こういうきっかけ

 

その日の夜、メフィスト・フェレスは非常に疲れた状態で帰宅した。
正確にいえば疲れていたというよりは不機嫌であった。久々に直接ヴァチカンの召喚に応じてみれば、案の定、今現在メフィストが引き取っている「サタンの娘」 についてネチネチネチネチ尋問された。なに、定期的にあるいつものことだった。しかし、毎回毎回三賢者はしつこい。そんなにねちっこく言われなくても毎月規定どおりに、 きちん、と「サタンの娘」である「奥村燐」の報告書を送っているではないか。それなのにそれでは当然安心できないのがお堅い上の方々である。やれ人間に危害を加える心配はないか、 暴走はしていないのか、炎のコントロールはできているのか。それの不躾な質問の数々。米神に浮かぶ血管を自覚しながら、よく耐えたものである自分。

あんなにいい子なのに、祓魔師としても充分騎士団に貢献しているのに、頭のお堅い上の連中はまるで燐を信頼しちゃいない。

まあ、騎士団に悪魔の王の娘を信頼しろというのも無理な話なのかもしれないが。メフィストは、人に危害を加えるどころか人懐っこくその辺の人間よりよほど純粋で清らかで 優しい心の持ち主である燐の笑顔を思い浮かべる。

メフィストが奥村燐を、藤本獅郎から引き取ったのは燐がわずか三歳の時の話だった。

覚醒するまで獅郎が燐を育てる。そのような契約でサタンを倒す武器として育てるため一旦、覚醒するまで獅郎に預けたのだが、予想外に炎の力は早く成長してしまったため、 わずか三歳で覚醒。 しかもその覚醒が、小さな体で箒を持って修道院の庭を掃除していたとき木の上から落ちてきたでっかい毛虫に驚いたから…というなんとも情けないきっかけであった。 おかげで修道院の庭はちょっとしたボヤ騒ぎになったわけだが。
そして当初からの計画通りわずか三歳で覚醒してしまった燐をメフィストが預かったわけである。
覚醒してしまったからには悪魔としての力の使い方や炎のコントロールはメフィストが教えたほうがいいし、 実際、メフィストだって燐を鍛えるための計画を日々練っていたわけだ。しかし、こんなに早いはずじゃなかった。
当時、メフィストは別に今生の別れじゃないしちょっと住むところが変るだけで(そして獅郎の半ば脅しにも近い希望で)、 アポさえ取ればいつでも燐に会えるわけで(最近のそのアポさえとってくれない悪友とその息子の方だが)。それなのに別れを惜しみまくりいい年して泣きまくる獅郎と 超音波のごとく泣き声を上げる甘えっこでお姉ちゃんっこの弟にげんなりしつつ、メフィストは小さな燐を引き取ったのだ。
だが、意外なことに燐は泣かなかった。またあそびにくるね、と言わんばかりにニコニコ笑って手を振って三歳まで育ててくれた養父と唯一の弟と修道院に別れを告げた。 それを見た時のメフィストはなんとも呑気で頭の弱そうな子だな、と思った。きっとちょっとだけ近所の家に泊まりにいく、そんな軽い感覚でしか思っていないのだろう、と。 ため息をつきながらさてこんな小さい子の世話は屋敷に戻ったら使い魔にでも任せよう、と思って燐を連れて車に乗り込んだのだが、

