「姉さん、本当に大丈夫なの?」
雪男の呼びかけにぼんやりと緩んでいた気を引き締める。しかし、そんな燐の様子などお見通しなようで、雪男は深いため息をついた。
時刻は夜8時半頃。雪男はわずかな月明かりに頼りながら腕時計の時刻を確認する。とある廃墟のビルから数十メートル離れた同じく廃墟の古いアパートの一室である。
スプリングが突き出たままの汚れたソファやもう使われていないが今時は珍しい黒電話(といっても修道院の電話はこれと同じ形状だが)。シーツもぼろぼろで虫に食われているベッドなど。
建設時はそれなりに小奇麗だったかもしれないことを思わせる今は廃墟のアパートの一室の様子である。そこに双子は待機して、窓から見えるおどろおどろしいほど壁が汚れで黒く染まり蔦も絡まり放題の
廃墟のビルを睨んでいた。
「大丈夫だって」
双子同じく祓魔師のコートに身を包み、背中にはしっかり倶梨伽羅を背負った燐は、眠そうに目をこすっていた。
「大体、この一週間任務を入れすぎなんだよ。普段11時間も寝るくせして。僕じゃないんだから、いきなり4時間睡眠に挑戦しなくてもいいだろう。
いくら悪魔の体力があっても姉さんだって疲れることは疲れるんだから」
いかにも眠そうな姉のここ一週間の激務っぷりを見ている雪男だからこその警告だが、この一週間、燐はその警告をほとんど無視している。今の言葉も無視された。
それでも眠そうに目を数度瞬きさせる姉の姿に、弟は心配せずにはいられない。
メフィストの屋敷を出てきてもう一週間。その間燐はメフィストのことを忘れようとわざと忙しくてしていることは明らかだった。
雪男は一週間前、養父にすがりついて泣き叫ぶ燐の姿を見ている。
いつかこうなるだろう、ということはわかっていたけれど、いつかこうなるのなら自分が全力で慰めて励ましてあげればいい、と雪男は考えていたが、実際に燐を慰めて励ましたのは養父だった。
雪男自身はほとんど何もできていない。せいぜい、養父に言われたように無理な任務ばかり受ける燐をサポートするためにこうして任務に付いてきていることぐらいだった。
あんなに泣いてしまう前に、やっぱり諦めさせたほうがよかったんだろうか。
何度もそう悔やんだが、後悔しても何も変らない。泣き喚いて盛大な失恋をした燐はその翌日にはけろりとして、養父や雪男や修道士達に食事を作っていたし、普通に学校も行った。
塾の講師も休んでいない。そして次から次へと任務を入れている。それが雪男には余計に痛々しいものであった。
けれど不思議なことに、燐がそうなってから下級悪魔はもう燐の周りに集まらなくなったのである。燐が悪魔を引き寄せる匂いを発していたことは、養父の説明から雪男も把握していたし、
2、3日は当然警戒していた。対策も見つけようとはしていたが、不思議なことにぴたりと兆候はなくなったのである。
燐の中で気持ちの整理がついたかあるいは諦めがついたか、それとも盛大に泣いて気が済んだだけか。
と苦々しく推測していたのは養父であったが。雪男はそのどれでもないと思う。きっと今でも好きなのだ。姉を弄んだ挙句、
出て行くといえば出て行くなと捕まえて頬をぶつような身勝手な男のことが。
なんであんな悪魔がそんなに好きかな。
やはり雪男には永遠にわからない謎であった。そして、その失恋の痛みを忘れようと必死になっている姉をこうしてサポートしかできない自分も情けない。
そんな気がして、何も言わずに短くなってしまった燐の頭を撫でてみた。燐は大人しく撫でられていた。
「…本当にもう大丈夫だから、雪男」
「…そう?」
「うん…だからおまえもさ、早く寮生活に戻れよ。もう一週間だぞ。原則、全寮制なんだからさ」
「…でも姉さんが心配だよ」
雪男の気持ちに燐は少し悲しげに微笑むと、雪男の肩に頭を預けてきた。雪男も何も言わずにその頭を撫で続ける。
「わりぃ、ちょっとだけ」
「うん」
肩に顔を埋めている燐がまだ泣いている気がして、けれど雪男は燐の性格を知っているのであえてそこは見ないようにする。
世の中には涙を武器にする女はごまんといるが、燐は泣き顔を見られるのを嫌がるというか思えば雪男の前で泣いたことはなかったのだ。
もしかしたら三歳のお別れの時、本当は泣きたかったかもしれないのに。そう思うと当時、何も考えずにただ姉と離れることが悲しくて盛大に泣いていた自分は随分姉に甘えていたのだな、と
今更ながら自覚する。
そうしてしばらく双子は、身を寄り添いあっていたが、もう大丈夫、とか細い声で言ってから燐は体を離した。そして、暗闇の中でも猫のように煌く青い目で窓から見える廃ビルを睨む。
