的に怒声を浴びせた藤本は本当に電話を切ってしまった。メフィストはしばし呆然としながら、 このキッチンで食卓で、出て行く、と言っていた燐の姿を思い浮かべていた。
出て行く。燐が出て行ってしまう。自分の元から離れていってしまう。
この時のメフィストにはそれしか考えられなくて、自分が燐に対して本当はどうしたのか、とたった今藤本に言われた言葉さえ、忘れかけていた。











気がつけば、燐の部屋にいた。
女の子の部屋を勝手に見るなどマナー違反だとわかってはいたが、メフィストは燐の部屋にいた。夜目は効くので電気もつけず、大きな窓から零れる月明かりだけが部屋を照らしている。 部屋は、がらん、としていた。いつもはいくら言っても、それなりに散らかっているはずの燐の部屋はがらんとしていて、衝動的にクローゼットの中を見れば、 舞踏会で燐が着ていた白いドレスだけを残して、あとの 荷物はごっそりなくなっていた。出て行く、と言っていたときはバッグ一つ分の荷物と修道院で食事を作るための食材しか持っていってなかった。 修道院に泊まっていた2日間の間に、こっそり夜中に戻って必要な荷物を持ち出していたのだ。
藤本の看病だと嘘までついて。
そのことに、頭の中が怒りに染まる。嘘のヘタなはずの燐の嘘をあの時、見抜けなかった。おそらく嘘自体は弟の雪男の入れ知恵だろう。 一瞬、メフィストは燐を自分から逃した双子の弟の喉を切り裂いてやりたい、という悪魔の衝動を覚えたが、ぐっと抑えこむ。
物のなくなっていたクローゼットにベッドサイドの引き出しも開ける。何か探らなければあらゆるものの抑えが効かなくなりそうだった。そうして四つあった引き出しの一番下を開けたとき、 16歳の燐の誕生日に贈ったバレッタが出てきた。ころん、と引き出しの中で転がったそれは、月明かりに照らされてきらきらと輝き、落ちていく。
思わずそれを手に取った。これをあげた時、燐はとても喜んでいた。結局苦いものにしかならなかった舞踏会だったが、あの時もつけてきてくれた。 喜んでいたはずだ。これは燐にとって大事なもののはずだ。メフィストが与えたのだから。だからこれを取りに戻ってくるかもしれない。
そう考えて、バレッタを手の中で握ったとき、違和感に気付いた。
そっとバレッタを裏返して留め金の部分を見る。
そこには、明らかにハサミで乱雑に切られたのだろうという髪が一房、絡まっていた。











深夜の3時。メフィストは睡眠時間が平均1時間というふざけた奴だ。平均睡眠11時間の燐には理解できない。けれど、割と不規則ではあるが深夜の3時頃ならその短い睡眠についていることが多いのだ。 寝ているぐらいで気付かれないとは思わないが、なんとか2日間は気付かれずに済んでいる。

まだ、頭は少し混乱している、のだと思う。

養父にもう少し寝ていろとベッドに寝かしつけられながら、別の部屋で養父とメフィストが何か電話で話していたことには気付いていた。ただ布団を頭から被って聞かないようにはしていた。 それからしばらくして、思いつめた表情の養父がやってきて、燐の頭を撫で、深く痛々しいため息を吐き出していた。もう50歳もすぎた養父にそんなため息を吐き出させる自分が情けなくて、 燐は寝たふりを止めて身を起こした。驚いた養父に構わず、自分に何が起きたのか言って欲しい、と請えば、養父は戸惑いながらも全て教えてくれた。 燐が受け止められると信じて。受止めきれなくて辛いのなら俺が支えてやる、ということを覚悟して。
本当に自分の父親はこの人だけだ、と燐は思う。
そして止める養父に構わず、そのまま屋敷の自室へ繋がっている鍵で、残りの荷物を全て持って行くことにした。もう朝日が昇る前に全て終わらせておきたかったのだ。 朝日が昇って迎えるその一日を、何の未練もない一日にするために。新しい一日にするために。
あれを持っていこうかどうか最後まで迷っていたけど、やっぱり持っていこうと思った。我ながらなんて未練がましいんだと呆れるけれど。