その途端、燐は声をあげずに大きな青い目からぼろぼろと大粒の涙を流したのである。

小さなぷくぷくした手でズボンの裾をぎゅっと握って、口を思い切りへの字にして、鼻面に子犬のようにシワを寄せて。ぼろぼろぼろぼろ。 でも決して泣き声は上げなかった。雪男に聞かれてしまうかもしれないと、思っていたのかもしれない。
意外なことに、あの小さな小さなレディは自分の置かれる状況というのを理解していたのだ。
結局、屋敷につくまで燐はただ涙を流し続けた。
メフィストはその大粒の涙に、不覚にも同情してしまったのである。
その最初の同情が厄介であった。屋敷に来たばかりの頃の燐は人恋しいのか、ぬくもりが欲しいのかよくメフィストの寝室の大きなピンクのベッドに入り込んで寝ていることがあった。 もちろんメフィストは邪魔だなあと思い追い出そうとしたのだが、はた、とそのベッドの中で胎児のように身を丸める燐の頬に涙の流れた痕を認めて、とても追い出す気になれなかった。 悪魔なのに小さな小さな女の子に憐憫を抱いてしまったのである。それからベッドに勝手に入り込むことを許し、何日か経過するとデスクで仕事をしているメフィストの膝に勝手に座ってくるようになったが、 それも許した。 マントの端をぎゅっと握って寂しさに耐える燐が健気だったのだ。

その最初のふれあいを許してしまったことが、メフィストの娘バカに至る第一歩だと、当時は知るよしもなく。







やたら長く感じたヴァチカン本部の廊下を歩いて、適当な扉に鍵を差し込む。ピンク色に染められて赤く大きなルビーがひとつ埋め込まれたその鍵はメフィストの屋敷直結のものであった。 がちゃり、と扉を開ければそこはメフィストの屋敷の中でメフィストが望む場所へ主を導く。
メフィストが望んだ先は真っ白な家具で統一されたやたら広いキッチンであった。まだ夕飯を作ったあとの食材とか調味料の匂いが残っていて、それがメフィストのすきっ腹を刺激する。 そこからこれまた白とピンクのテーブルクロスで彩られたテーブルへ。
「燐、ただいま帰りましたよ」
そうして愛娘のように今まで育ててきた女の子の名を呼ぶ。
早いことにメフィストが燐を引き取ってからすでに13年の年月が流れていた。悪魔にとって13年なんてあっという間の月日であるはずなのだが、 燐を引き取ってからというもの一日一日がとても濃厚で凝縮された13年は、すでに物質界に降り立って600年は過ぎようかというメフィストにとっても早かったような、 そんなあっという間の13年間であった。
「…燐?」
返事がない。しかし当然だろう。すでに時刻は夜0時を回っていて燐ならばとっくに眠っている時間である。ああ今日の燐との時間がなくなってしまった。 メフィストは肩を落としそして脳裏によぎったあのお堅い狸共のしわくちゃの顔やきつい口臭を放つお小言を思い出してしまい眉間にシワがよる。
しかしそんな眉間のシワのテーブルの上にきちんとラップをかけて並べてある夕飯を見れば簡単に解かれてしまった。