「ところで姉さん…今日の任務内容ちゃんと把握してるの?」
「おい、姉ちゃんをバカにすんなっていってんだろ?わかってるに決まってるじゃん!」
いつもの調子で燐の頭の弱さを確認する雪男に、きい、っと牙を見せて怒ってみせる。普段と変らないその様子に安堵して笑いそうになるのを堪えながら、じゃあ言ってみて、と
先生面して促してみると、燐は数秒黙ってから。
「…不法な鍵の取引の証拠集めと、できれば現場押さえて犯人の捕獲」
「よくできました」
「だから、バカにすんなって!」
双子というより燐が本部からきた任務で請け負ったのは、祓魔師の間で使用している「鍵」の不法な取引の調査であった。
扉の鍵穴に差込さえすればその鍵の効果によって一瞬で別の地へ移動できる。この鍵は祓魔師の間でとても重要でもちろん上級の祓魔師から下の階級の祓魔師へ使用許可の出ていない鍵を受け渡すことは固く禁じられているし、
ましてや一般人との受け渡しなど言語道断である。
しかし、本部の調査で近頃、一般人へこの鍵の譲渡を疑われるような事象がいくつか浮上しており、さらなる調査の結果、
「今夜は日本のここで取引があるらしい、だっけ?」
「そう。まあ手騎士の使い魔が掴んだ情報ではっきりと祓魔師が確認したものじゃないから、どこまで本当かわからないけどね」
「でも祓魔師ならともかく一般人に鍵なんて渡してなんか意味あるの?」
首をかしげる燐に雪男はメガネのブリッジを上げた。
「所謂、商売にするんだよ。一瞬で他の地に移動できる鍵なんていくらでも欲しがる人はいる。なるべくお金の持っている一般人に高値で売りつけるのさ。
っていうか、この辺までは任務の依頼書にも書いてあったと思うけど?」
「…うっ…」
「まあいいや、もう時間ないし。つまりその鍵を金銭で取引している祓魔師とブローカーとの取引現場を押さえて当然生きたまま捕獲すること」
「ぶろーかー?」
「…売買の仲介をする人のことだよ。祓魔師からいきなり一般人への取引は危険も多いし何より情報漏れしやすい。だから鍵の受け渡しのためにまた別の人物が、仲介をするのさ。
鍵を渡しているとんでもない祓魔師から売る鍵を受け取って、そのブローカーがようやく一般人と接触して取引して成立させ、報酬を分け合うんだよ。……まったくもってモラルのない話だよね。
祓魔師の自覚もない…恥だ」
雪男の説明に正直所々「?」を浮かべた燐だったが、確かにあまり気持ちのいい話ではない。むしろ、気分が悪くなる。
金目的で大事な、時に自分の命を守ることにもなる鍵を売ってしまうなんて。
それよりなにより、一般人に広まってはとんでもないし、様々な事件に悪用される可能性も充分にある。
けれど燐は知らないし理解はできない。その職業のプライド、捕まった時の代償、自身の命よりも金を重要視し、あるいはどうしてもそれが必要な人間がこの世界にもごまんといることを。
「でも、それって悪魔関係なくねえ?」
「いや、わからないよ。こんなモラルのない取引しているなんて、悪魔の甘言に乗っているか憑依されているか、もしかしたら悪魔落ちもあり得る。…でも、
本当に恐いのは悪魔が一切関わってないのに、そういうことをする人間がいるってことなんだけどね…」
要するに、悪魔が関わっていなければいくら不当な取引をしてしまった祓魔師であっても一応仲間、さらには一般人であろうブローカーまでとっ捕まえるという、
あまり話のよくない任務内容なのである。だからこそ、サタンの落胤である姉に要請されたんだろうな、と雪男は気付いているが、燐は気付いているのかどうか。
悪魔が関わってないなら嫌な仕事だよな、と眉をしかめてビルを睨んでいるばかりである。
いざ、本部に都合の悪いことになったらすべて姉に押し付けるつもりだろう、と雪男は本部の本音まで推測して自然、眉間にシワが寄る。
以前だってこういう任務をやっていたこともあったが、その時には決して燐の不都合にはならないようにメフィストが守ってくれていたのだ。
そうだよな、なんだかんだであの悪魔、姉さんを守っていたっけ…と雪男はあの見ているだけで腹のむかむかする悪魔の笑みを思い出してしまった。
けれど、もう姉はあの悪魔の手を取ることはないだろう。取る必要も、もうないのかもしれない。まだまだ経験不足だけれど、
もう一人前の祓魔師なのだ。こうしてどんどんあの悪魔の手から離れて、そして忘れていくのだろうな。
「…忘れられるかな」
唐突に燐が呟いた。雪男はまるで今自分の考えたことが見透かされたように気持ちになった。
「…いや、わりぃ…忘れるってもう決めたんだ」
今はそれより任務だ、任務!