ぎい。

ゆっくりあけたつもりが少し軋んだ音を立てたドア。身を固くしながらも、後ろ手でドアを閉めて、真っ暗で月明かりだけが零れる自室に入る。

「おかえりなさい」

途端、部屋の中から響いた声に、全身が強張った。
おそるおそる確認すれば、ベッドの端にメフィストが腰掛けていて、緑の目でじっと燐を見ていた。 月明かりを反射してそれは、まるで夜中の動物のように光っている。それなのに、顔は無表情で、少しアマイモンを思い起こさせた。
「探し物はこれですか?」
なんで部屋に、という前にメフィストは手に持っていたものを差し出してきた。ベッドから腰を浮かして。その紫の手袋の中にあるのは、 燐の求めていたもの、最後までどうするか迷っていたバレッタがあった。
「…返して」
思ったより細い声しかでなかった。メフィストの顔を見ないように床に視線を落す。スーツの布擦れの音がしたから、メフィストは燐に近づいてきているのだろう。 案の定、月明かりの作り出す影が燐の上に落ちる。
「これは、何ですか?」
バレッタを持っていない手の指で摘まれているものを見せられて、燐は目を見開く。
そこには、あの時、ハサミで乱雑に切った髪が一房。自分でしたことなのにひやっと背筋に冷たいものが走った。もちろん、あの後、髪の毛一本残さずに掃除したつもりだったのだが、 バレッタは引き出しの中にすぐに放り込んでしまったため、そこに挟まっていた髪だけ見逃していたのだ。
それはまだラメがついていて、きらきら、と輝いている。
「…自分でハサミで、切ったんですね」
「………」
「何故、そんなことを。それに、2日間で荷物まで持ち出して、藤本のことで嘘までついて。何故、そこまでして、」

確信しているメフィストの言葉に言い訳もできず、一生分だったかもしれない嘘の演技はあの時、使い果たしてしまった気がする。 短くした髪を「似合う?」と笑っていたことも。

「何故そこまでして、私から離れていくんですか?これも私への当て付けですか?」

本当にわかっていないメフィストの言葉に燐は力なく笑った。燐のそのどこか退廃的な笑みを始めて見たメフィストは、眉をひそめる。 メフィストの中で燐はいつも、明るく大口に少女のように笑っているからだ。
「…あんなことあったのに…まだいるっていう方がおかしいだろ」
思い出すともう恥ずかしさを通りこして、自嘲しか浮かばない。言うつもりじゃなかったのに。それでも「スキ」と口走ってしまったことが少しすっきりしている自分も嫌だった。
「あんなのは…またコントロールを覚えればどうにでもなります。だから、まだここにいないと、あなたは」
「コントロール覚えたって…どうにもできないもんだってあるんだ。あんただって…わかっただろう…俺は」
完全に隠しきれていたとは思っていなかったけど、はっきりと言葉にしてしまった。ならばもう避けようがない。燐は顔上げる。メフィストは、目を細めていた。
「あれは…ねえ、燐…あの時は…すみませんでした。私も「匂い」に惑わされて、どうかしていた。 だからあんなことになったんです。あなたが責任を感じることはありませんし、あなたがコントロールさえ覚えればもう二度とあんなことにはなりません」
「…俺がハツジョーってやつしてたから?だからキスしてくれたの?だから抱きしめてくれたの?だから…微笑んでくれたのかよ?」
メフィストは一瞬言葉に詰まる。
「私は…」
あの時、燐に何を想った?しかしメフィストはそれがわからない。悪魔としての残虐な性欲をあの時燐に向けていたのも確かだ。こんな儚い子に、そんな醜いものをぶつけるなんて、 あってはいけない。いけないのだ。間違えてもいけない。だから、あの時感じた肉欲以外の何かもきっと誘発された思い違いに違いない。 そうでなければ、燐にまた間違えて今度こそメフィストは自分の制御を失ってしまう気がしていた。それが恐ろしいのだ。だから。

「…ええそうですよ。そうに決まっている。だから安心しなさい。もう二度とあんなことしません。だから、安心して帰ってきてください。燐、」

「…俺、おまえが本当はどうしたいのか、もうわかんねえ…」

しかし、燐は、手の中をバレッタを一瞥だけすると、興味を失ったようにメフィストに背を向けた。メフィストは慌ててその腕を掴む。

「離して」

「ダメです。まだ私は何も許していない。燐、あなたの気持ちはわかっていますけど、これから世界が広がればなくなるかもしれないし、 あるいは発情してたために身近な悪魔に反応しただけかもしれませんよ。だから、コントロールさえ覚えれば、もうあんなことには」

「離せっていってんだろ!!」

ぎらっと暗闇の中で青い目が輝いた。一瞬、腕を掴んでいた手が熱くなる。手袋の焼ける感触に青い炎まで微量に出しているのだと気付いた。
はっきりとした拒絶に、メフィストの目の前が一瞬赤くなる。

「---------燐っ!!」

ぱしんっ!