青いストライプ柄のランチョンマットの上には、鯖の塩焼き、出汁巻き卵、ほうれん草の胡麻和え、筑前煮、そしてミソスープはまだ鍋の中にあって温めて食べろということらしい。 思わず今日の嫌な出来事なんて吹っ飛んで顔がだらしなく緩むというものだ。私の好きな和食ばかりふふふ、と思わず独り言まで漏れた。 そっと手をかざしてみればさすがに冷えてしまっている。今日は遅くなるとは事前に連絡してあったがさすがにここまで遅くなる予定ではなかったので、 せっかく燐が作ってくれたものを冷ましてしまったのは本当に残念であった。
そう、この料理、全て燐が作ったものである。
燐が料理を始めたのは覚醒してから2年後、わずか5歳の時からだった。とにかく食生活のめちゃくちゃなメフィストに幼心ながら心配したのか、ちゃんとしたもの食べさせないと!と意気込んだ燐の記念すべき初料理は卵焼きで、 塩が多すぎて思わず噴出しそうになってしまったものだが、せっかく燐が作ってくれたのだからと涙目になりなが 完食したのも今ではいい思い出だった。それがきっかけとなり、それからずっと料理を続けて今ではプロ顔負けの腕前である。しかも、朝、昼のお弁当、夜を毎日欠かさず作ってくれる。 会食などがある日は夕飯はメフィストの分はないけれど、メフィストはどんな高級なレストランの料理よりも燐のご飯の方が好きであった。 温かくて優しい味で、なによりメフィストのために、と作ってくれているのだと思うと、顔がだらしなくなってしまうのも許して欲しい。 今日の和食を見るとさらに腕を上げたようだ。一見、普通に見えるが、行儀は悪いと思いつつも我慢できなかったので、出汁巻き卵を一つつまみ食いする。 呻るほどうまい。
本当にいつの間に、こんなに成長して。
メフィストは口の中に広がる出汁の風味が最高の卵焼きを味わいながら、うんうん、と頷いた。
本当にあっという間の13年間であった。
その間に、燐はすくすくと大きくなり女の子ししてはやや背が高くなったが、小さかった手足もすらりと伸びて、引き取ったときはちんちくりんだった短い髪も、 今ではとてもキレイに伸びていて腰にいくまでの長さがある。それは艶を持っていつも輝いている。まん丸だった目は少しきつめに釣りあがったが、睫は長く伸び何より洋風のお人形のような愛らしさがありながら純日本美人のような鋭さも持ち合わせ始めていて、 まあなんていうのか本当にメフィストも、なんといつの間に?時々不思議に思うほどの美少女に成長したのである。…残念ながら性格は三歳まで獅郎に育てられていたせいか、 すっかり獅郎に似て粗暴になってしまったし言葉遣いも男っぽいままだったが。これだけはいくらメフィストが礼儀正しい淑女に育てようとしても無理だった。 三つ子の魂百までとはよくいったものだ、日本人のことわざってすごい。それがちょっぴり残念に思わなくもないけれど、そんな粗暴さもやはり燐なのだ、と なんだかんだで受け入れてはいる。
そうやって見た目の体が成長して、こっちもちょっと残念なことに頭は弱いままだったが、15歳でなんとか祓魔師の試験に合格。16歳になった今、 祓魔師として任務に赴いて活躍をする日々の燐であった。