とわざと明るく胸を張る姉の姿が雪男は一番痛々しいのだ。そして最後とばかりに燐の頭を撫でて、さあもう行くよ、と時間を確認しつつ廃ビルへの侵入を促す。
情報から取引の時刻として設定されている夜9時頃。別ルートにいる祓魔師二名と共に廃ビルに侵入して、中を捜索する手筈になっている。ちなみに、
その別ルートから侵入する予定である男性の祓魔師二名は共にまだ経験の浅い新人であり、竜騎士の資格のあるもの一人、もう一人は詠唱騎士の資格、そして医工騎士称号の取得のため勉強中だとか。
竜騎士はともかく悪魔が関わっていないのなら詠唱騎士の方は戦力にはならないだろう。しかも一般人を相手にする可能性があるので銃の装備は二つ。
一つには対人間用にただの麻酔弾を。もう一つは対悪魔用に聖銀の弾を。一瞬の判断が重要だ。もちろんその判断をするのは雪男である。燐は武器を使用せずともその怪力だけで人間ならば簡単に押さえつけられるので問題ない。
が、新人達が大丈夫かどうか。雪男はわずかに引っかかる不安要素を抱えつつ、姉より先を走り、ビルの中に侵入した。
もうフェレス卿が守らなくても、僕が姉を守る、と強く自分に言い聞かせながら。
廃ビルは旅行者用のホテルだったのか。この廃町は、かつてバブル景気に乗っかって高級品ばかり揃えた商店街で賑わっていたそうだが、バブルの崩壊とともに膨大な借金だけが町に残り、数年後あえなく廃墟と化したという。
その頃の名残なのだろうか、フロントを思わせる広間の天井にはぼろぼろで所々折れているシャンデリアがあって今にも落ちてきそうだし、床に敷かれているかつては赤かったのだろう絨毯は、毒々しい赤黒さに染まっていた。
割れた窓から流れてくる冷気と漏れてくる月明かりだけが、世の動きに置いていかれたビルの内部を、寂しげに舐めている。
燐は夜目が効くため、自然ビル内部に入れば燐が先頭になった。悪魔や人間に気取られない程度に、青い炎を微弱に纏い、雪男の視界を助ける。
音を立てぬようにいくつもある部屋をひとつ、ひとつ、確認していく。最も、中には壊れて上手く開かない扉や開けたらいかにも音の出そうなものばかりだったので、これまた聴力も人のそれではない燐が耳だけで気配を感じ取って、
いくつかの部屋に当たった。別ルートから来ているだろう残りの二人は先に非常階段で上階まで上って下に降りながら部屋を確認しているはずである。
会話はもちろんない。全てアイコンタクトかジェスチャーだ。
そうして、一階から二階へ移り、二階の一番左から四つ目の扉に耳を当てたとき、
たぶん、いる。
と言いたげに燐は扉を指差した。見ればホコリとアカの溜まった廊下に、明らかにこの部屋に向かっていただろう足跡が一つ。主犯の祓魔師かブローカーのどちらかはビルに入り廊下を歩いて
部屋に侵入し、もう一人は鍵を使って直接部屋の中に移動したのだろう。
しばらく身を潜めて、別ルートからの二人が来るのを待つ。しかし、なかなか現れなかった。もたもたしていると取引が終わり、逃げられてしまう。
どうする?と言いたげに燐が首をかしげた。雪男は作戦通りにいかなければ実行はしない固い頭の持ち主だが、三分すぎても仲間がやってこないのに業を煮やした。
燐と違って一つ一つ部屋を開けて確認しているだろうから、時間がかかっているのだろう。携帯からメールはしたが、気付いていないのか返信がない。
ここで取り逃がしたら本部から姉がどういわれるかわかったもんじゃない。そう焦っていたのもあった。だから、いいよ入ろう、と燐を目線で促す。
どこん!