渇いた音が響いた。

「………」
「……あ…」

しまったと思った時にはもう遅かった。
燐の右の頬がみるみる赤くなっていく。燐は叩かれた衝撃に顔を少し横を向けながら、呆然と、頬を撫でた。
そして、堰が切れたように、ぼろぼろ、とその目からきらきら光るものが流れて、落ちていく。
やがて、ひくひく、と嗚咽まで漏らし始めた。
メフィストは燐をぶってしまったことに愕然となりながらも、どこか頭の片隅で、引き取ったときに泣いていた燐を思い出していた。大粒の涙を堪えるように口を曲げて、 ぼろぼろと。今の燐もそれと同じで、思い返せば、あの時以来、燐の泣き顔をはっきりとは見ていなかった。
「り、燐…」
自分で叩いておきながら戸惑うメフィストは、頬を冷やさないと、と言いかけるが振り払われた腕に何も言うことができなくなった。

「わかれよっ!!どうして俺が出て行きたいのか、俺は自分のことはっきりわかってもう出て行くって決めたんだ!!おまえのこと好きだから! でもどうしようもねえから!だから、役にたたねえ髪も切った、出て行くって決めた! おまえは俺のこと好きになってくれないってことぐらいわかってるし、わかってるのに、あの時俺はおまえが、メフィストが俺のこと好きになってくれたらって、 無意識だったかもしれないけど、そう思ってそうなるようにしたかったんだ、しようとしたんだ!俺はサイテーだ!コントロールとかそんな問題じゃない!おまえが好きだから!だから、 一緒にいたらもっとどうしようもねえんだよ!!わかれよっ、そんぐらい!!このバカ!…もう辛いんだ!………わかれよ……っ…せめてハツジョーとかそんなの関係なしに、 おまえのこと本当にスキだってことぐらい…わかって…くれたって…」

だんだんと弱々しく細くなる声をメフィストはただ聞いているしかできなかった。燐は乱暴に涙を拭うと、いつの間にか床に落ちていたバレッタをもう一度だけ見て、 やっぱり未練残るから持っていかない、とだけ呟いた。そして振り返ることなく、ドアに鍵を差して、扉を閉めた。



後に残されていたメフィストがどんな顔をしていたか、見る勇気はなかった。



もう、全部、ぐちゃぐちゃだ。











扉の向こうで待っていた養父に抱きつく。あとはもうわあわあ泣いた。 三歳の時、お別れしたときだって泣くのを堪えたのに、あの時、本当は養父と弟の前で泣きたかった分も泣いた気がする。

「…俺、サイテーだ、やっぱり悪魔だ!!俺、サタンの娘なのに、 ジジィも…父さんもいて雪男もいてメフィストもいて今まで大切に守られてここまで生き延びてこれたのに、それだけで充分恵まれてるのに!メフィストに俺のこと好きになって欲しいってばかり思ってて! 本当は正気に返ったとき、ハツジョーでも悪魔の力でもなんでもいいからメフィストが俺のこと好きになってくれればいいのに、って思ったんだよ!そんなんじゃ、そんなんじゃ意味ねーのに! わかってるのに…なのに、どんどん欲しくなる!全然足りなくなるんだ!だから俺はサイテーだ、ただの悪魔の娘だっ……!!」

ぐちゃぐちゃにカソックをぬらしているのに、養父はただ燐を強く抱きしめた。そして、大丈夫だおまえは普通の女の子だ好きな奴にスキになって欲しいって思うのは当然で当たり前のことなんだ人間として当たり前だ、だからおまえはサイテーじゃない、 悪魔でもない、どこまでも普通の女の子だ。と言ってくれていたが、舞踏会で見た悪魔の世界とは関係ない白いドレスに身を包む女の子達と同じ「普通の女の子」だなんて、燐にはどうしても思えなかった。

どうしても、思うことはできない。三歳の頃から自分の異常性を自覚して、ずっとそれを背負って生きてきて、これからも、そうだからだ。







もう全部、ぐちゃぐちゃだった。











2012.6.30