本当にあっという間でしたねえ。

今日に限ってなんとなく感慨に耽りながらとりあえず上着を脱いで浴衣に着替えようとリビングに向かえば、そこには勝手にソファに座って勝手に新作のゲームを大きなテレビに映している、トンガリ頭の緑色の塊がいた。
「…アマイモンいたのか」
「はい、いました。兄上、オカエリナサイ」
メフィストの方を振り向きもせずにもぐもぐスナック菓子を食い散らかしながら一応、挨拶をする弟にため息をつく。 アマイモンがメフィストの屋敷にに出入りするようになったのは燐の本格的な訓練の相手に、とメフィストが二年前から虚無界に呼び出してからずっとのことだった。 最初こそ、燐とそれはそれは屋敷が半壊するほどのめちゃくちゃな訓練(という名のただのケンカ)を繰り返しては怒ったメフィストに鉄拳を食らうばかりであったが、ケンカの末に芽生えた友情というか兄妹の情とでもいうのか。 今ではアマイモンと燐はすっかり仲良しになって、いつの間にか屋敷に入浸るようになりちっとも虚無界に帰らなくなったのである。主に、燐の手料理目当てでもある。 胃袋を掴まれてしまった弟は、今日もメフィストより先に燐の夕飯を食い尽くしたようだ。リビングのテーブルにカラになった食器があった。
ゲームに夢中なのかもう話さなくなったアマイモンに痛む米神を押さえて、とりあえずカウントしてカラの食器をキッチンまで移動させる。ぼふん。ピンクの煙に包まれて食器は消えた。 あとで洗わせておかないとな、と思いつつも自分も早く夕飯を食べたかったのでゲームに夢中な弟は放っておいてとりあえず、先にシャワーを浴びることにした。 本音、すぐにでも燐の夕飯にありつきたいのだが、 思ったより(メンタル的)に疲労を感じたので飯を食えばそのまま風呂にも入らず寝てしまいそうだった。朝起きてからシャワーを浴びればいいのかもしれないが、どことなく体にしみついたあの年寄り共の加齢臭をさっさと洗い流したかったのである。
思えば何時もならば夕飯直行であったのに、この日に限って違う行動に出てしまったわけだ。
着替えだけ持ってバスルームに向かう。ぺたぺた床を歩きながら今日の嫌な尋問を思い出しそうで無理矢理思考をかわいい燐に切り替えることにした。
後に思えば、これこそがメフィストをぼうっとさせていた原因である。
本当にあっという間の13年間でしたねえ。
すでに今日だけで何度か思ったこと。最近、燐とは任務だのなんだのとすれ違う日々が続いているのだが、それでも燐はメフィスト(とアマイモン)のご飯を毎日作るし、 可能な限り食卓や電話やメールで連絡を取っている。主にメフィストがそうしているのだが。教養は必要だと、燐の頭では当然受からないメフィストが創設した正十字学園に、 なんというかほぼ裏口入学な形で入学させて、通い始め、さらに祓魔師になってから燐の世界は格段に広がったものと思う。日常の中で交わす会話の中で、友人になったのだろう人間の名前をよく聞くようになったし、 休日などは時々その友人達とショッピングに出かけたりするようになっているのだ。それを少し寂しいとは思うが、楽しそうな燐を見ているのも好きなので、自由にさせている。
そのうち、彼氏ができた!とか言い出したりするんでしょうか。
ふと。自分で考えてしまったことに気分は急降下した。
燐の立場上、人間の男と付き合ったりするのは難しいだろうが相手によっては不可能なわけじゃない。騎士団は小うるさいかもしれないが、燐だってそのうちそういう人を見つけてきても可笑しくはない年齢なわけで。
わかってはいるが、想像するだけでおもしろくない。
しかし、燐にいつか想う人ができるというのは現状、メフィストが抱えている問題の解決になるのかもしれない、ということも確かでちょっと複雑であった。
現状、燐にある問題というのがこれから少々デリケートなことであった。
その問題を提示する前に、メフィストはちょっとナルシストで自信過剰(というか本当に実力はあるのだが)ではあるのだが、 根本は物質界というものをひとつの大きな演劇として楽しんでみることができるほどの徹底的に客観的視点に立てる冷静さと融通のよさがあるとだけ誤解のないよう言っておこう。 それらを踏まえた上でメフィストは確信している。