途端、見事な怪力で扉を蹴り開けるというよりは粉砕した姉に、ああもう本当にがさつなんだから、と呆れつつも銃を構えて部屋に向ける。
「動くな!」
燐の透き通った声が部屋に響く。
果たしてその部屋の中にいたのは、祓魔師のコートに身を包んだ…燐と雪男も知らない男性。年はざっと30代半ば。
顔立ちからして日本人ではない。おそらくイタリア人だ。なるほど。それだけで本部に関わっているかもしれない人物である。
掘りが深く、二重で灰色の目を驚愕に見開いていて、金髪の頭には数本の白髪が目立っていた。
そして、今まさに誰かに対して鍵を渡そうとしていた瞬間だったのである。よしいいタイミングだった。と雪男はほくそ笑む。見たところ悪魔の気配もない。
麻酔弾でことたりるだろう。雪男は威嚇のために銃を向けながら、そのまま捕獲してやるつもりだったが、
「…あんたは…」
という燐のどこか呆然とした言葉に、初めて姉の様子がおかしいことに気付く。青い目が、
男を見つめている。それは祓魔師の男の方ではなく、こんな状況だというのにゆったりと部屋の中を歩き、月明かりの漏れる窓の側まで移動して、顔のはっきり見えた男に向けられていた。
青白い顔をした髪の薄い茶髪の気弱そうな、初老に差し掛かっているのだろう男。
「…あんた、あの時の」
「姉さん、あいつ知ってるの?」
こくん、と燐は頷いた。それを見て、初老の男は、不恰好に口の端を吊り上げた。笑うことにいかにも慣れていない、そんな笑みの形だった。
「やあ、ファウストさんが連れていたあのお嬢さんじゃないか…あの時は妻が失礼したよ」
それはメフィストと行った舞踏会で、メフィストに言い寄っていたアジア系の女と腕を組んでいた男であった。
「祓魔師だったのかい?いやいや、見抜けなかった。といってもまだあの頃は私じゃなくて、私の部下がブローカーを努めていたんだけどね、今夜は気まぐれで私自ら
赴いてみたんだけど、タイミング悪かったねえ」
年齢より深いかもしれないシワが醜く歪んだ。獅郎とそう年は変らないかもしれないのに、獅郎よりもずっと年を取っているような印象を受けるシワである。
「…あんた、なんでこんなこと!!」
「姉さん!」
雪男の叫びと同時、祓魔師の男が顔を歪めて懐から銃を取り出した。竜騎士なのだろう。雪男はその銃口から弾が放たれるより早く発砲したが、
軽く避けられた。年齢からして自分達より経験は上だろうとは思ったが、身のこなしもなかなかだ。しかし相手が態勢を整える前に、雪男も素早く銃口を向ける。
ぴたり、と銃を構え直そうとしていた男の動きが止まった。何かイタリア語で悪態らしい言葉を吐いている。
「銃を下ろせ」
本当ならば悪魔に向けるべきものを人に向けている。だからこういう仕事は反吐が出るし、誰もやりたがらないし、全て姉に押し付けるんだ。と雪男は湧き出る苛立ちのままに、
イタリア人の男に銃を向ける。男は悪態をまだつきならが、銃を床に置きホールドアップをした。
「あんたも、大人しくしててくれ」
燐が初老の男に向かって懇願するように言った。何も会話はしなかったとはいえ、一度は面識のある人物だ。その上、悪魔には憑依もされていないし悪魔落ちもしていない。
悪魔の気配が一切しないのだ。第一、悪魔が関わっていたのならあの舞踏会でメフィストがいち早く気付いていたはずである。人間だから。
人間自ら引き起こしていたことだったから、気付かなかったのだ。
初老の男は、ゆっくり、と腕を上げる。しかし片方の手には銃を。もう片方の手の中には、まだ鍵が握られていた。しかも、
祓魔師の男に気を逸らされていたせいだろう。
初老の男はいつの間にか、部屋にある非常階段扉の直ぐ近くに立っていて、もう鍵穴に鍵を差し込んでいるのである。