娘のように育ててきた燐は、メフィストに親とか兄弟に対するのとは違う、情というもの抱いて…いや…ぶっちゃけると、恋をしているのだ。

メフィストがこれに気付いたのはもう一年も前である。決して燐の口から告げられたわけではない。むしろあれでも態度に出さないよう振舞っている燐であるのだが、 なんというか燐はもともと自分の感情を隠すのがヘタだし、 さらに鋭いメフィストはけっこう早い段階でそれに気付いてしまったわけであった。
燐はメフィストに恋をしている。
時々、メフィストを追う視線やふとした時に指先が触れたりメフィストがふざけて髪の毛に触れたときに見せる反応。
顔を真っ赤にして金魚みたいに口をぱくぱくさせて、終いにはメフィストを蹴り倒して照れ隠しをしたり。
新作の料理をメフィストが口に運ぶとき、固唾を飲んでそれを見守り、おいしいですよ、と言えば蕩けた顔で、よかったあ、と笑ったり。
風呂上りのメフィストを見たとき、いかにも熱に浮かされたような目で濡れたままのメフィストの髪を眺めていたり、極めつけはソファで眠ってしまっていた燐を起こそうと肩に触れたら、寝ぼけていた燐が心底溶けた艶やかな笑みを浮かべて、
「メフィスト」
と首に腕を回して抱きついてきたこととか。これにはさすがに焦ってすぐに燐を引き離したものだ。 (ちなみに燐はそのまま眠ってしまってこの件については覚えていない)。
まあなんというか、いくら鈍い男でもこれはちょっと違う意味で好意をもたれているんだろうなあ、と気付くぐらいのことが数知れず。 しかも本人これで隠しているつもりである。
メフィストはそんな燐の恋心に正直、困り果てている。
三歳の頃から今まで育ててきてうっかり親としても兄としても情の芽生えてしまったメフィストは今更、燐に異性としての好意を抱けるとは思ってはいない。 確かに燐は美少女に成長したしそれを喜ばしいとは思うが、それは親が娘の成長を喜ぶものとなんら変らないだろうと思っている。そもそも燐は、三歳まで獅郎の元に育てられたおかげか倫理感は限りなく人のものである( そもそも悪魔には倫理も何もないのだが)。第二の親代わりであり、物質界のそれとは定義が随分違えど一応兄にも当たる自分に抱いてしまった恋心に燐が葛藤していることもメフィストは察している。 時々、切なげに自分を見てくるのが何よりの証拠だ。メフィストはそんな燐の切ない視線に気付かぬふりをしている。
何故なら、メフィストには燐の気持ちに応えるつもりがまったくないからだ。
メフィストもまた物質界暮らしが長い。別にそれに感化されて常識まで人間染みてきたわけではないのだが、 なんというか、ここまで娘として育ててきた燐に今更欲情する自分というのは想像できないしあり得ないな、と思っているからだ。
そこには第二の親として兄としての情と常識と、年長の悪魔としてまだ生まれてたった16年の娘に欲情してしまうことへ対するくだらないプライドみたいなものがあることも自覚してはいる。
でもまあ、世界が広がればそのうち消えてなくなる恋心でしょうし。
要するに身近にいる年上の男に対する憧れに近いものなんだろう、とメフィストは推測していた。それならば、これから先、燐が本当の恋をしてしまえば脆く崩れ去っていくものだ。 そんな脆いものを成就させることが虚しいことも知っているつもりだ。だからメフィストは燐の恋心に応えるつもりはないし、また燐も自ら告げることはないだろう。


「…そして、そのうち、彼氏ができた!とか言い出したりするんでしょうねえ」

思わず声に出てしまう。それはそれで、なんというか言い表せない感情が渦巻くのでメフィストはとりあえず燐が未来に抱くであろう誰か他人に対する本当の恋というものを想像するのをやめておいた。 やっぱりなんとなくそんな想像楽しくない。
それに少しだが、燐が自分に恋心を抱いているこの現状に実は密かな優越感を抱いていたりする。
三歳までとはいえ未だ唯一「父さん」と呼ぶ獅郎のでもない弟のでもない、他の誰にも抱いていない感情を向けられているのは、存外気分がよいものだった。 それは燐の視線を独り占めできているという、親が子に抱くようなちょっとした独占欲と変らないかもしれないが。
いつかの未来を想像して気分が浮かなくなるよりは現状のこの優越感を楽しむほうがよほど悪魔として正しいではないか。
というわけで、メフィストは現状問題だと思いながらもこの問題を放置しているわけである。
うっかり一人の小さな女の子に親として兄としての情を抱き、随分人間っぽくなってしまっても、メフィストは正真正銘の悪魔である。目先の享楽に弾むことは大歓迎だ。 ようするに、ま、そのうち燐も気付いて自然に問題は解消されるでしょうね。というぐらいにしか思っていなかった。
そうしてそんなことをつらつら回想しながら、メフィストはすでにシャツとスラックスだけの姿になってから、無駄な広さと豪華さを誇る屋敷のバスルームの扉に手をかけたわけである。

がらっ。

扉を開けた途端、流れ込んできたのは甘い甘い香であった。

はて?とメフィストは首をかしげた。

バスグッズの中にこんな香のする入浴剤があっただろうか。もうもうとバスルームを満たしている煙はイチゴのような甘い、金木犀のような咽かえるほど艶やかな芳香、または水仙のようなきりっとした涼やかな香。 そんな何かわからないごちゃ混ぜになったような不思議な香が満ちていた。
…誰か新しい入浴剤でも入れたのか。
メフィストはそう考えた。メフィスト自身は入浴剤にこだわるので高級な入浴剤をそれこそいくつも購入していて、時々、燐がいたずらに色んなものを混ぜてお風呂に入れてしまっていたりする。 なるほどやはり燐の仕業か、とため息をつきそうになってから、
ふと、気付いた。

あれ---------------------



「…………」

メフィストが扉を開けたため少し晴れた蒸気の中から現れたシルエット。
それは呆然とこちらを見つめていて、

ああ、なんだ燐か。

と晴れた蒸気の中から現れたその子に、まず呑気にそんなことを思ったのだが、まあ、なんというか次の瞬間、メフィストは岩のように固まってしまったわけである。



何故なら、燐は、素っ裸だったからだ。



驚愕に目を見開いてメフィストを見つめる青い目。 風呂上りだったので少し赤くなった頬。黒髪の巻きつく長く細い首の下にはしっかりとした鎖骨。 そのさらに下にある…丸い二つのふくらみもメフィストはしっかり見てしまったわけである。 救い(?)は乳首が髪に隠れていたことか。それでもばっちりそのたわわな白い膨らみは丸見えだった。 ぽよん、と揺れて張りのある丸くて白い。服の上からでは思いもしなかったほどの大きさのあった……おっぱいであった。
うん、しっかり見た。
見てしまった(たぶんDぐらいあった)。
そして濡れた長い黒髪が真っ白な体に巻きついていて、その黒髪の巻きつく体の線を追えば、見事に締まったくびれのある細い腰。そこからすらっと伸びる長い足。白い。 そして細いのにきゅっと締まった逞しさもある太腿に丸く盛り上がった曲線を描くお尻とか。

うん、とりあえず燐はパンツは履いていた。

よかった、とにかく下だけでも履いていてくれてよかった。

とこれは後にメフィストが思うことだが、とにかくメフィストはその下着も見てしまった。ばっちりしっかり。
そこに見たものに対する走馬灯のごとき感想。

クロ猫さんのワンポイント。

ぐらっと目眩がする。
文字通りクロ猫さん柄であった。以前は門番をしていたのに、いつの間にか燐のご飯目当てで屋敷にいついてしまったあの「クロ」猫さんとそっくりのワンポイントだったのである。どこでそんなの見つけたんだろう。 と疑問に思うのは後にして、とにかく、そんな下着もメフィストはしっかり見てしまったのである。

「………」
「………」

長々しく燐の裸体について書き綴ったが実際の時間経過は、わずか2秒であった。しかし二人にとっては長い2秒であったかもしれない。

「…しっ…」
「………」
「失礼しましたっっっっ!!」



ばったーん!!















「…兄上、見ましたね?」

ものすごいはや歩きでリビングまで戻り何故か床に両手をついて打ちひしがれていたメフィストの背後にぬっと現れたアマイモンの言葉。 その弟のごとき言葉で、びくうううううう!っと文字通り飛び上がる勢いで振り向いたメフィストの顔をアマイモンは無表情で見つめていた。
「なあななななななななんなん、なにを…!?」
常ならばあり得ないほどの取り乱しっぷりにアマイモンは、おおこれはおもしろい、と内心ほくそ笑む。
「何をって、燐の、」
「うわああああああ!!」
「おっぱいとか、」
「ぎやああああああ!!」
「お尻とか、」
「ひぎゃあああああ!!」
「…下とか」
「下着は履いてたわボケええええ!!」
「…なんだつまらない……ま、それならそれでどんなパンツでした?」