ただまだ開錠する前だ。その銃も鍵も下ろして、という燐の声が聞こえているはずなのに、
初老の男は急に笑みをなくしてぼうっと宙のどこかを見つめだす。
「…妻にね、認めてもらいたかったんだよ」
「動機の話は本部に貴方達を連行した後でいい。こっちに来てください。その銃も鍵も下ろ」
「妻はいつも私を見下していた」
男は会話を止めない。怪しい動きをする前に、と雪男は麻酔銃を撃ちこもうかと考えたが、同時に発砲されるだろうし麻酔が回る前に鍵を使って逃げられる。その間にこの祓魔師の方が何か仕掛けてきたら、と考えるとむやみに撃てなかった。
「男遊びも止めてくれなくてね。ああ、君にもあの時は本当に失礼なことをしたと思っているよ。妻の代わりに謝ろう。そうやって何度妻の代わりに頭を下げてきたんだろうね、私は。
不倫相手の男の妻に子どもに時には会社に。本当に滑稽だとは思わないかね?それでも妻のために家のために私なりに尽くしてきたつもりだったんだよ。
でも妻は一度も私を認めてはくれなかった。だから、見返したくてね」
虚ろな目が腕を上げて跪いている祓魔師に一瞬向けられる。
『婚姻しているのに常に別の男との噂が耐えない女だ。夫は名のある貴族の出自だが、
今は落ちぶれているという話だ。所謂政略結婚だな。おまけに婿養子だから頭が上がらないのさ』
あの舞踏会でエンジェルが言っていた言葉を思い出す。
「そして、何年か前、妻が男関係のせいで相手の妻から恨みを買ってね。悪魔を差し向けられたんだけど、金にものをいわせて祓魔師を雇ってなんなく解決させた。
その時にいたのが、この男だよ。それからはそれきりだったんだけど、また妻が最近騒動を起こしたとき…これは悪魔は関係ないただの嫌がらせだったから、
日本支部のファウストさんも把握してなかっただろうけど、念のためにって本部から家にこの男が派遣されてね、ああまたか、とお互いなんとなく気があって。
そしてこの男が金に困っていることを知ったんだ」
日本語は不慣れなのか、それでも部分的に理解していたのだろう。祓魔師の男は何事か喚いていた。ただ支離滅裂で動揺している。
雪男には「ギャンブルで金が」という部分が聞き取れた。
「そいつは金に困っていた。私は妻を見返したかった。私でもこんなに凄いことができるんだよ、って。その便利な鍵を富豪達に売れば莫大な金になるよ特に
違法な取引を商売としている人達にとっては足のつかない最高の代物だ、私は金なんていらないから報酬は全てあんたにやろう、ともちかければ、たやすく乗ってね」
でも、もうおしまいだ。
がちゃり。
鍵が回され扉が開けられたと同時に、その扉の向こうに一瞬見えたのは豪華絢爛の部屋であった。一瞬だけだったが、
メフィストの部屋とはまた趣味の違いすぎる中国風とイタリア風のごちゃまぜになった趣味の悪い部屋。そこからなだれるように、黒いスーツに身を包んだ、女が一人。
男の妻であった。
しかも手足を縛られ、口をガムテープで覆われて。恐怖に見開いた目は、化粧を一切ほどこしてないもので、小さく細くてまるで狐のようだった。あの時と変らない、
長い黒髪がばさりと流れる。男は妻の襟を掴むと、すばやく銃をその妻の後頭部に当てる。ガムテープで遮られて声にならない妻の悲鳴。
「お、おい!やめろそんなバカなこと!!」
「武器を全部下ろして」
「姉さん」
あの男の持っているのは人を殺すためだけの銃だ、と雪男は自ら銃をおろし、燐も戸惑いながらまだ抜いてもいなかった倶梨伽羅を下ろした。祓魔師の男はその隙に銃を取り戻そうと手を伸ばしたが、
おっと君もだよ、という初老の男の言葉に手を止める。最早、祓魔師の方は青ざめている。最初から男の方に仲間意識などなかったのだろう。