クロ猫のワンポイントでした。

とついうっかり口に出す前にメフィストは全力でアマイモンの首を締めにかかった。

「貴様ああああこの愚弟がああああああ燐が風呂に入っているのを知っていたのなら何故言わなかった!?」
「…ゲームに夢中で忘れてしまた。そういえば『先に風呂入ってくるからメフィストには先に飯食ってろって言っといて』って燐に言われてたんです、はい、 ごめんなさい、兄上離してくださいマジで落ちる5秒前です、ぐふ」

とりあえず、落とした。

伸びてしまったトンガリ頭は床に放置してメフィストは、何故か、意味もなくリビングをうろうろうろうろうろしてしまう。うろうろうろうろ。どうしよう。思わず言葉に出てしまった。
どうしよう。みてしまった。下以外、全部。
とらしくなく動揺しまくる自分に、無理矢理冷静になってみる。いや、何をこんなに動揺している。たかが16歳の娘のしかも本当の娘のように思い妹である女の子の裸体を見てしまっただけではないか。 これでも(燐を引き取ってからはなくなったけど)あの裸体より数倍も出るとこ出ている大人の魅力抜群の魔性の女の裸ぐらいけっこう見てきたわけで。 それに比べれば燐の裸体など。……胸が大きくて若く瑞々しい白い肌に見事な腰のくびれに長く鍛えられた足などの全てのプロポーションはこれまでに見たことがないほどの 健康的で魅力的なバランスを備えた美しさであったが、ああああああ、ダメだ冷静になれ自分!そうではない、あれは燐だった!燐を引き取る前はけっこうとっかえひっかえしていたような、 性的対象の美女達ではない!断じてない!あれは燐だ、娘のように育てて妹のように思ってきて、確かに小学校三年生ぐらいまでは一緒にお風呂に入ったりしていたけど、あああの時は確かにつるぺたな幼児体型であったのに、いつの間にあんなに… 服の上からではまったくわからなかった、あの胸の大きさ、ってそうじゃないそうじゃないそうじゃない…!!

「…メフィスト?」

がたーん!
とメフィストは思わずリビングのテーブルを持ち上げてしまう。自分でも意味がわからない。
背後にいたのは湯上りでしっかりパジャマを着込んだ、燐だった。
「いや、ああああああの、燐…」
とりあえず、何故か持ち上げたテーブルは床に置いて。後ずさりしながら燐を見る。燐はまだ濡れている黒髪を拭きながら、ちゅー、とパックのフルーツ牛乳を飲んでいた。 途端、蘇えってくる先ほどの裸体。ぶんぶんメフィストは頭を振ってあの光景を追い出そうとするが、できなかった。 パジャマの下に浮かび上がってくる先ほど見たもの。メフィストは不自然なぐらい燐から目を逸らしてだらだら冷や汗を流す。
「り、燐…その先ほどはとんだことを…!」
とりあえず謝っておく。正直、青い炎を纏ったパンチを食らうことも覚悟した。年頃なのだ。しかも父親代わりであり兄でもある男に。小学校2年生の時以来、 裸なんて見ていなくてそういう女の子の事情に関する世話は女に憑依した使い魔に任せていただけに、燐の心情は計り知れない。決してわざとではない。 全てはそこに転がる愚弟のせい。そんなことは言い訳せずともわかっていてくれるだろうが、だが、正直、青い炎を纏ったパンチを食らうことも覚悟した。 が、

「あぁ?別にあんなこと気にすんなよ?アマイモンが言わなかったんだろう?」
「…へっ?」

拍子抜けするぐらい燐は普通であった。煩わしそうにアマイモンを蹴飛ばして、フルーツ牛乳を飲むその表情も態度も至って普通。
「あ、あの、燐?」
「べっつに怒ってねーって。ちょっとびっくりしたけどな。でもまあ、今度からメフィストも気をつけろよー。自分は部屋に入ってくるときはノックをしなさいってうるせーくせに。 バスルームの扉もノックぐらいしろよな。広い屋敷だけど基本俺とあんたしかいないようなもんなんだし」
ぶつぶつ文句をたれながら燐はごく普通に、メフィストの横を通り過ぎ、とりあえず、飯食っておけそして食器は洗っておけよ、とだけ告げてゴミ箱にぽいっとパックを捨てて、そのまま自室に行ってしまったのである。

「………」

取り残されたメフィストは、先ほどよりたぶん冷静になれただろう。
ふ、さすがサタンの娘。あの神経の図太さ…正直感服したというか…うん、動揺しまくっている自分がバカみたいになってきた。そうだこういうのってよくある娘と男親のハプニングではないか。 何をそんなに動揺する必要があった。燐は冷静だったし気にしてなかったし。
ふ、と力なく笑ってから、
そうだこういうのってよくある娘と男親のハプニングではないか、ということに考え付いた。 何をそんなに動揺する必要があった。燐は冷静だったし気にしてなかったし。忘れよう。一晩寝て明日になれば全て忘れているだろう。
それ以降メフィストは全ての思考をシャットダウンして飯食って(さすがに風呂には入れずに)一日を終えたわけである。












見られた。



燐はずるずると自室の床に座り込む。
見られた見られた全て見られてしまった。いや下は履いてたけど、でも何故よりにもよってあの一番子供っぽいパンツの時に見られてしまうのだ。いや、他のパンツの時でも見られても困るけど。 とりあえず、履いてただけセーフか、いや、やっぱりアウトだ。
「全部、見られた」
ぼうううう、と顔が熱くなる。思わず青い炎も出てきてしまって慌てて抑えた。最後は冷水のシャワーを浴びて自分を落ち着かせてからなんとかメフィストにあのような発言ができたわけだが、 燐は内心いっぱいいっぱいであった。
だって見られたのだ、しかも、アマイモンならともかく、メフィストに。
好きな人に。
燐はいつの頃からは正確にはわからないのだが、いつからか、メフィストに恋をしていた。 幼くして覚醒して自分は悪魔なのだから周りの人を傷つけないように強くならなければ、と言われメフィストに連れられ泣く泣く修道院を後にしたあの日から、燐の中の寂しさを埋めてきたのはあのメフィストだった。 ずっと。めんどくさがりながらも自分をベッドで寝かしてくれて膝に乗せてくれて、なんだかんだで教育してくれて、第二の親として兄として育ててくれて優しくしてくれた、あの男に。
いけないとわかっていながら、今も恋をしている。
そんな男に裸を見られた。
もう泣きそうだった。あのメフィストのことだ今までだっていくらでも自分なんかよりずっと美人でずっとスタイルのいい女と付き合ってきたはずだ。 それなのに、自分のガキっぽい下着や貧相な足や腰(おっぱいはまあまあだと思うけど)見られたわけで。
「…はは…」
思わず渇いた笑みが漏れる。
何をそんなに気にする必要がある。メフィストは最初こそ焦っていたが、あれは一応紳士を名乗っているのだから年頃の女の子の裸を見てしまったことに対する罪悪感があるだけで、 決して自分の体に思うところなんてないだろう。何に決まっている。だってメフィストは、自分のことを娘のように妹としてしか扱っていない。それなのに何をこんなに落ち込むことがある。 何をこんなに死にたくなるほど恥ずかしく情けなく思う必要だがある。
そうだ、忘れるのだ。幸い、メフィストには冷静に話せた。きっとメフィストだってすぐに忘れるだろう。というかすぐに笑い話にしてしまうに違いない。その方が楽だ。
そうだ、忘れよう。一晩寝て明日になれば全て忘れているだろう。
それ以降、燐は全ての思考をシャットダウンしてとりあえず髪を乾かしてから、倒れるようにベッドに入り込み、一日を終えたわけである。

しかし、燐が眠る寸前まその胸の奥にあったものは、好きな人に裸を見られたという、拭えることのない、ひたすら純粋な羞恥と、 それでもあの好きな人には決して女として見てはもらえないという、たぶんほんのちょっとの悲しさだった。











2012.5.18