「…でもね…つい、さっきね、
妻に私はこんなにすごいことをしたんだよ、君が裏でやっている仕事よりも何倍も危険なものをと言ったんだけど、妻は鼻で笑って信じてくれなかった。
それどころか『本当にそんなことをしているのなら、祓魔師達に突き出してやるわよ。あんたなんていらないんだからこのクズ』ってね。…もう何がしたかったのかわからないよ。
それでも妻を愛しているんだから、妻もだけど私も大概だ」
泣いているのか笑っているのかも判別できない歪んだ顔で、初老の男は妻の腕を掴むと無理矢理立たせる。そして、懐から先ほどの鍵とは形状がまったく異なる鍵を、
鍵穴に差して、扉を今一度開いた。その向こうは暗すぎて何があるのかわからない。そして一度きりの役目を終えた鍵を、男は足元に放り、踏み潰した。
金属のくだける音がした。
「…やめろ、なあ、銃を置いてくれ!」
「…妻にね、認めてもらいたかった…。夫として男として」
一瞬、燐の顔が泣きそうに歪んだのを雪男は確かに見た。
「でも、もうどうやっても無理なんだとわかったから、誰にもわからない土地で一緒に死ぬことにしたよ。
これで最後にしようと決めていた。さっき、決めた。かわいそうだねえ、私の妻は。さっき、私を認めてさえくれればこうはならなかったのにねえ」
かわいそうにねえ。
ぎい。
錆びた扉がさらに開けられる。手足を縛られ、無理矢理腕をつかまされた妻は、涙で顔をぐちゃぐちゃにしていた。そこには、あの夜見たような勝気なものは一つも見られなかった。
さあ、あっちで一緒に死のうか。私達二人だけかと思うぐらいの静かな場所だから、と最後に夫は甘く囁いた。
「動くな、銃を下ろせ!」
夫の手がまさに妻を扉の向こうに放り投げる瞬間、ようやく部屋にたどり着いた祓魔師二名のうち一人が銃を構えて、一瞬部屋の様子に驚いてはいたが、すかさず麻酔弾を発砲した。しかし、
人質を取っている初老の男の方ではなく跪いて銃も捨てている祓魔師の男の方だったのだ。撃たれて声を上げ、イタリア人の男は床に倒れた。
「馬鹿!なんでそっちなんだ!!」
雪男が叫びながら床に置いた銃を拾う前に、燐は駆け出していた。新たな二人の侵入に初老の男が動きを止めた隙に。
距離は3メートルほどだ。尋常ではない脚力もある燐なので一気に間合いを詰めた。その一瞬に驚愕した相手から発砲されてそれを避けて後ろの雪男達に当たるよりは、とまともに右肩に食らったが、
そんなことどうでもよかった。放り投げられて一瞬、宙を浮く女の体を掴み、暗く口を開けている空間ではない、雪男達のいる部屋の方に引っ張り上げたのである。
その時、燐の体をどんと暗く口の開ける空間に押し返したのは、燐の腕から妻を取り戻そうとした夫の腕であった。
あ、と口を開けたが、喉からひゅうと空気が漏れただけで形にもならなかった。
ばたん、と扉は閉められた。
燐の視界は真っ暗になった。
「姉さん!!」
雪男は迷うことなく、がぁん、と耳に痛いぐらいの音を上げて麻酔弾を初老の男に向けて発砲した。夫は妻を燐から取り戻そうとしたときに銃を放り投げていた。
おまけに扉を閉めやがった!と雪男は一瞬頭が真っ白になったが、男が麻酔弾に倒れるのと同時に扉を開ける。しかし、案の定、その向こうには錆びた非常階段が続いていただけで、
燐はいない。
「この、クソ野郎!!」
麻酔弾でぐったりしはじめていた男の襟を掴み、雪男はその薄い額に銃口を押し付けた。お、奥村先輩…と明らかに戸惑った後輩の声が聞こえたが、
おまえらはその女をなんとかしてやれ!と怒鳴れば未だ床に這いつくばったままだった女の縄を慌てて解き始めた。
「言え!その鍵はどこに繋がっていた!?姉さんはどこに行ったんだ!!」
早くも麻酔弾が効き始めているのだろう、ぱくぱく、と口を開けたままわずかに男は言葉を発する。しかし、丁度ガムテープを取られた妻の悲鳴に遮られて上手く聞き取れない。
妻と新人達の揉めあう音。雪男は、静かにしろ!と一喝してから男の言葉を聞き取ろうと耳を近づけたが、
どん、と銃声が響いた。
弾丸がわずかに雪男の横を掠めた感覚がしたかと思えば、だらん、と完全に男の体から力が抜けた。
腹に穴が開いて、そこから血がにじみ出ていた。
「な、なんてことを…」
竜騎士の祓魔師の愕然とした声。
撃ったのはもちろん雪男ではない。
縄を解かれた瞬間に竜騎士の男の腰にあったもう一丁の聖銀の銃を奪って、妻が夫を撃ったのだ。
妻の茶色い目は狂犬病を発症した犬のようにぎらぎらしていて、確かな殺意が見て取れた。
「…くそっ!!」
ポーチからありったけの包帯と薬を取り出し、すでに意識のない男の腹部を止血する。血がどんどん溢れてくるが、詠唱騎士の方の祓魔師が戸惑いながら止血を手伝った。
なんてことを!と女から銃を取り上げ拘束しながら竜騎士の叫ぶ声と、あいつが悪いのよ正当防衛よ私を殺そうとするからあのクズ!と狂ったような甲高い女の声。
しかし、雪男にはそのどちらも聞こえていなかった。適確に応急処置をほどこしながらも自分の心臓は異様なぐらい早く打つ。
大丈夫だ、と雪男は自分に言い聞かせる。大丈夫だ、大丈夫だ、急所は外れているすぐに病院に連れて行って弾を取り出せば助かる助かるはずだ、助かってもらわないと困る。
雪男は残りの応急処置を詠唱騎士に任せて、姉の居場所を知っているだろうもう一人。裏切り者の祓魔師の麻酔を抜いてすぐに姉の居場所を聞き出さなければと部屋を見渡したが、
「…いない…」
祓魔師の男は姿を消していた。
床には麻酔弾の薬莢と注射器だけが転がっていた。そして開かれた窓。思わずそこから下を覗き込んでも、男の姿はなかった。医工騎士の称号も持っていたのだ。こっちが争っている間に自ら麻酔を中和して、
窓から逃げた。逃げられた。
床に倒れて顔を真っ青にさせている初老の男は完全に意識を失っている。助かってもいつ意識が戻るのかどうか。
その男が踏み潰してしまった唯一扉へ繋がる鍵はもともと脆い素材でできていた古いものだったのだろう砕け散っていた。
カケラを探し出して復元するのも困難だ。そもそも一度壊れた鍵は復元しても修復しても元の機能を取り戻すことはできない。
祓魔師の男には逃げられた。鍵を使っての逃亡なら捕まるまでに時間もかかる。
姉さんの居場所がわからない。
雪男は、男の血のせいで真っ赤に染まる手のまま、震える手のままに咄嗟に携帯電話を取り出した。
雪男の中で真っ先に浮かんだのは、本部でもなく仲間の祓魔師でもなくとうに現役は退いたはずの養父の顔だった。
そして、一瞬、姉を傷つけてばかりの悪魔の顔も思い出したが、雪男が選んだのは当たり前のように養父の番号だった。
血でぬめる自分の手に「クソッ!」と吐き捨てて、
震える指で養父の携帯へ電話をかける。
数回のコール音がやけに長く感じた。どくどく、と耳から自分の心臓の打つ音が煩い。
守るって誓ったのに。
カタカタと歯がなるのを必死で唇を噛んで抑える。
また姉さんがいなくなってしまった。
三歳の時のように自分の目の前からいなくなってしまった。
早く出ろ何をやってるんだ早く出て神父さん神父さん助けて神父さん。
なんでこんなことに、なんで。姉さん、姉さん、なんで。
---------僕のせいだ。
呆然と立ち尽くす祓魔師二名と悔しそうに床に座り込んでいる女。
そして床に転がったままの倶梨伽羅は、月明かりに照らされて青く滑らかに輝いていた。
2012.7.8